第154話 K筋連絡卓には、命令にならない命令が置かれていた
K筋連絡卓。
その言葉は、はじめから正式名称ではなかった。
商務評議会の部屋割り図にも、備品台帳にも、職務分掌表にもない。
だが、ヴィクトル・レーンは当たり前のように言った。
K筋連絡卓へ完了札を戻した。
つまり、そこは存在していた。
正式な机ではない。
けれど、人がそこへ札を置き、人がそこから札を取り、人がそれに従って動いていた。
命令書ではない。
決裁書ではない。
署名もない。
印もない。
それでも、荷は動いた。
C-3正温一梱は、旧礼拝堂から商務評議会一時保管庫へ移った。
端印を失い、名前を失い、外客用という言葉へ変わっていった。
クラリスは、顧問室の机に新しい紙を置いた。
K筋連絡卓確認
ミレーヌは、壁の札を見上げていた。
署名のない命令でも、運んだ手は残る。
「今度は、命令を書いた人ですか」
「はい」
クラリスは頷く。
「ただし、最初から“命令”とは呼びません。K筋連絡卓に置かれた札や控えが、実務上どう扱われていたかを見ます」
「命令ではないけれど、みんなが従う紙」
「ええ」
「一番ずるい紙ですね」
ミレーヌの言葉は、以前より鋭くなっていた。
クラリスは、少しだけ目を細めて頷いた。
「そうですね。命令にならない命令です」
オスカーが資料を並べる。
商務評議会の部屋割り図。
外部顧問控室の備品管理。
連絡卓使用簿。
使丁出入り札。
一時保管庫の簡易札束。
ケイン元参事補佐の顧問メモ。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「偉い方は、ご自分の手を汚さずに机を汚すことがございます」
「机を汚す?」
「はい。直接言わず、机に置く。机に置いたものを誰かが拾う。拾った者は、“机にあったので”と言う」
クラリスは、その言葉を書き留めた。
机にあったので、は、誰が置いたかを消す。
今日の札になりそうな言葉だった。
商務評議会の外部顧問控室は、王宮実務棟の端にあった。
広くはない。
壁際に資料棚があり、中央に細長い卓。
窓際に来客用の椅子。
そして、扉の近くに、小さな脇机があった。
天板には古い傷が多い。
引き出しは二つ。
上には、紙を差すための木製の溝がついていた。
商務評議会の書記は、少し緊張した声で言った。
「こちらが、連絡卓です」
「K筋連絡卓と呼ばれていましたか」
カレル調査官が尋ねると、書記は少し言いにくそうに頷いた。
「正式には、外部顧問連絡卓です。ただ、ケイン顧問への用件が多かったため、内々にそう呼ぶ者はいました」
「いつからですか」
「退官後、顧問になられてから……と言いたいところですが、古い職員の中には、参事補佐時代から似た呼び方をしていた者もいたようです」
ミレーヌが記録する。
外部顧問連絡卓。内々にK筋連絡卓と呼ばれていた。退官後だけでなく、参事補佐時代から類似運用の可能性。
クラリスは机を見た。
ただの脇机に見える。
だが、ただの机が人を動かす。
その方が、時に正式な命令書より厄介だった。
まず、引き出しが確認された。
上段には、古い札が数枚。
白い紙片。
青い紙片。
そして、赤茶色の小札。
角に三本釘のような印がある。
G札に似ている。
カレルが手袋を使って取り出す。
ヘレナ修復記録官が一枚ずつ確認した。
「赤茶札は、港湾G席で見つかったものと紙質が近い可能性があります。ただし、同一束かは照合が必要です」
札の一枚には、薄く文字が残っていた。
外客用 済
ヴィクトルが言った言葉と一致する。
ミレーヌが息を詰める。
「外客用……」
クラリスは頷いた。
「ヴィクトル証言と合います」
別の札。
礼裏一包 控へ
旧礼拝堂裏から一包を控えへ。
控えとは、一時保管庫のことだとヴィクトルは言っていた。
これも合う。
三枚目。
白館分 端済 問無
白館分。
端済。
問無。
端処理済み。問うな。
そう読める。
ただし、略語だ。
クラリスは慎重に言った。
「読みは可能性として記録してください」
ミレーヌは頷き、丁寧に書いた。
K筋連絡卓引き出しより赤茶札複数。“外客用 済”“礼裏一包 控へ”“白館分 端済 問無”と読める可能性。
ヘレナは、札の裏を見て言った。
「この“問無”の書き方は、ケイン元参事補佐本人の筆跡ではないと思います」
「では?」
「筆圧が浅く、字が若い。書記か使丁の手かもしれません」
「誰の可能性がありますか」
「比較資料が必要です」
カレルが頷く。
「連絡卓を使った者の筆跡を集める」
次に、連絡卓使用簿が開かれた。
正式な使用簿ではなく、書記たちが便宜上つけていた控えだ。
そこには、年月日、置いた者、取った者、要件の略記がある。
ただし、欠けも多い。
二年前の冬から春の欄。
そこに、重要な記載があった。
置:M書 取:V.R. 礼裏一包 外客用。K了。
V.R.はヴィクトル・レーン。
M書。
M書記。
誰か。
書記名簿を確認すると、当時商務評議会でケイン元参事補佐の連絡卓まわりを担当していた若い書記がいた。
ミケル・ロウ。
M書。
ミケル書記の可能性。
クラリスは、静かに言った。
「ミケル・ロウ様の所在を確認してください」
オスカーがすぐに手配する。
さらに使用簿には、別の行もあった。
置:K直 取:M書 白館八床 G可。
K直。
部屋の空気が変わる。
ミレーヌの筆が止まった。
「K直……」
「K本人から直接、という意味に見えます」
オスカーが低く言った。
クラリスは、すぐに制した。
「見えます、です。断定しません」
それでも、重い。
K直。
白館八床。
G可。
前に見つかった伝言札。
北翼八床。今夜。K。G札可。
ほぼ同じ構造だ。
連絡卓使用簿では、K直からM書へ渡り、白館八床、G可。
つまり、ケイン本人が直接置いた、または直接発した札を、ミケル書記が取った可能性が出た。
ヘレナが使用簿の該当行を見た。
「これは書記の記録です。K直の文字を書いたのは使用簿担当者でしょう。ケイン本人の筆跡ではありません」
「つまり、本人が書いた証拠ではなく、本人から来たと記録した証拠」
「はい」
クラリスは頷いた。
「それでも重要です」
午前の終わりには、K筋連絡卓から見つかった札と使用簿の仮整理ができた。
白館八床、G可。
礼裏一包、控へ。
外客用、済。
白館分、端済、問無。
そして、M書。
ミケル・ロウ。
午後、ミケル・ロウが呼ばれた。
彼は現在、商務評議会ではなく、地方商務事務所へ異動していた。
王都に滞在していたため、すぐに出頭した。
三十代前半。
整った顔立ちで、いかにも文書仕事に慣れた男だった。
だが、目の下に疲れがある。
小会議室に入った彼は、K筋連絡卓の札を見ると、明らかに顔色を変えた。
「ミケル・ロウ様」
カレルが言った。
「二年前、商務評議会でケイン参事補佐周辺の連絡卓を担当していましたか」
「担当というほどでは……」
「使用簿にM書とあります」
ミケルは唇を結んだ。
「はい。私です」
クラリスは札を一枚出した。
礼裏一包 控へ
「これはあなたの字ですか」
ミケルは、長く見た。
「……私の字です」
「意味は?」
「旧礼拝堂裏から一包を一時保管庫へ、という意味です」
「誰の指示ですか」
「K筋です」
「K筋とは?」
ミケルは黙った。
「ケイン元参事補佐ですか」
「直接ではありません」
「では誰です」
「ケイン参事補佐の連絡卓に置かれていた指示です」
「置いた人は?」
「分かりません」
「使用簿には、K直とあります」
ミケルの顔がさらに白くなる。
クラリスは続けた。
「白館八床、G可。この行です」
ミケルは、使用簿を見て目を閉じた。
「それは、ケイン参事補佐ご本人からの口頭指示を、私が記録したものです」
部屋が静まった。
ミレーヌの筆が、ゆっくり動く。
ミケル証言:使用簿“K直 白館八床 G可”は、ケイン参事補佐本人の口頭指示をミケルが記録したもの。
カレルが問う。
「内容は?」
「白鴎館北翼八床を今夜整える。G札を使ってよい。そういう指示でした」
「C-3正温については?」
「その時点では聞いていません」
「では、いつC-3を知りましたか」
「後で、施設不足分は正温を借りる、と」
「誰から?」
「連絡卓の札です。K筋済と」
「あなたが書いた?」
「はい」
「なぜK筋と書いたのですか」
ミケルは、苦しそうに言った。
「本人指示と書くな、と言われていました」
「誰に?」
沈黙。
長い沈黙。
「ケイン参事補佐に、です」
ミレーヌの手が止まった。
部屋の空気が一段重くなる。
「どういう言葉で?」
「“私の名を書くな。筋で足りる。筋で動ける者だけ動かせ”と」
グレゴール参事官が、低く唸った。
「本人の名を書くな……」
クラリスは、静かに確認する。
「あなたは、ケイン参事補佐の名を残さないために、K筋と書いたのですか」
「はい」
「なぜ従ったのですか」
「逆らえませんでした」
「あなたは何をしたのですか」
ミケルは、視線を落とした。
「札を書きました。連絡卓へ置きました。V.R.や他の使丁がそれを取った。私は……命令書ではないと思っていました」
「でも、人は動いた」
「はい」
「荷も動いた」
「はい」
「C-3正温の代布処理を知っていましたか」
ミケルは小さく頷いた。
「数を崩すな、と聞いていました」
「誰から」
「ケイン参事補佐から」
また一つ、本人へ近づく。
「外套地転が南施療院へ行くことは?」
「そこまでは……後で知りました」
「知って、どうしましたか」
「何もしませんでした」
ミケルの声は、消えそうだった。
「Hが気づく、という紙に関わりましたか」
クラリスが尋ねると、彼はびくりと肩を揺らした。
反応が強かった。
「知っていますね」
カレルが言う。
ミケルは、口を開いて、閉じた。
そして、低く答えた。
「見ました」
「誰が書いた?」
「オルド元書記の写しだと思います。ただ、元の伝言は連絡卓にありました」
「内容は?」
「Hが気づく。Bへ戻すな」
「あなたが置いた?」
「いいえ」
「誰が?」
「分かりません。ただ、ケイン参事補佐はそれを見ました」
部屋が静まり返る。
「どうして分かりますか」
「その札を見た後、参事補佐が言いました。“若い正義感は、机を壊す”と」
ミレーヌの筆が震えた。
若い正義感。
ハーゲンのことだ。
ケインは、Hが気づいたことを知っていた。
そして、それを脅威と見ていた。
クラリスは、ゆっくりと言った。
「その言葉を記録します」
ミケルは、うなだれた。
「はい」
夜、顧問室へ戻ったクラリスたちは、報告書を作成した。
表題。
K筋連絡卓およびミケル・ロウ書記聴取報告
主な内容。
一、商務評議会外部顧問連絡卓は、内々にK筋連絡卓と呼ばれていた。
二、連絡卓引き出しより赤茶札複数を確認。「外客用 済」「礼裏一包 控へ」「白館分 端済 問無」と読める可能性。
三、使用簿に「置:K直 取:M書 白館八床 G可」。
四、M書はミケル・ロウ書記の可能性。本人も認める。
五、ミケルは、同記録がケイン参事補佐本人の口頭指示を記録したものであり、内容は白鴎館北翼八床を今夜整え、G札使用可というものだったと証言。
六、ミケルは「私の名を書くな。筋で足りる。筋で動ける者だけ動かせ」とケイン参事補佐に言われ、本人名ではなくK筋と書いたと証言。
七、ミケルは、連絡卓の札を書き、V.R.等の使丁がそれを取って動いたと証言。
八、ミケルは、慈善側の数を崩すなという趣旨をケイン参事補佐から聞いたと証言。
九、外套地転の南施療院行きは後で知ったが、何もしなかったと証言。
十、「Hが気づく。Bへ戻すな」の元伝言は連絡卓にあり、ケイン参事補佐がそれを見たと証言。
十一、ケイン参事補佐はその後、「若い正義感は、机を壊す」と発言したとのミケル証言。
十二、K筋は曖昧な噂ではなく、ケイン本人の名を残さず実務指示を流すための運用であった可能性が高まる。
クラリスは最後に一文を書いた。
K筋連絡卓には、命令書ではない命令が置かれていた。そこでは、ケインの名を消すこと自体が、ひとつの手順になっていた。
ミレーヌは、壁の前でしばらく立っていた。
それから、ゆっくり札に書いた。
名前を書かない命令ほど、誰が消したかを見る。
イリスが、その札を丁寧に貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
K筋は、ただの周辺ではなかった。
ケイン本人の名を残さないための言葉だった。
G札を使え。
白館八床を整えろ。
慈善側の数を崩すな。
Hが気づく。
Bへ戻すな。
それらは、机の上で命令ではない顔をしていた。
だが、人を動かし、荷を動かし、布の名前を消した。
次に必要なのは、ケイン元参事補佐への三度目の確認だった。
今度は、彼の言葉ではなく、彼の名を消せと言われた書記の証言を前に置く。
もう「筋」は、逃げ道ではなくなりつつあった。




