第153話 黒い手袋の男は、署名のない命令を運んでいた
黒い手袋。
その言葉は、妙に印象に残った。
灰色外套のように、誰でも着られるものではある。
けれど、布を切った後のC-3正温一梱を持ち出した人物が黒い手袋をしていたという証言は、ただの服装の記憶ではなかった。
旧礼拝堂の薄暗い小部屋。
裁ち鋏を持ったエリック・ヴォルン。
端印を落とされたC-3正温。
赤茶札。
K筋。
そして、黒い手袋の男。
エリックは、その男の名を知らないと言った。
だが、知らないから追えないわけではない。
名前がないなら、物を見る。
手袋。
出入り記録。
荷を持った時刻。
誰の使いとして動いたのか。
クラリスは、顧問室の机に新しい見出しを書いた。
黒い手袋の男確認
ミレーヌは、壁に貼られた札を見上げた。
鋏を持つ手と、切らせた声を分ける。
「今度は、切った後に持ち出した人ですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「エリックは端印を切りました。けれど、その後の布を持っていったのは黒い手袋の男だと言っています」
「その人が、布の行き先を知っているかもしれない」
「ええ」
オスカーが資料を並べる。
商務評議会の出入り控え。
白鴎館関係者の使い走り名簿。
財務院旧バルツァー期の臨時使丁記録。
施設局の手袋支給控え。
港湾夜間便の運び手一覧。
イリスが茶を置きながら言った。
「黒い手袋は、汚れを隠すためにも、手を隠すためにも使われます」
「手を隠す?」
ミレーヌが尋ねる。
「はい。職人の手か、役人の手か、港の手か。見れば分かることもございますから」
クラリスは頷いた。
「つまり、黒い手袋は、手の身分を隠す道具だった可能性もある」
ミレーヌは手帳に書いた。
手袋は、手の持ち主を隠す。
午前中、商務評議会の出入り控えが開かれた。
対象は、二年前の冬から春。
白鴎館の騒ぎ、旧礼拝堂での端印切除、そして商務評議会控室の膝掛け転用に関わる時期である。
外部顧問。
商人代表。
使丁。
臨時荷運び。
紹介客。
多くの名が並んでいた。
その中で、オスカーが指を止めた。
「この人物です」
名前。
ヴィクトル・レーン。
備考。
K顧問付臨時使丁。黒革手袋貸与。夜間荷扱い可。
ミレーヌが顔を上げる。
「K顧問付……」
「当時はまだ顧問ではなく参事補佐ですが、商務評議会側の後年整理で“K顧問付”と書かれています」
オスカーが説明する。
「現在の整理名で過去を記録した可能性があります」
クラリスはすぐに言った。
「そこは注意します。後年の表記であって、当時の肩書とは限りません」
ミレーヌが記録する。
ヴィクトル・レーン。商務評議会出入り控えに“K顧問付臨時使丁”。ただし後年整理表記の可能性。黒革手袋貸与、夜間荷扱い可。
黒革手袋。
夜間荷扱い。
K顧問付。
条件が重なる。
だが、まだ名前が出ただけだ。
次に、手袋支給控え。
施設局では、冬季の夜間荷扱いに黒革手袋を貸与することがあった。
石壁、馬車金具、冷えた荷箱を扱うためだ。
ヴィクトル・レーンの欄には、こうある。
黒革手袋一双。白館夜間荷。返却遅れ。右手内側に糊汚れ。
糊汚れ。
ヘレナがその文字を見て、目を細めた。
「糊汚れは、紙札を扱う者にも出ます」
「赤茶札の紙粉と関係しますか」
クラリスが尋ねる。
「可能性はあります。古い札は、糊と紙粉が指先に付きます。黒革なら内側に粉が入り込むこともある」
ミレーヌが書く。
ヴィクトル黒革手袋返却控え:右手内側に糊汚れ。赤茶札扱いとの関連可能性。
さらに、白鴎館の片づけ補助記録にもヴィクトルの名があった。
V.R. 北翼荷下げ補助。K筋指示。
V.R.
ヴィクトル・レーン。
北翼荷下げ補助。
K筋指示。
そして、旧礼拝堂の夜間に近い日付の商務評議会雑務控え。
V.R. 外用。礼裏。戻り遅。
礼裏。
礼拝堂裏。
そう読める。
ミレーヌの筆が、ほんの少し震えた。
「礼裏……」
「礼拝堂裏の可能性があります」
クラリスは言った。
「ただし、礼は別の略語かもしれません。確認が必要です」
オスカーが記録する。
商務評議会雑務控えに“V.R. 外用。礼裏。戻り遅。” 礼裏は旧礼拝堂裏の可能性。断定不可。
昼過ぎ、ヴィクトル・レーンの所在が確認された。
彼は現在、商務評議会の常勤ではなく、ケイン元参事補佐の私的な使いとして働いていることが分かった。
住まいは、商務評議会近くの小さな下宿。
逃げようとはしなかった。
むしろ、呼び出されることを前から知っていたような顔で、小会議室へ入ってきた。
年は四十代前半。
背は高くない。
身体つきも細い。
だが、手はエリックの言う「布を扱う者の手」ではなかった。
むしろ、書類箱や小荷を扱う使丁の手だ。
指先は白いが、節が硬い。
そして、彼は今も黒い革手袋を持っていた。
外して、丁寧に膝の上に置く。
「ヴィクトル・レーンですね」
カレル調査官が確認すると、男は頷いた。
「はい」
「二年前の冬、白鴎館および商務評議会周辺で臨時使丁として働いていましたか」
「働いていました」
「ケイン元参事補佐の使いですか」
ヴィクトルは、少しだけ目を伏せた。
「当時は、ケイン参事補佐からの用を受けることが多かったです」
「現在は?」
「外部顧問であるケイン様の私的な使いを務めることがあります」
隠さない。
そこはあっさり認めた。
クラリスは、黒革手袋貸与控えを見せた。
「この記録は?」
「私です」
「白館夜間荷、返却遅れ、右手内側に糊汚れ」
「覚えています。荷札を扱いましたので」
「赤茶札ですか」
ヴィクトルは、そこで初めて沈黙した。
短い。
だが、明確な沈黙。
「……そうだったかもしれません」
ミレーヌが記録する。
クラリスは続けた。
「旧礼拝堂へ行きましたか」
「行ったことはあります」
「二年前の冬、C-3正温と思われる寝具包一を旧礼拝堂から持ち出しましたか」
ヴィクトルは、まっすぐクラリスを見た。
「中身は知りません」
「持ち出したのですか」
「荷を運んだことはあります」
「どこからどこへ?」
「旧礼拝堂裏から、商務評議会の一時保管庫へ」
部屋が静まり返った。
ミレーヌの筆が止まり、すぐ動いた。
ヴィクトル証言:旧礼拝堂裏から商務評議会一時保管庫へ荷を運んだことを認める。中身は知らないと主張。
カレルが問う。
「誰に命じられた」
「書き付けです」
「誰の?」
「K筋のものです」
「ケイン本人では?」
ヴィクトルは、首を横に振った。
「直接、ケイン様から受けたものではありません」
「誰から受け取った」
「評議会の連絡卓に置かれていました」
「また席か」
グレゴール参事官が、低く呟いた。
ヴィクトルはそちらを見ない。
クラリスは静かに尋ねた。
「連絡卓に置かれていた書き付けには、何と?」
「“礼裏より一包。問うな。控へ。”と」
「控へ?」
「商務評議会の控室ではなく、一時保管庫のことです。昔の略です」
「書き付けは残っていますか」
「残っていません。用済みで処分しました」
「赤茶札でしたか」
「赤茶ではありません。白い紙でした。ただ、赤茶札が添えてありました」
「赤茶札には?」
「“K筋済”と」
K筋済。
また、署名ではなく、筋。
責任がまた薄くなる。
クラリスは、顔色を変えずに尋ねた。
「あなたは、その荷が王宮慈善物資由来だと知っていましたか」
「知りません」
「端印が切られていたことは?」
「見ていません」
「エリック・ヴォルンを知っていますか」
「補修場の裁断師ですね。知っています」
「旧礼拝堂で会いましたか」
「会いました」
「彼が布を切っていたことは?」
「見ていません。私が行った時には、荷は包み直されていました」
「では、切った後の荷を運んだ」
「そうなります」
ミレーヌが、慎重に書く。
ヴィクトルはエリックを知っており、旧礼拝堂で会ったことを認める。ただし切除場面は見ていないと主張。包み直された荷を運んだ。
カレルが尋ねた。
「商務評議会の一時保管庫へ運んだ後、荷はどうなった」
ヴィクトルは、目を伏せた。
「翌日にはありませんでした」
「誰が持ち出した」
「分かりません」
「出庫記録は?」
「一時保管庫は、正式倉庫ではありません」
「つまり、記録なし?」
「簡易札はありました」
「内容は?」
ヴィクトルは少し考えた。
「“外客用 済”だったと思います」
「外客用?」
「外国商務客への便に回った可能性があります」
部屋の空気が重くなる。
リンド商会の一梱がG席へ行き、乾き場、旧礼拝堂、商務評議会一時保管庫を経て、外国商務客へ。
そして、もう一梱も西海交易団補佐の私物扱いで外へ出ている。
C-3正温は、慈善施設ではなく商務の外客へ流れていく。
クラリスは白紙に書いた。
商務外客化
定義。
王宮内部または慈善用途の物資が、臨時接待・外客対応・商務便などの名目へ移り、外部客の使用物として管理外へ出る状態。
ヴィクトルは、その言葉を見て少し顔をしかめた。
「私は、ただ運んだだけです」
「その主張も記録します」
クラリスは答えた。
「ただし、あなたはK筋の書き付け、赤茶札、旧礼拝堂、商務評議会一時保管庫をつないだ人物です」
ヴィクトルは黙った。
「ケイン元参事補佐は、この荷を知っていましたか」
「私は、直接報告していません」
「直接ではなく?」
「連絡卓に完了札を戻しました」
「誰が見る連絡卓ですか」
「K筋の使いが見る卓です」
「ケイン本人は?」
「時々」
「つまり、本人が見る可能性もあった」
「あります」
ミレーヌが書く。
ヴィクトル証言:完了札はK筋連絡卓へ戻した。ケイン本人が見る可能性もあったが、直接報告はしていない。
クラリスは静かに息を吐いた。
直接報告ではない。
連絡卓。
また、席。
責任は、机や席や筋に逃げていく。
だが、ヴィクトルという手は見えた。
黒い手袋の男。
旧礼拝堂から商務評議会へ、端印を失った布を運んだ人物。
夜、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
黒い手袋の男ヴィクトル・レーン聴取および商務評議会一時保管庫経路確認報告
主な内容。
一、商務評議会出入り控えにヴィクトル・レーン。K顧問付臨時使丁、黒革手袋貸与、夜間荷扱い可。
二、手袋貸与控えに「白館夜間荷」「右手内側に糊汚れ」。赤茶札扱いとの関連可能性。
三、白鴎館片づけ補助記録に「V.R. 北翼荷下げ補助。K筋指示」。
四、商務評議会雑務控えに「V.R. 外用。礼裏。戻り遅」。礼裏は旧礼拝堂裏の可能性。
五、ヴィクトルは、旧礼拝堂裏から商務評議会一時保管庫へ荷を運んだことを認める。中身は知らないと主張。
六、指示はK筋の書き付けと赤茶札によるもの。書き付けには「礼裏より一包。問うな。控へ」、赤茶札には「K筋済」とあったと証言。
七、エリック・ヴォルンを知り、旧礼拝堂で会ったことを認める。ただし端印切除場面は見ていないと主張。
八、荷は包み直された状態で、一時保管庫へ運んだ。翌日にはなくなっていた。簡易札に「外客用 済」とあった記憶。
九、完了札はK筋連絡卓へ戻した。ケイン本人が見る可能性もあったが、直接報告はしていないと主張。
十、端印切除後のC-3正温一梱が、旧礼拝堂から商務評議会一時保管庫へ移り、その後外客用へ回った可能性が高まる。
十一、K筋連絡卓、一時保管庫、外客用便の記録確認が必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
黒い手袋の男は、署名のない命令を運んでいた。彼の手は布を切らなかったが、名前を失った布を王宮の外へ向かう机まで運んだ。
ミレーヌは、壁の前で筆を取った。
少し考え、こう書いた。
署名のない命令でも、運んだ手は残る。
イリスが、その札を壁に貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
これで、リンド商会経由の一梱はさらに先へ進んだ。
G席。
乾き場。
旧礼拝堂。
エリックの裁ち鋏。
ヴィクトルの黒い手袋。
商務評議会一時保管庫。
外客用。
そして、そのあいだに何度も現れる言葉。
K筋。
次に必要なのは、そのK筋連絡卓だった。
ケイン本人が直接命じないための机。
そこに残る札や控えがあれば、ようやく「筋」ではなく「誰」が見えてくる。




