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第152話 布を切る手は、紙の粉をつけていた

布を切るには、慣れた手がいる。


 ただ刃物を入れればよいわけではない。


 織り目を見て、端の処理を見て、どこを落とせば目立たないかを考える。


 切りすぎれば、布は小さくなる。

 切り方が雑なら、後から分かる。

 縫い直しが下手なら、端だけ浮く。

 印を消したつもりでも、糸が残る。


 だから、C-3正温の端印を切った手があるなら、それは布を知らない者の手ではない。


 少なくとも、裁ち鋏を持ち、布端を処理できる者。


 セヴラン・ドールは言った。


 旧礼拝堂で寝具包一を渡した相手は、細い男だった。


 名は知らない。

 白い手。

 港の者ではない。

 布を扱う者のような手。

 裁ち鋏を持っていた。

 そして、手に赤茶札と同じ紙粉がついていた。


 クラリスは、その証言を机の中央に置いた。


 ミレーヌは、壁に貼られた昨日の札を見上げていた。


 影を着せられた人と、影を作った人を分ける。


「セヴランさんは、灰色外套の男でした」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「でも、布の端を切った手とは限らない」


「ええ」


「今日は、その手を探すのですね」


「はい」


 オスカーが資料を並べる。


 王宮仕立て場の出入り記録。

 補修場の外注裁断師名簿。

 白鴎館の寝具補修依頼控え。

 商務評議会控室の膝掛け転用記録。

 施設局の裁ち鋏貸出控え。

 そして、旧礼拝堂で見つかった裁ち落とし布片と紙片の写し。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「白い手は、働いていない手とは限りません」


 ミレーヌが顔を上げる。


「違うのですか」


「布を扱う手は、泥や油では汚れにくいのです。けれど、針傷や鋏だこが残ります」


 クラリスは頷いた。


「では、手の記録ではなく、道具の記録を見ます」


「はい」


 イリスは涼しい顔で答えた。


「手より鋏の方が、嘘をつきません」


 最初に開かれたのは、施設局の裁ち鋏貸出控えだった。


 王宮では、上等布を裁つ大鋏や、細かい端処理用の裁ち鋏は、すべて共用ではない。


 仕立て場、補修場、馬車内装係、幕布係。


 それぞれに管理がある。


 旧礼拝堂で端印を切るなら、大鋏では目立つ。


 持ち出しやすく、細かい処理ができる裁ち鋏が必要だ。


 ミレーヌは表を追いながら言った。


「二年前の冬に、外へ持ち出された裁ち鋏があります」


「誰ですか」


 オスカーが読み上げる。


「補修場外注裁断師、エリック・ヴォルン」


「外注裁断師」


「はい。施設局の常勤ではなく、必要時に呼ばれる職人です。白鴎館のカーテン補修、客室寝具の裁ち直し、商務評議会控室の膝掛け転用にも関わった記録があります」


 部屋が少し静かになる。


 商務評議会控室の膝掛け。


 C-3正温一梱から裁ち直された可能性があるもの。


 そこに関わった外注裁断師。


 クラリスはすぐに確認した。


「その人は、二年前の旧礼拝堂の時期に裁ち鋏を借りていますか」


「はい。用途欄は、“白館寝具端処理・臨時”。返却は翌日」


「白館寝具端処理」


 ミレーヌが繰り返した。


 オスカーは続ける。


「貸出欄の備考に、“K問合済”とあります」


 また、K。


 ただし、これまでほど驚きはない。


 線は、そこへ向かうべくして向かっている。


 ミレーヌが慎重に書く。


 裁ち鋏貸出控え:補修場外注裁断師エリック・ヴォルン。用途“白館寝具端処理・臨時”。備考“K問合済”。


 クラリスは言った。


「エリック・ヴォルンの所在を確認してください」


 カレル調査官はすでに動いていた。


「手配済みです。補修場近くの作業宿にいる可能性があります」


 次に、補修場の記録が見られた。


 商務評議会控室の膝掛け二を作った時の記録。


 そこには、こうある。


 上等保温布一、膝掛け二へ。裁断:E.V. 端印部除。染め直し後納。


 端印部除。


 ミレーヌの筆が止まった。


「端印部除……」


 クラリスも紙を見つめる。


 これは、膝掛け転用の記録だ。


 商務評議会へ行った一梱について、端印部分を除いたことが明記されている。


 ただし、これは補修転用だから、端印を切ること自体はあり得る。


 問題は、同じ人物が旧礼拝堂で一梱の端印を切ったかどうか。


 オスカーが記録する。


 補修場記録:商務評議会膝掛け転用時、裁断E.V.、端印部除、染め直し後納。E.V.はエリック・ヴォルンの可能性。


 ヘレナ修復記録官が呼ばれ、紙の状態を確認した。


「“端印部除”は後から書き足したものではなさそうです。同じ時期の墨です」


「隠すつもりなら、なぜ書いたのでしょう」


 ミレーヌが思わず尋ねた。


 ヘレナは少し考えた。


「補修場では、端印が残っていると裁ち直しに邪魔なことがあります。正当な作業として書いたのでしょう」


 クラリスは頷いた。


「つまり、エリックにとって、端印を除くことは通常作業だった」


「はい」


 それが危うい。


 通常作業としてできる者は、不正な切除も自然にできる。


 午後、エリック・ヴォルンが連れてこられた。


 年は三十代後半。


 細身。


 顔色は白く、髪は薄い茶色。


 手は、確かに白かった。


 ただし、よく見ると指先には小さな傷がある。


 親指の付け根には、鋏を使う者特有の硬いところがあった。


 セヴランの証言に近い。


 彼は部屋に入ると、まずカレルを見て、次にクラリスを見た。


 最後に、机の上の布片を見て、表情を消した。


 ミレーヌは、その変化を見逃さずに書いた。


 エリック入室時、布片を見て表情硬化。


 カレルが尋ねた。


「エリック・ヴォルン。二年前の冬、白鴎館関連の寝具補修に関わったか」


「関わりました」


「商務評議会控室の膝掛け二は?」


「私が裁ちました」


「端印部除とあります」


「はい。備品へ転用するため、不要な印部分を落としました」


「それが王宮慈善印だと知っていましたか」


 エリックは、少しだけ黙った。


「見れば、分かりました」


 ミレーヌの筆が止まりかける。


 クラリスは静かに聞いた。


「つまり、あなたは商務評議会の膝掛けに転用した布が、王宮慈善印のある布だと知っていた」


「印はありました」


「なぜ報告しなかったのですか」


「私の仕事は裁断です。布の由来を問う立場ではありません」


「端印を落とせば、由来が分からなくなります」


 エリックは視線を落とした。


「転用時にはよくある処理です」


「よくある処理」


「はい。古い印や、前の所属印を落として、新しい備品にする」


「借り物でも?」


 エリックは答えなかった。


 カレルが次の紙を出した。


 裁ち鋏貸出控え。


 白館寝具端処理・臨時。K問合済。


「これはあなたの貸出記録か」


「はい」


「この時、裁ち鋏をどこへ持っていった」


「白鴎館です」


「旧礼拝堂ではなく?」


「……記憶にありません」


 初めて、言葉が濁った。


 クラリスは、旧礼拝堂で見つかった裁ち落とし布片を見せた。


「この布片に見覚えは?」


 エリックは、布片を見た。


 今度は目を逸らさない。


 だが、指先が少し動いた。


「古い保温布の端でしょう」


「あなたが切ったものですか」


「分かりません」


「旧礼拝堂で、C-3正温と思われる寝具包一が開かれ、端部処理を受けた可能性があります。あなたはその場にいましたか」


「いません」


 早い否定。


 クラリスは記録させた。


「では、セヴラン・ドールを知っていますか」


 エリックの表情が変わった。


 ほんの少し、目元が硬くなった。


「港の手配人ですか」


「知っているのですね」


「白鴎館の荷で見たことがあります」


「旧礼拝堂で彼から寝具包一を受け取ったことは?」


「ありません」


「赤茶札を扱ったことは?」


「ありません」


 カレルが、乾き場札片と紙粉の話を出した。


「セヴランは、旧礼拝堂で会った細い男の手に赤茶札の紙粉がついていたと証言している」


「知りません」


「あなたの手に、赤茶札の紙粉がつく可能性は?」


「ありません」


 ヘレナが、そこで静かに紙包みを出した。


 旧礼拝堂で見つかった紙片ではない。


 補修場の裁断記録に挟まっていた小さな赤茶色の紙粉。


 彼女は言った。


「補修場のE.V.裁断控えの折り目から、赤茶色の紙粉が出ています。G札と同種かは未確認ですが、色味は近い」


 エリックの顔から、わずかに血の気が引いた。


 クラリスは、声を荒げない。


「説明できますか」


「補修場には、いろいろな紙があります」


「赤茶札を扱ったことはない、と言いました」


「記憶にありません」


「ありません、から、記憶にありません、へ変わりましたね」


 エリックは黙った。


 ミレーヌは、その変化を書いた。


 赤茶札扱いについて、初めは“ありません”、後に“記憶にありません”。


 カレルが低く問う。


「誰に頼まれた」


 エリックは黙る。


「Kか」


 さらに沈黙。


「セヴランか」


「違います」


 即答だった。


 クラリスは、そこで少し角度を変えた。


「あなたは、布を切ることに抵抗がありましたか」


 エリックは意外そうに彼女を見た。


「仕事ですから」


「王宮慈善印がある布でも?」


「依頼があれば」


「依頼者が誰か分からなくても?」


「正式な貸出控えがありました」


「K問合済」


「はい」


「それだけで十分だった?」


 エリックは、長く黙った。


 そして、小さく言った。


「十分だと思うしかありませんでした」


「なぜ」


「外注です。断れば、次の仕事がなくなります」


 その言葉は、弱かった。


 言い訳でもある。


 だが、実感でもある。


 クラリスは、すぐに断罪しない。


「では、あなたは何をしたのですか」


 エリックは、視線を布片へ落とした。


「白館の上等保温布の端を処理しました」


「どこで?」


「白鴎館と……もう一か所」


「旧礼拝堂ですか」


 エリックは、深く息を吐いた。


「はい」


 ミレーヌの筆が止まった。


 部屋が静まり返る。


「旧礼拝堂で何をしたのですか」


「一梱を開けました。端印を落としました」


「なぜ旧礼拝堂で?」


「白鴎館では目立つ。港では人目がある。礼拝堂なら静かだと」


「誰に言われましたか」


「直接の名はありません。赤茶札です」


「K筋?」


「はい」


「札を書いたのは?」


「分かりません」


「あなたは赤茶札を扱ったことがないと言いました」


「嘘です」


 エリックは、力なく認めた。


「扱いました。何度か」


「旧G便関係ですか」


「そう呼ばれていることは知っていました」


「ギデオン本人は?」


「見たことはありません」


「セヴランから荷を受け取った?」


「はい」


「端印を切った?」


「はい」


「切った端はどうしましたか」


「燃やしました」


「全部?」


「……一部は残ったかもしれません」


 旧礼拝堂で見つかった裁ち落とし。


 紙片の「端…残すな」。


 それらと合う。


 カレルが尋ねる。


「端印を落とした後の布は、どこへ?」


 エリックは首を振った。


「知りません。私は端を処理して、畳み直しただけです。持っていったのはセヴランではありません。別の運びです」


「誰」


「名は知りません。黒い手袋の男でした」


 また、新しい影。


 ミレーヌが書く。


 端印切除後の布は、黒い手袋の男が持ち出したとのエリック証言。名不詳。


 クラリスは、内心で息を吐いた。


 一つ見つかると、また一つ影が増える。


 だが、これで大きな事実は固まった。


 C-3正温一梱は、旧礼拝堂で開かれ、エリック・ヴォルンにより端印を切除された。


 彼は赤茶札とK筋の指示を受けていた。


 ギデオン本人ではない。


 ケイン本人でもない。


 だが、その名を示す筋が使われている。


 カレルが最後に尋ねた。


「端印を切った時、それが王宮慈善物資だと知っていたか」


 エリックは、低く答えた。


「知っていました」


「それでも切った」


「はい」


「理由は?」


「仕事を失いたくなかった」


「それだけか」


 エリックは、目を閉じた。


「……怖かった。K筋の仕事を断るのが」


 その言葉を、ミレーヌは丁寧に記録した。


 恐怖は、罪を消さない。


 だが、仕組みを見るには必要だった。


 夜、顧問室では報告書がまとめられた。


 表題。


 エリック・ヴォルン聴取および旧礼拝堂端印切除確認報告


 主な内容。


 一、エリック・ヴォルンは補修場外注裁断師。白い手、裁ち鋏使用、布扱いの技術があり、セヴラン証言の“細い男”像と整合。

 二、施設局裁ち鋏貸出控えに「白館寝具端処理・臨時」「K問合済」。

 三、商務評議会膝掛け転用記録に「裁断:E.V.」「端印部除」。E.V.はエリックの可能性高。

 四、エリックは商務評議会膝掛け転用時、王宮慈善印のある布であることを認識していたと認める。

 五、当初、旧礼拝堂関与・赤茶札扱いを否定したが、その後認める。

 六、二年前冬、旧礼拝堂でセヴランから白館分寝具包一を受け取り、一梱を開け、端印を落としたと認める。

 七、指示は赤茶札によるもので、K筋と認識していたと証言。札の筆者は不明。

 八、端印切除後の布は畳み直され、黒い手袋の男が持ち出したと証言。

 九、エリックは王宮慈善物資であることを知りながら端印を切除した。理由として、外注の立場でK筋の仕事を断ることへの恐れを挙げる。

 十、旧礼拝堂の裁ち落とし、紙片「一梱開…端…残すな」、セヴラン証言との整合が高まる。

 十一、次に、黒い手袋の男および赤茶札筆者・K筋の具体人物確認が必要。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 C-3正温一梱の名前を消したのは、エリックの裁ち鋏だった。だが、その鋏を動かしたのは、赤茶札とK筋という、まだ顔のない命令だった。


 ミレーヌは、壁の前でしばらく黙っていた。


 そして、札に書いた。


 鋏を持つ手と、切らせた声を分ける。


 イリスが、その札を丁寧に貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 布の端を切った手は見つかった。


 だが、布をどこへ持っていったのかは、まだ先に続いている。


 黒い手袋の男。


 赤茶札の筆者。


 K筋。


 そして、ケイン元参事補佐。


 責任は、ようやく少しずつ人の形を取り戻してきた。


 席ではなく。

 札ではなく。

 筋ではなく。


 名前を書かなければならない。

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