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第151話 右足の男は、命令の名前を知らなかった

 セヴラン・ドールは、すぐには見つからなかった。


 港の者は、皆、彼を知っていた。


 だが、誰も今どこにいるかをはっきり言わない。


「この前、商務評議会の裏口で見た」


「いや、南市場の荷馬車溜まりにいたはずだ」


「夜なら濡れ帆亭の裏に来ることがある」


「最近は、王宮の外壁沿いで使い走りをしている」


 どれも本当のようで、どれも少しずつずれている。


 正式な職を持たない者は、場所ではなく用事に結びついて動く。


 だから、記録ではなく、人の記憶を追うしかない。


 そして人の記憶は、よく濁る。


 クラリスは、顧問室で港湾管理局から届いた聞き込み紙を見ていた。


 そこには、セヴランについていくつかの情報が並んでいる。


 元夜間手配人。

 右足首に古傷。

 低い声。

 旧G便末期にG席の札を扱ったことがある。

 現在は商務評議会周辺の雑務を請け負っている可能性。


 ミレーヌは、壁の札を見上げた。


 外套が同じでも、歩いた人まで同じとは限らない。


「見つかったら、灰色外套の男か分かるのでしょうか」


「完全には分かりません」


 クラリスは答えた。


「でも、右足の癖、声、旧G便との関係、商務評議会との関係を確認できます」


「外套を着ていたかも?」


「はい」


「でも、本人が嘘をつくかもしれません」


「その時は、嘘の形を見ます」


 ミレーヌは、もう驚かずに頷いた。


「認めない時は、どう否定するかを見る」


「そうです」


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「荷運びの者は、命じた人の名より、渡された札の色を覚えているかもしれませんね」


「札の色」


「はい。偉い人の名前は知らなくても、赤茶の札なら急ぎ、黒縁なら夜間、そういう覚え方をするものです」


 クラリスは、小さく頷いた。


「今日は、それも聞きましょう」


 セヴランが見つかったのは、その日の昼過ぎだった。


 商務評議会の裏手、古い資材置き場の近く。


 カレル調査官の部下が、右足を少し引いて歩く男を見つけた。


 男は逃げなかった。


 ただ、見つかった瞬間に、諦めたような顔をしたという。


 小会議室に連れてこられたセヴラン・ドールは、五十に近い男だった。


 肩幅はあるが、痩せている。


 頬はこけ、目の下には深い影があった。


 そして、歩き方。


 部屋に入ってくる時、右足がわずかに遅れた。


 大きく引きずるわけではない。


 だが、確かに右足首をかばっている。


 ミレーヌの筆が静かに動いた。


 セヴラン入室時、右足をわずかに引く歩行癖確認。


 セヴランは椅子に座ると、低い声で言った。


「今さら、何の用です」


 その声に、部屋の空気が少し固まった。


 低い。


 ロス、マーロ、サムエルの証言にあった声と、少なくとも特徴は合う。


 カレルが静かに言った。


「旧G便と、白館分の寝具包一について確認する」


 セヴランは、目を細めた。


「古い話ですね」


「覚えていますか」


「古い仕事は、いちいち覚えていません」


 すぐ否定しない。


 だが、覚えていないと言う。


 クラリスは、赤茶の返却札の写しを出した。


 寝具包一 白館分 受 G席。


「この札に見覚えは?」


 セヴランは紙を一瞥した。


 少し早すぎる。


 見たくないものを見る時の速度だった。


「G席の札でしょう」


「あなたが扱いましたか」


「G席の札は、いろんな者が扱いました」


「あなたも?」


「扱ったことはあります」


「この札は?」


「覚えていません」


 ミレーヌは、そのまま記録する。


 クラリスは次の紙を出した。


 乾き場の札片。


 白……寝一……預……礼……


「乾き場から見つかりました」


 セヴランの表情が、ほんの少しだけ変わった。


 眉の端が動いた。


「読めませんね」


「一部だけ読めます」


「なら、何とでも読める」


「はい。だから、あなたに確認しています」


 セヴランは、少し黙った。


 カレルが尋ねる。


「二年前の冬、G席から白館分の寝具包一を預かり、乾き場へ回したことは?」


「直接は知りません」


「直接は?」


「そういう荷があったことは聞きました」


「誰から?」


「マーロです」


 マーロの名が出た。


「マーロは、灰色外套の男が“戻しではない。預かりだ。乾き場へ”と言ったと証言しています」


 カレルの声は淡々としていた。


「その灰色外套の男は、あなたですか」


 セヴランは、すぐには答えなかった。


 沈黙。


 長い沈黙ではない。


 しかし、短くもない。


「灰色の外套は着ました」


 部屋の空気が変わる。


「いつ」


「何度も」


「二年前の冬、旧礼拝堂付近で?」


「……行きました」


 ミレーヌの筆が震えた。


 だが、止まらない。


「何のために?」


「荷を動かすためです」


「白館分の寝具包一を?」


「そうだと思います」


 カレルが、静かに確認する。


「あなたが灰色外套を着て、マーロへ指示し、乾き場から旧礼拝堂へ寝具包一を運ばせた」


「マーロには乾き場までと言っただけです」


「旧礼拝堂へは?」


「俺が運びました」


 セヴランは、諦めたように言った。


「乾き場から先は、俺が持っていった」


 クラリスは尋ねた。


「誰に頼まれましたか」


「札です」


「札?」


「赤茶札。G席に置かれた札です」


「誰の名が?」


「名はありません。ただ、K筋と」


 また、K筋。


 「K本人」ではない。


 だが、Kの周辺を示す言葉。


 セヴランは続けた。


「札には、“白館分、預。礼へ。端見るな”とありました」


 端見るな。


 これまでの「まだ開けるな」「端残すな」と重なる。


 クラリスは、表情を変えずに尋ねた。


「端見るな、とは?」


「俺に聞かれても分かりません。荷を開けるな、端印を見るな、そういう意味かと」


「あなたは中を見ましたか」


「見ていません」


「旧礼拝堂で開けたのでは?」


「俺は開けていません」


「では、誰が開けたのですか」


 セヴランは、視線を落とした。


「旧礼拝堂で、別の男に渡しました」


「誰です」


「名前は知りません」


「特徴は?」


「細い男です。手が白かった。港の者じゃない。布を扱う者みたいな手でした」


 ニナやエヴァレット夫人のような布を見る手。


 あるいは、仕立て場関係者。


 ミレーヌが書く。


 セヴラン証言:旧礼拝堂で寝具包一を細い男に渡した。名不詳。白い手。港の者ではなく布を扱う者のような手。


 クラリスはさらに聞いた。


「その男が端を切ったのですか」


「見ていません。ただ、刃物は持っていました」


「どんな刃物ですか」


「小さな裁ち鋏。俺は、布を切る道具だと思った」


「あなたは、その場に残りましたか」


「少しだけ。荷を広げるところまでは見た」


「中身は?」


「白っぽい厚い布でした。上等なやつです」


「その後?」


「俺は外へ出された」


「誰に?」


「細い男に。“ここから先は見るな”と」


「灰色外套のあなたが、外へ出された?」


「俺は運び役です。中のことは知らない」


 その声には、苛立ちと恐れが混じっていた。


 クラリスは、彼が全てを知っているとは思わなかった。


 むしろ、知らないように使われた可能性が高い。


 だが、彼が重要な中継役だったことは確かだ。


「灰色外套はどこで手に入れましたか」


 カレルが尋ねた。


 セヴランは、少しだけ口を曲げた。


「財務院の更衣室」


「盗んだのですか」


「借りろと言われた」


「誰に?」


「札で」


「また札?」


「そうです。赤茶札に、“Bの灰を使え”と」


 Bの灰。


 部屋が静まる。


 Bの灰。


 バルナスの灰色外套。


 そう読める。


 ただし、まだ推定だ。


 ミレーヌが慎重に書いた。


 セヴラン証言:赤茶札に“Bの灰を使え”との記載。財務院更衣室で灰色外套を借りたと主張。Bの灰=バルナス主任の灰色外套の可能性。ただし要確認。


 カレルが尋ねる。


「なぜBの灰を使う必要があったのですか」


「俺に聞かれても分かりません。ただ、財務院の者に見えた方が、旧礼拝堂でも港でも通りやすい。あと、もし見られても……」


 セヴランはそこで言葉を切った。


「もし見られても?」


 クラリスが促す。


「B机の者に見える」


 部屋の空気が冷えた。


 バルナス主任の外套。


 B机の影。


 それを着て歩く。


 誰かが見れば、バルナス側の者だと思う。


 責任の影がずれる。


 クラリスは静かに言った。


「あなたは、バルナス主任に見せかけるために外套を着たのですか」


「俺は、言われた通りにしただけです」


「その意味は分かっていましたか」


「薄々は」


「つまり?」


「見られた時に、俺ではなくB机へ目が向く」


 ミレーヌの筆が震えた。


 それでも、書いた。


 セヴラン証言:Bの灰を着ることで、見られた場合にB机へ目が向くことは薄々理解していた。


 クラリスは、声を落として尋ねた。


「誰がその札を書いたのですか」


 セヴランは首を振った。


「知らない」


「本当に?」


「本当に知らない。俺は、札の色と置き場所で仕事を受ける。名前はない」


「K筋とあった」


「はい」


「K本人では?」


「分かりません。K筋はK筋です。俺たちにとっては、それで十分だった」


 それが問題だった。


 K本人か、Kの使いか、Kに便乗した誰かか。


 曖昧なままでも、現場は動いてしまう。


 セヴランは、さらにぽつりと言った。


「ただ、札を置いたのは、細い男かもしれない」


「なぜ?」


「旧礼拝堂で見た男の手に、赤茶札と同じ紙の粉がついていた。乾いた赤茶色の粉」


「紙の粉?」


「古い札を折ると、角が粉になるでしょう。あれです」


 カレルが記録する。


 セヴラン証言:K筋札を置いた者は不明。ただし旧礼拝堂の細い男の手に赤茶札と同様の紙粉が付着していた記憶。


 細い男。


 白い手。


 布を扱う者のような手。


 裁ち鋏。


 赤茶札の紙粉。


 端印を切った可能性がある人物。


 新たな線だった。


 セヴランは、最後に小さく言った。


「俺は、切ってない」


「記録します」


 クラリスは答えた。


「あなたが切ったとは、現時点では断定しません」


「本当に?」


「はい。ただし、運んだこと、外套を着たこと、B机へ影を向ける意味を薄々理解していたことは記録します」


 セヴランは、苦い顔で頷いた。


「それなら、仕方ねえ」


 夜、顧問室に戻ったクラリスたちは、報告書をまとめた。


 表題。


 セヴラン・ドール聴取および灰色外套男確認報告


 主な内容。


 一、セヴラン・ドールは右足をわずかに引く歩行癖、低声を有し、灰色外套男の証言特徴と整合。

 二、セヴランは二年前冬、灰色外套を着て旧礼拝堂付近へ行ったことを認める。

 三、G席・乾き場から白館分寝具包一を旧礼拝堂へ運んだと認める。

 四、依頼は赤茶札によるもので、K筋と記載があったと証言。

 五、札には「白館分、預。礼へ。端見るな」趣旨があったと証言。

 六、灰色外套は財務院更衣室から借りたと主張。赤茶札に「Bの灰を使え」とあったと証言。Bの灰はバルナス主任の灰色外套を指す可能性。

 七、セヴランは、灰色外套によりB机へ疑いの目が向くことを薄々理解していたと証言。

 八、旧礼拝堂では寝具包を細い男に渡した。細い男は白い手、港の者ではなく布を扱う者のような手、裁ち鋏を所持。

 九、セヴランは布を開ける場面の一部を見たが、端印切除には関与していないと主張。

 十、細い男の手に赤茶札と同様の紙粉があった記憶あり。札作成または持参との関連可能性。

 十一、K筋、Bの灰、細い男の特定が次の課題。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 セヴランは灰色外套の男だった。だが、布の端を切った手ではなく、B机の影を着て荷を運んだ足だった可能性が高い。


 ミレーヌは、壁の前で筆を取った。


 少し迷い、こう書いた。


 影を着せられた人と、影を作った人を分ける。


 イリスが、その札を貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 灰色外套の男は、セヴラン・ドールだった。


 少なくとも、旧礼拝堂へ荷を運んだ灰色外套の男は。


 だが、彼は端を切っていないと言う。


 そして、その言葉には一定の筋があった。


 端を切ったのは、細い男。


 白い手。

 裁ち鋏。

 赤茶札の紙粉。


 布を扱う者のような手を持つ男。


 次に追うべきは、その手だった。


 C-3正温の名前を消したのは、誰か。


 紙ではなく、布を切る技術を持つ誰か。


 王宮の中で、布を切れる者たちの記録を開く時が来ていた。

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