表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
150/178

第150話 右足を引く男は、影を借りて歩いていた

人は、顔を隠せる。


 帽子を深くかぶる。

 外套の襟を立てる。

 灯りの外に立つ。

 人に顔を見せない距離を保つ。


 だが、歩き方は残る。


 癖は、本人より正直なことがある。


 右足を引く。

 踵を強くつく。

 階段で一拍遅れる。

 馬車から降りる時、左手を先に出す。


 それらは、名前よりも古く体に染みつく。


 だからこそ、真似もできる。


 完璧ではないにせよ。


 クラリスは、顧問室の机に三人の証言を並べた。


 ロス元御者。

 マーロ。

 旧礼拝堂近くの老人サムエル。


 三人は別々の場所で、別々の時に、似た人物を見ている。


 灰色外套。

 顔は不明。

 声は低い。

 右足を少し引く。


 ミレーヌは、その四項目を見ていた。


「三人とも、右足を言っています」


「はい」


「でも、顔は見ていない」


「ええ」


「外套と歩き方と声だけ」


「だから危険です」


 クラリスは言った。


「一致しているように見えて、誰かにそう見えるよう作られていた可能性もあります」


 ミレーヌは手帳に書いた。


 顔のない一致ほど、作られた可能性を見る。


 オスカーが、別の資料を置いた。


「バルナス主任の歩行記録に関する資料です」


「歩行記録?」


 ミレーヌが首を傾げる。


「医務室の通院記録、馬車利用控え、靴修繕の控えです」


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「歩き方は、靴底にも出ますから」


「靴底……」


「右を引く方は、右の外側が削れたり、つま先に擦れが出たりいたします」


 ミレーヌは、また手帳に書いた。


 歩き方は、靴底にも残る。


 今日の確認は、バルナス主任本人をただ疑うためではない。


 彼はすでに、南施療院へ外套地転を保温扱いで送った判断を認めている。


 しかし、灰色外套の男についてはまだ分からない。


 もし彼本人なら、旧礼拝堂でC-3正温一梱を開き、端を切った可能性がある。


 もし別人なら、誰かが彼に似た影を使って、責任をB机へ寄せようとした可能性がある。


 どちらにせよ、歩き方を見る必要があった。


 午前中、バルナス主任が呼ばれた。


 彼は、以前より明らかに疲れていた。


 だが、席に着く時の動きは落ち着いていた。


 右足を引くか。


 クラリスは、あからさまに見ない。


 だが、見た。


 彼は椅子へ向かう時、わずかに左膝をかばった。


 右ではない。


「バルナス主任」


 カレル調査官が言った。


「二年前の冬、足を悪くされていましたか」


 バルナスは、少し眉を寄せた。


「左膝を痛めていました」


 ミレーヌの筆が動く。


「左膝?」


「はい。雪の日に財務院の石段で滑りまして。しばらく左足をかばって歩いていました」


「右足ではなく?」


「右ではありません」


 カレルが医務室記録を示す。


 そこには、確かにあった。


 バルナス主任、左膝打撲。階段昇降制限。杖使用を勧める。


 日付は、旧礼拝堂の件と重なる時期。


 オスカーが記録する。


 バルナス主任の二年前冬の負傷は左膝打撲。医務室記録あり。右足を引く証言とは方向が異なる。


 クラリスは尋ねた。


「灰色の外套をお持ちでしたか」


「持っていました」


「どのようなものですか」


「財務院支給の防寒外套です。灰色。多くの者が同じものを持っていました」


「あなた固有のものではない」


「はい」


「紛失したことは?」


 バルナスは、少し黙った。


「一度、財務院の更衣室で見当たらなくなったことがあります」


 部屋の空気が変わる。


「いつですか」


「二年前の冬。正確な日は覚えていません。翌日には戻っていました」


「届け出は?」


「していません」


「なぜ」


「支給外套は似たものが多く、取り違えと思ったからです」


 ミレーヌが書く。


 バルナス主任証言:灰色外套所有。財務院支給品で同型多数。二年前冬、一度更衣室で見当たらず翌日戻る。届け出なし。


 クラリスは続けた。


「その外套に特徴は?」


「右袖の内側にインク染みがありました」


「戻った時、染みは?」


 バルナスは目を細めた。


「ありました。だから、自分のものだと思った」


「他に違いは?」


「少し裾が汚れていました。泥か、煤か」


「保管していますか」


「今も持っています」


 カレルがすぐに保全を依頼した。


 灰色外套。


 同型多数。


 短期間の紛失。


 右袖のインク染み。


 裾の汚れ。


 これだけでは何も決まらない。


 だが、誰かがバルナス主任の外套を使った可能性は出た。


 午後、財務院支給外套の管理記録が確認された。


 灰色防寒外套は、冬季に多くの職員へ支給されていた。


 特に港湾や倉庫、夜間急送に関わる者は同じ型を着ていた。


 しかし、バルナス主任の外套には修繕控えがあった。


 右袖内側インク染み。裾擦れ補修。左裾泥汚れ強。


 日付は、旧礼拝堂の夜の数日後。


 ミレーヌが眉を寄せる。


「左裾泥汚れ強……」


 クラリスは頷いた。


「右足を引く人なら、どちらの裾が汚れるかを確認しましょう」


 呼ばれたのは、王宮の靴・外套修繕係の老職人だった。


 名はトビアス。


 彼は外套修繕控えを見ると、すぐ言った。


「左裾に泥がつくのは、右足を引く者にもあります」


「なぜですか」


 ミレーヌが尋ねる。


「右足を引くと、体が少し左へ流れる。外套の左裾が地面に近くなる。特に古い石段や泥道では、左裾を擦りやすい」


「左膝をかばう人は?」


「逆もありますが、左膝をかばう場合は右足に体重を預ける。裾の汚れ方が少し違う。これは、右足を引いた者が着た時の汚れに近いかもしれません」


 部屋が静まる。


 トビアスは慌てて付け加えた。


「ただし、外套だけでは断定できません。歩き方、道、荷の有無で変わります」


「その慎重さで結構です」


 クラリスは答えた。


 オスカーが記録する。


 外套修繕係トビアス所見:バルナス主任外套の左裾泥汚れは、右足を引く者が着用した場合とも整合可能。ただし断定不可。


 次に靴の話になった。


 バルナス主任の当時の靴修繕控えには、こうあった。


 左足外側減り強。左膝負傷による歩行癖。


 右足ではない。


 灰色外套の男の証言とは合わない。


 さらに、旧礼拝堂跡近くで以前保全されていた足跡記録――右足を少し引くような擦れ跡――とも違う。


 カレルが整理する。


「バルナス主任本人の靴癖は、左足側。灰色外套男の証言は、右足側。外套は一時紛失し、戻った後に左裾泥汚れが増えている。これは、別人がバルナス主任の外套を着ていた可能性を示す弱い材料になる」


 クラリスは頷いた。


「弱い材料として扱います」


 ミレーヌは、手帳に書いた。


 外套は本人でも、歩いた人が本人とは限らない。


 その後、三人の証言者――ロス、マーロ、サムエル――の証言を再整理した。


 三人とも、灰色外套の男を遠目または暗がりで見ている。


 顔は見ていない。


 声は低い。


 右足を少し引く。


 この「低い声」も確認する必要があった。


 バルナス主任の声は低い。


 ケイン元参事補佐の声も低い。


 港湾には、低い声の男などいくらでもいる。


 これだけでは意味がない。


 だが、マーロが言った「顔を見ない方がいいと思った」という感覚は、少し違った。


 相手がただの役人なら、そこまで恐れない。


 では、誰か。


 ドレイクが港湾の雑用人や夜間手配人の中で、右足に癖がある者を確認した。


 そこで、一人の名が出た。


 セヴラン・ドール。


 港湾の元夜間手配人。


 旧G便末期に、G席の札を扱ったことがある。


 右足首を若い頃に痛めており、歩く時に少し引く癖がある。


 そして、低い声。


 ミレーヌが顔を上げた。


「セヴラン……」


「まだ名前が出ただけです」


 クラリスは言った。


「ただ、確認対象になります」


 ドレイクの報告では、セヴランは現在、港を離れて商務評議会周辺の雑務を請け負っているという。


 商務評議会。


 また、そこへ戻る。


 ケイン元参事補佐の現在の足場。


 クラリスは、静かに息を整えた。


 線は、急に濃くなりすぎる時ほど危ない。


 セヴランが灰色外套の男だと決めるには、まだ早い。


 だが、右足、低声、G席、旧G便、商務評議会。


 条件は重なり始めている。


 夕方、セヴランの所在確認が出された。


 同時に、財務院更衣室の外套出入り記録、商務評議会の夜間雑務依頼控え、港湾旧G席関係者名簿の照合が始まる。


 顧問室では、今日の報告書がまとめられた。


 表題。


 灰色外套男の歩行癖およびバルナス主任外套関連確認報告


 主な内容。


 一、ロス、マーロ、サムエル証言に共通して、灰色外套、低声、右足を少し引く人物像あり。

 二、バルナス主任は二年前冬に左膝を負傷していた医務室記録あり。本人の靴修繕控えも左足外側減り強。右足癖証言とは方向が異なる。

 三、バルナス主任は灰色支給外套を所有。同型多数。二年前冬、更衣室で一時見当たらず、翌日戻ったと証言。届け出なし。

 四、当該外套修繕控えに右袖内側インク染み、裾擦れ補修、左裾泥汚れ強の記録。

 五、修繕係トビアス所見では、左裾泥汚れは右足を引く者が着用した場合とも整合可能。ただし断定不可。

 六、以上から、灰色外套男がバルナス主任本人である可能性は残るが、別人がバルナス主任の外套または同型外套を着用した可能性も高まる。

 七、港湾旧G便関係者の中に、右足癖・低声・G席関与のあるセヴラン・ドール元夜間手配人の名が浮上。

 八、セヴランは現在、商務評議会周辺の雑務を請け負うとの未確認情報あり。所在確認中。

 九、外套・歩行癖・旧G便・商務評議会の接点について継続調査が必要。

 十、人物特定までは行わず、現時点では“灰色外套男”として継続表記する。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 灰色外套はバルナス主任の影をまとっていた。だが、右足を引いて歩いたのは、彼自身ではない可能性が出てきた。


 ミレーヌは、壁の前で筆を持った。


 少し迷い、それから書いた。


 外套が同じでも、歩いた人まで同じとは限らない。


 イリスが、その札を貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 灰色外套の男は、まだ名前を持たない。


 だが、影は少し形を変えた。


 バルナス主任だけではない。


 誰かが彼の外套を借り、彼の影を着て、旧礼拝堂へ向かった可能性。


 そして、その誰かとして、セヴラン・ドールという名が浮かび上がった。


 次に必要なのは、セヴランを見つけることだった。


 彼が灰色外套を着ていたのか。


 誰に頼まれたのか。


 C-3正温一梱の端を切ったのは、彼なのか。


 それとも、彼もまた、ただ札に従って走っただけなのか。


 人の名前が道になると、責任が迷子になる。


 だが、歩き方は道の上に残る。


 その足跡を、次は追わなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ