第149話 旧礼拝堂には、見本ではない布も来ていた
乾き場から見つかった札片は、小さかった。
小さく、汚れていて、端が欠けていた。
読める文字も、わずかだ。
白……寝一……預……礼……
白館寝具一。
預かり。
礼拝堂。
そう読める可能性がある。
ただし、断定はできない。
だが、それだけで十分だった。
少なくとも、G席から乾き場へ運ばれた白鴎館分の寝具包一が、さらに旧礼拝堂方面へ向かった可能性がある。
それは、C-3正温八梱のうち、行方が見えていなかった一梱だった。
クラリスは、顧問室の机に三つの紙を並べた。
リンド商会の控え。
白館より寝具借。港仮宿へ。返却はG席へ。
G席の返却札。
寝具包一 白館分 受 G席。
乾き場の札片。
白……寝一……預……礼……
ミレーヌは、それらを見ながら言った。
「一梱が、少しずつ名前を変えています」
「はい」
クラリスは頷いた。
「白館寝具。G席返却。預かり。礼拝堂」
「返却だったはずなのに、預かりになって、礼拝堂へ行く」
「ええ」
「それなら、もう返る道ではありませんね」
「そうです」
オスカーが、昨日のマーロ聴取記録を開く。
灰色外套の男は、“戻しではない。預かりだ。乾き場へ”“礼拝堂の方へ回すかもしれん。まだ開けるな”と発言したとの証言。
ミレーヌは、その一文を見て少し眉を寄せた。
「まだ開けるな、ということは、どこかで開ける予定だったのでしょうか」
「その可能性があります」
「旧礼拝堂で?」
「ええ」
クラリスは、旧礼拝堂で見つかった布見本包みの写しを出した。
C-3 正温
軽寝 代
外套地 転
見本は三枚。
だが、見本だけではなく、実物の一梱が旧礼拝堂へ来ていたなら。
そこでは何が行われたのか。
比較か。
確認か。
隠匿か。
引き渡しか。
あるいは、ハーゲンが見つける前に、誰かが証拠を分けたのか。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「見本だけでは、人は納得しないことがございます」
「本物が必要だった、と?」
「はい。見本は“似ている”で逃げられます。本物は、逃げにくい」
クラリスはその言葉を受け止めた。
今日の視点は、それだ。
旧礼拝堂に来たのは、見本だけだったのか。
それとも、本物のC-3正温一梱も来ていたのか。
午前の調査は、再び旧礼拝堂跡で行われた。
同行者は、カレル調査官、クラリス、オスカー、ミレーヌ、イリス、ヘレナ修復記録官、そして布を見るためのニナ。
前回と違い、今回は司祭館跡だけでなく、礼拝堂本体と裏手の小部屋、さらに馬車が停められる裏道も確認対象になった。
旧礼拝堂は、白昼でも静かすぎた。
鳥の声が遠い。
足音だけが、壊れた石床に響く。
ミレーヌは小声で言った。
「ここに一梱を運ぶのは、大変そうです」
「はい」
クラリスは周囲を見た。
「だから、馬車をかなり近くまで入れたはずです」
カレルが頷く。
「裏道に轍跡が残っていればよいのですが、二年前です。期待はできません」
「期待せずに見ます」
裏道は、木の根と枯れ葉で覆われていた。
古い轍など、簡単には見つからない。
しかし、イリスが裏手の小さな石段の横で立ち止まった。
「ここ、荷を置いた跡がございます」
全員の視線が集まる。
石段の横に、平たい石がある。
そこだけ表面が妙に擦れていた。
苔が薄く、角が丸い。
ニナが覗き込む。
「布包みを置いた跡、とは言い切れませんが……重い箱より、柔らかい荷のような擦れ方に見えます」
「なぜですか」
ミレーヌが尋ねる。
ニナは少し考えてから答えた。
「箱だと角の跡が残ります。これは面で押されたような感じです。大きな布包みや袋を何度か置いたのかもしれません」
ヘレナが石の隙間を確認する。
すると、苔の下から細い繊維が一本見つかった。
白灰色。
乾き場で見つかった糸と似ている。
もちろん、まだ断定はできない。
カレルが保全する。
旧礼拝堂裏石段横より白灰色繊維一本。荷置き跡の可能性ある擦れ。C-3正温との照合要。
ミレーヌが記録する手は、もう震えていなかった。
次に、裏手の小部屋を調べる。
そこは、かつて礼拝道具や古い椅子をしまっていた場所だったらしい。
床は木ではなく石。
壁際に、朽ちた棚がある。
ニナが棚の下を覗き、少しだけ声を上げた。
「布くずがあります」
見つかったのは、小さな裁ち落としだった。
指先ほどの布片。
白灰色で、織りが詰まっている。
端が斜めに切られている。
ニナは、それを見て顔を引き締めた。
「これは、C-3見本にかなり近いです」
「端印部分ですか」
クラリスが尋ねると、ニナは首を振った。
「印はありません。ただ、裁った跡です。何かを切った時に落ちた端布だと思います」
ヘレナが補足する。
「前回見つかった布見本包みとは別の場所です。見本の切れ端とは限りません」
「つまり、ここで別の布を切った可能性」
カレルが言う。
「はい。可能性です」
ミレーヌが書く。
旧礼拝堂裏小部屋より白灰色裁ち落とし一片。C-3正温見本と織り近似。布見本包み発見場所とは別。現地で布を切った可能性。
その後、棚の奥から小さな紙片も見つかった。
紙片には、数字のようなものが残っている。
一梱開……端……残すな
完全には読めない。
ヘレナが慎重に言った。
「“一梱開”は“一梱開封”かもしれません。“端”は端印か端布か。“残すな”は比較的読めます」
残すな。
それだけで、空気が変わる。
端を残すな。
端印を残すな。
そう読める可能性がある。
クラリスは、静かに息を整えた。
「推定を書きすぎないでください」
ミレーヌは頷く。
紙片:“一梱開…端…残すな”と読める可能性。端印切除指示の可能性はあるが断定不可。
旧礼拝堂には、見本だけではなく、実物の一梱が来ていた可能性が高まっていく。
見本と照合するために。
あるいは、端印を切るために。
あるいは、どこかへさらに渡すために。
昼過ぎ、旧礼拝堂近くに住む老人への聞き取りが行われた。
名はサムエル。
かつて礼拝堂の鐘を管理していた家の者で、今は近くの小屋で暮らしている。
二年前の冬のことを覚えているか、と聞かれると、彼は少し目を細めた。
「夜の馬車なら、覚えております」
「いつ頃ですか」
カレルが尋ねる。
「冬の終わり。雪はなかったが、霜が強い夜でした」
「馬車はどこへ?」
「礼拝堂の裏へ。荷を下ろしておりました」
「どんな荷ですか」
「大きな布包みです。箱ではなかった」
クラリスとミレーヌは顔を見合わせなかった。
記録するだけだ。
「人は何人いましたか」
「御者が一人。荷を運ぶ男が一人。あと、灰色の外套の男」
また、灰色の外套。
「灰色外套の男の特徴は?」
「右足を少し引いていました。声は低い。顔は見えません」
証言が重なる。
ロス。
マーロ。
サムエル。
灰色外套。
右足。
低い声。
まだ人物は分からない。
だが、影の形は濃くなっていく。
「その男は何をしていましたか」
「布包みを開けろ、と言っていたように聞こえました」
「中身は?」
「遠くて分かりません。ただ、灯りの下で白っぽい布が広げられました」
「何か切っていましたか」
サムエルは少し考えた。
「刃物の光は見ました。小刀か鋏かは分かりません」
「誰が切ったのですか」
「灰色の外套の男ではありません。荷を運んだ男の方か、もう一人いたか……すみません、夜でしたので」
ミレーヌが書く。
サムエル証言:二年前冬終わり頃、旧礼拝堂裏に夜の馬車。大きな布包みを下ろす。灰色外套・右足癖・低声の男あり。白っぽい布を広げ、刃物の光を見た記憶。切断者は不明。
クラリスは尋ねた。
「その後、布包みはどうなりましたか」
「一部はまた包まれました。全部ではないように見えました」
「全部ではない?」
「ええ。最初より包みが小さくなったような気がします。残りは……礼拝堂の中へ運ばれたか、別の袋へ入れたか」
サムエルは申し訳なさそうに言った。
「古い記憶です。確かとは言えません」
「その通りに記録します」
クラリスは答えた。
夕方、顧問室へ戻った一行は、乾き場の糸、旧礼拝堂の繊維、裁ち落とし、布見本を並べた。
ニナが慎重に比較する。
「見た目と触感だけなら、同じ系統です。C-3正温とかなり近い。ただ、正式には織り密度や糸の撚りを見ないと」
エヴァレット夫人も加わって確認した。
「旧礼拝堂の裁ち落としは、C-3正温の端部分である可能性があります。少なくとも、軽寝代や外套地転とは違います」
つまり、旧礼拝堂で切られた布は、外套地ではない。
軽寝具でもない。
正温に近い。
C-3正温一梱が旧礼拝堂で開かれ、何らかの処理を受けた可能性がある。
カレルは、紙片を見ながら言った。
「“端…残すな”が端印を指すなら、ここで端印を切った可能性があります」
「ただし、断定はしません」
クラリスが言うと、カレルは頷いた。
「もちろんです」
ミレーヌは、ふと顔を上げた。
「端印を切ったのなら、その後の布はどこへ行ったのでしょう」
誰もすぐには答えなかった。
切った後の布。
印を失ったC-3正温。
それはもう、王宮慈善保温布と分かりにくい。
別の名前で売れる。
別の場所で使える。
別の台帳に入る。
クラリスは静かに言った。
「そこが次の問いです」
夜、報告書がまとめられた。
表題。
乾き場発寝具包一および旧礼拝堂現物痕跡確認報告
主な内容。
一、乾き場札片およびマーロ証言に基づき、白館寝具包一が旧礼拝堂方面へ回された可能性を再確認。
二、旧礼拝堂裏石段横に荷置き跡の可能性ある擦れを確認。白灰色繊維一本を保全。
三、旧礼拝堂裏小部屋より白灰色裁ち落とし一片を発見。C-3正温見本と織り近似。軽寝代・外套地転とは異なる可能性。
四、同小部屋より紙片を発見。「一梱開…端…残すな」と読める可能性。端印切除指示の可能性あり。ただし断定不可。
五、近隣老人サムエル証言では、二年前冬終わり頃、旧礼拝堂裏へ夜間馬車が来て、大きな布包みを下ろした。灰色外套・右足癖・低声の男あり。白っぽい布を広げ、刃物の光を見た記憶。
六、当該布包みは一部が再包装され、全量が元の包みに戻ったようには見えなかったとの弱証言。
七、乾き場・旧礼拝堂・布見本包み・灰色外套男の線が強まる。
八、旧礼拝堂には見本だけでなく、C-3正温本体一梱が一時置かれ、開封・端部処理を受けた可能性。
九、ただし現物同一性、端印切除、処理後の行き先については追加照合が必要。
十、灰色外套男の特定は未了。ロス、マーロ、サムエル各証言の共通点として灰色外套・右足癖・低声が一致。
クラリスは最後に一文を書いた。
旧礼拝堂には、布見本だけでなく、名前を失わせる前の本物のC-3正温が来ていた可能性がある。
ミレーヌは、壁の前でしばらく考えた。
そして、札にこう書いた。
端を切れば名前は消える。でも、切った跡は残る。
イリスが、その札を丁寧に貼った。
国際案件の箱に、また報告書が入る。
これで、リンド商会経由の一梱は、G席、乾き場、旧礼拝堂へつながった。
そこでは、布が開かれ、端を切られたかもしれない。
その後、どこへ行ったのかはまだ分からない。
だが、灰色外套の男は、確かにその周辺にいた。
右足を引き、低い声で、戻しではないと言った男。
次に必要なのは、その男の正体だった。
バルナス主任に似せたのか。
本当にバルナス主任だったのか。
それとも、別の誰かが灰色の外套を使って、責任の影をずらしていたのか。
布の名前を消した手を追うには、今度は人の歩き方を見なければならなかった。




