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第148話 マーロは、荷の中身より札の色を覚えていた

マーロという男は、港の記録にはほとんど残っていなかった。


 正式職員ではない。

 商会の雇いでもない。

 王宮の使いでもない。

 御者でも、倉庫番でも、書記でもない。


 だが、名前だけはあちこちの端に出てくる。


 ギデオンの使い。

 G席の札取り。

 濡れ帆亭の奥席に置かれた小荷を運ぶ男。

 港湾雑用人。

 連絡札の走り。


 そういう者は、王宮の帳簿に乗りにくい。


 けれど、物は運ぶ。


 紙も運ぶ。


 札も運ぶ。


 そして時には、行き先を失った布も運ぶ。


 クラリスは、顧問室の机にマーロの名が出た記録を並べた。


 濡れ帆亭主人ライザの証言。


 マーロが“戻しではなく預かり”と言って持ち出した。


 リンド商会の返却札。


 寝具包一 白館分 受 G席。


 港湾管理局の雑用人名簿。


 マーロ。姓不詳。旧G便連絡札扱い。現在所在不定。


 ミレーヌは、その三枚を見つめて言った。


「姓も分からないのですね」


「はい」


「でも、一梱を持っていった」


「ええ」


「本人は、悪いことをしたと思っているでしょうか」


「分かりません」


 クラリスは答えた。


「ただ、彼は“返却”ではなく“預かり”と言った。そこは重要です」


「返す場所が分からないから、預かった?」


「その可能性があります」


 オスカーが、港湾管理局から届いた聞き込み報告を確認した。


「マーロは三か月前まで港裏の荷解き小屋に出入りしていたそうです。その後、姿を見せなくなった。ただ、南市場の古道具屋で見た者がいます」


「古道具屋……」


 ミレーヌの声が少し暗くなる。


 布が古道具屋へ流れた可能性を考えたのだろう。


 だが、クラリスはすぐには頷かない。


「まず、本人を探します」


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「荷運びの者は、行き先より“誰に頼まれたか”を覚えていることがございます」


「誰に頼まれたか」


「はい。中身は知らずとも、頼んだ顔や声は覚えているものです」


 クラリスは頷いた。


「今日は、それを聞きます」


 マーロは、思ったより早く見つかった。


 王弟府調査官カレルの手配が早かったこともある。


 だが、それ以上に、マーロ本人が隠れるのに慣れていなかったのだろう。


 彼は南市場の古道具屋の裏にある、小さな荷置き部屋で見つかった。


 年齢は四十前後。


 背は低く、痩せている。


 目つきは落ち着きがなく、手はよく動く。


 盗人の目というより、いつも誰かに呼ばれ、誰かに急かされ、荷を持って走ってきた者の目だった。


 小会議室へ連れてこられたマーロは、最初から怯えていた。


「俺は、盗んじゃいません」


 椅子に座る前に、そう言った。


 クラリスは静かに返す。


「まだ、盗んだとは言っていません」


「でも、そういう話でしょう。G席の布のことだ」


「覚えているのですね」


 マーロは、しまったという顔をした。


 カレル調査官は淡々と言った。


「覚えているなら、話が早い」


 マーロは椅子に座り、落ち着きなく膝を動かした。


 クラリスは、赤茶の返却札の写しを出す。


 寝具包一 白館分 受 G席。


「この荷を、あなたが持ち出しましたか」


 マーロは紙を見て、すぐ目を逸らした。


「たぶん」


「たぶん?」


「二年前の荷なんざ、全部は覚えてねえ。でも、白館分の寝具包は覚えてる」


「なぜですか」


「上等だったからです」


 また、その言葉。


 上等だった。


 布は、見た者にそう思わせるだけの質を持っていた。


「中を見たのですか」


「開けちゃいません。ただ、持てば分かる。軽いのに厚い。安物じゃない」


「あなたは、それをどこへ持っていきましたか」


 マーロは黙った。


 カレルが低く言う。


「黙っても、記録は残っている」


「……港裏の乾き場です」


「乾き場?」


「濡れた荷や、返す前の布を一時置きする小屋です。正式な倉庫じゃない。商会連中が使う場所で」


 ミレーヌが記録する。


 マーロ証言:G席の白館寝具包一を港裏の乾き場へ運んだ。正式倉庫ではなく、商会が使う一時置き場。


 クラリスは尋ねた。


「なぜ白鴎館へ返さなかったのですか」


「返せと言われてない」


「誰に?」


「G席に置かれていた札に」


「札?」


「赤茶札です。“白館分、預。後で回す”と」


「その札は残っていますか」


 マーロは首を振った。


「残ってねえと思います。そういう札は、終わったら燃やすか、使い回す」


「誰の字でしたか」


「字なんか……」


 彼は言いかけて、眉を寄せた。


「いや、覚えてる。綺麗な字じゃなかった。港の者の字だ。右へ流れる」


「ギデオン本人の字ですか」


 マーロは、すぐ首を振った。


「違う。ギデオンさんの字はもっと大きい。あれは、たぶんトマか、バインの誰か……いや、違うな。札だけ持ってきたのは灰色の外套の男だった」


 部屋の空気が変わった。


 灰色の外套。


 旧礼拝堂跡でも出た影。


 バルナス主任らしさを作った外套。


 ロス元御者の弱証言にもあった。


 クラリスは、声を変えないようにして尋ねた。


「その男を覚えていますか」


 マーロは嫌そうな顔をした。


「顔はよく見てねえ。見ない方がいいと思った」


「なぜ?」


「そういう男だったからです。こっちを見ているのに、顔を見られたくないやつ」


「特徴は?」


「灰色の外套。帽子を深く。右足を少し引く。あと、声が低い」


 ミレーヌの筆が止まりそうになった。


 クラリスは視線で促す。


 書く。


 推定ではなく、証言として。


 マーロ証言:赤茶札を持ってきたのは灰色外套の男。顔不詳。右足を少し引く。声が低い。


 カレルが問う。


「その男は何と言いましたか」


「“戻しではない。預かりだ。乾き場へ”と」


「それだけ?」


「あと、“礼拝堂の方へ回すかもしれん。まだ開けるな”と」


 旧礼拝堂。


 また、そこへ戻る。


 ミレーヌが小さく息を吸った。


 マーロは続ける。


「俺は、言われた通りにしただけです」


「乾き場から、誰が持っていきましたか」


「灰色外套の男です。たぶん二日後。俺が見た時には、包みはなくなってた。乾き場の番人が、灰色のやつが持っていったと言ってた」


「番人の名は?」


「ペトロ。今はもう死んでる」


 死者の名。


 記録がまた薄くなる。


 しかし、まだ諦めない。


「乾き場の控えはありますか」


 マーロは首をかしげた。


「控えってほどじゃないけど、壁板に札を刺す場所がある。残ってれば……いや、二年前だぞ」


「探します」


 クラリスが言うと、マーロは目を丸くした。


「本気かよ」


「はい」


 マーロは、少しだけ顔を伏せた。


「俺、盗んでねえんだ」


「その点も分けて確認します」


 クラリスは答えた。


「あなたが運んだことと、盗んだことは同じではありません。ただし、運んだ先を確認する必要があります」


 マーロは、しばらく黙った後、小さく頷いた。


「分かった」


 港裏の乾き場は、川沿いにあった。


 今はほとんど使われていない小屋だった。


 屋根は低く、壁板は湿気で黒ずんでいる。


 中には、古い木棚と、縄をかける梁がある。


 壁の一角に、札を刺す細い板があった。


 正式な帳簿ではない。


 だが、港の現場ではこういうものがよく使われる。


 荷札を刺しておく。


 どの荷がどこから来て、どこへ回すかを示す。


 紙より雑だが、現場では見やすい。


 カレルが慎重に確認する。


 古い札はほとんど残っていなかった。


 しかし、板の隙間に、小さな紙片が挟まっていた。


 湿気で変色している。


 ヘレナがいれば、すぐに保全と言っただろう。


 今回は同行していないため、カレルが手袋を使い、丁寧に取り出した。


 読める部分はわずかだった。


 白……寝一……預……礼……


 ミレーヌが震える声で読む。


「白……寝一……預……礼……」


 白館寝具一。

 預。

 礼拝堂。


 そう読める。


 ただし、欠けが多い。


 断定はできない。


 クラリスは記録した。


 乾き場札片:“白…寝一…預…礼…”と読める可能性。白館寝具一・預かり・礼拝堂を示す可能性。断定不可。


 さらに、床の隅から小さな布糸が見つかった。


 白灰色の糸。


 ニナの確認が必要だ。


 カレルが保全する。


 これがC-3正温の糸かは分からない。


 だが、寝具包がここに置かれた可能性を支えるかもしれない。


 夕方、マーロへの追加確認が行われた。


 乾き場札片の写しを見せると、彼は顔をしかめた。


「これ、あの時のかもしれねえ」


「確かですか」


「確かとは言えねえ。でも、白館寝一、預、礼……そういう札だったと思う」


「礼は礼拝堂?」


「たぶん。旧礼拝堂の方へ回すかもって言われたから」


「なぜ礼拝堂へ?」


「知らねえ」


「ギデオン本人は関わりましたか」


 マーロは首を振った。


「その頃、ギデオンさんはもう奥席には来たり来なかったりだ。あの荷は、ギデオンさん本人じゃない」


「では、G席の名だけが使われた」


「そうです」


 マーロは、はっきり言った。


「G席は、ギデオンさんがいなくても動く。席に札があれば、誰かが動く。俺みたいなのが」


「誰の責任で?」


 ミレーヌが思わず尋ねた。


 マーロは、困ったように笑った。


「責任なんか、座ってねえよ」


 その言葉に、部屋が静まった。


 責任なんか、座っていない。


 G席は、人ではなく、待っている椅子だった。


 その椅子には、責任は座っていなかった。


 クラリスは、低く言った。


「今の言葉も記録します」


 マーロは目を伏せた。


「構いません」


 夜、顧問室に戻ると、報告書がまとめられた。


 表題。


 マーロ聴取およびG席寝具包一移送経路確認報告


 主な内容。


 一、マーロは旧G便連絡札・小荷扱いの港湾雑用人。

 二、G席返却札の白館寝具包一を持ち出したことを概ね認める。

 三、マーロは当該荷を盗んだのではなく、G席の赤茶札に従い「預かり」として扱ったと主張。

 四、赤茶札には「白館分、預。後で回す」趣旨があったと証言。

 五、札を持ち込んだのは灰色外套の男。顔不詳、右足を少し引く、声が低いとの証言。

 六、灰色外套の男は「戻しではない。預かりだ。乾き場へ」「礼拝堂の方へ回すかもしれん。まだ開けるな」と発言したとの証言。

 七、マーロは港裏の乾き場へ寝具包一を運んだ。二日後には灰色外套の男が持ち出したと聞いたと証言。

 八、乾き場の札板から「白…寝一…預…礼…」と読める札片を発見。白館寝具一・預かり・礼拝堂を示す可能性。断定不可。

 九、乾き場床隅より白灰色糸を保全。C-3正温との照合要。

 十、マーロは、当該荷にギデオン本人は関わっておらず、G席の名だけが使われたと証言。

 十一、G席には責任者がおらず、札が置かれれば雑用人が動く構造だった可能性が高い。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 G席には、ギデオン本人ではなく、札と椅子と走る者だけが残っていた。そして、その椅子には責任が座っていなかった。


 ミレーヌは、壁の前でしばらく考えた。


 そして、札に書いた。


 席に責任は座らない。人の名前を書かなければならない。


 イリスが、静かにその札を貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 リンド商会経由の一梱は、G席から乾き場へ行き、そこから灰色外套の男に持ち出された可能性が高まった。


 そして、その男は旧礼拝堂へつながっている。


 灰色外套。

 右足を引く歩き方。

 低い声。


 バルナス主任らしさをまとった別人か。

 あるいは、誰かが意図的にそう見せたのか。


 次に追うべきは、乾き場から旧礼拝堂へ運ばれた寝具包一。


 もしそれが旧礼拝堂で開かれ、布見本と一緒に扱われていたなら。


 C-3の最後の一梱は、ハーゲンが気づいた証拠そのものになっていたかもしれない。

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