第147話 G席は、人ではなく、待っている椅子だった
G席。
その言葉は、何度も出てきた。
G札。
G夜。
G便。
G経由。
そして、G席。
最初は、ギデオン・マースという一人の男を追っているはずだった。
だが、調べれば調べるほど、Gは人の名前だけではなくなっていった。
札になり、便になり、夜間手配になり、連絡場所になった。
人の名が、道になった。
そして、その道のひとつが、客人荷へ入ったC-3正温一梱を王宮の外へ運んだ可能性がある。
リンド商会の宿泊控えには、こう残っていた。
白館より寝具借。港仮宿へ。返却はG席へ。
返却はG席へ。
白鴎館でもない。
施設局でもない。
王宮慈善窓口でもない。
南施療院でもない。
G席へ。
ミレーヌは、朝からずっとその一文を見ていた。
「返す場所を変えれば、返したことにはならない」
壁に貼られた自分の札を見上げ、彼女は小さく言った。
「この一梱は、返したつもりだったのでしょうか」
「リンド商会側は、そう思っていた可能性があります」
クラリスは答えた。
「白館から借りた寝具を、指定されたG席へ返す。商会側から見れば、手順通りだったかもしれません」
「でも、王宮には戻っていない」
「はい」
「誰がG席へ返せと言ったのでしょう」
「今日は、そこを見ます」
オスカーが、港湾側から取り寄せた資料を机に置いた。
リンド商会の港仮宿記録。
濡れ帆亭の古い席帳。
荷預かり札の控え。
港湾連絡人名簿。
そして、旧G便聞き取りで出てきた赤茶のG札の写し。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「席とは、座る人が変わっても席でございますから」
「今日の題にしたいくらいですね」
ミレーヌが呟く。
クラリスは少しだけ頷いた。
「ええ。G席は、人ではなく、場所かもしれません」
港仮宿は、王宮の外にあった。
港湾地区の北端、商会の倉庫街に挟まれた古い建物である。
王都へ来た商人の随員や御者、荷運びが短期で泊まる場所。
リンド商会は、その一部を借りていた。
王宮の迎賓館とは違う。
床は硬く、天井は低く、窓は小さい。
それでも、冬の夜をしのぐには十分だったのだろう。
現地確認には、カレル調査官、クラリス、オスカー、ミレーヌ、そして港湾管理局のドレイクが同行した。
リンド商会からは、古い記録を管理している番頭のエルマーが立ち会った。
五十代の、少し猫背の男だった。
「二年前の記録となると、完全ではありませんが」
エルマーは最初にそう言った。
「ただ、白館から借りた寝具の件は、控えがございます」
彼が出したのは、港仮宿の寝具貸借控えだった。
そこには、こうある。
白館寝具包一。上等。随員室へ。帰港時、G席返却。
また、G席。
ミレーヌが書く。
港仮宿寝具貸借控え:白館寝具包一、随員室へ。帰港時、G席返却。
クラリスは尋ねた。
「G席とはどこですか」
エルマーは少し困った顔をした。
「濡れ帆亭の奥席です」
「ギデオン・マース本人の席ですか」
「昔は、そうだったと聞いております。しかし、私どもの時代には、もう本人が常にいる席ではありませんでした」
「誰が座っていたのですか」
「日によって違います。港の連絡人、商会の使い、時には空席。ただ、そこに札や荷受け証を置けば、G経由のものとして扱われました」
ドレイクが低く息を吐いた。
「席だけが残ったか」
エルマーは、申し訳なさそうに言った。
「商会側では便利でした。王宮関係の急ぎ荷、返却荷、港湾の仮受けなどを、誰へ返せばいいか分からない時に、G席へと言われることがありまして」
「誰に言われるのですか」
カレルが尋ねる。
「港湾の者、財務院の使い、時には白館の荷運び係です。こちらは、指示された通りに」
また、指示された通り。
クラリスは、そこを丁寧に分ける。
「リンド商会が、自分でG席を返却先に決めたのではない?」
「少なくとも、この件では違います。白館側から“返却はG席”と聞いております」
「誰から?」
「控えには名がありません。ただ、備考に……」
エルマーは紙の端を示した。
そこに小さく書かれていた。
白館K筋
ミレーヌの筆が止まる。
K筋。
また、ケインの影。
「K本人」ではなく「K筋」。
本人の周辺。
使い。
紹介者。
連絡係。
逃げ道の多い言葉だった。
オスカーが記録する。
備考に“白館K筋”。K本人ではなく、K関係筋からの指示の可能性。要確認。
クラリスは続けた。
「実際にG席へ返却しましたか」
「はい。返却札が残っています」
エルマーが出したのは、小さな赤茶色の札だった。
角には、三本の釘跡のような印。
旧G便の御者が語っていた、G札に似ている。
札には、こう書かれていた。
寝具包一 白館分 受 G席
日付は、白鴎館退去の三日後。
受け取り印はない。
ただ、G席とだけ。
ドレイクが顔をしかめた。
「受け取った人間の名がない」
「席が受け取ったことになっています」
クラリスは言った。
その言葉に、ミレーヌが顔を上げる。
席が受け取る。
人ではなく、席が。
それがどれほど危ういことか、もう彼女にも分かっている。
ミレーヌは手帳に書いた。
席が受け取ると、人が消える。
濡れ帆亭は、港の古い酒場だった。
昼間なのに薄暗く、壁には船具や古い灯具が飾られている。
奥には、半ば仕切られた席がある。
そこが、G席だった。
今はただの古い席に見える。
木のテーブル。
磨り減った椅子。
壁際の棚。
小さな札入れ。
しかし、港の者にとっては、かつてそこが何かの窓口だった。
濡れ帆亭の主人は、白髪交じりの女性だった。
名はライザ。
彼女はG席の話をされても、驚かなかった。
「ああ、奥席ですね」
「今も使われていますか」
カレルが尋ねる。
「今はただの席です。昔ほどではありません。ただ、古い客は今でも“奥へ置いておく”と言うことがあります」
「G席と呼びますか」
「年寄りは、たまに」
「ギデオン・マースはここにいましたか」
ライザは目を細めた。
「昔は。けれど、二年前には、もう本人はあまり来ていません」
「二年前、白館分の寝具包一を受け取った記録があります」
クラリスが札を見せると、ライザはそれを見て顔をしかめた。
「この札、うちの札入れのものですね」
「受け取った人は?」
「分かりません。G席に置かれた荷は、店の者が倉庫脇へ移すこともありました。でも、中身までは」
「誰が取りに来ましたか」
「連絡人です。たぶん、マーロ」
「マーロ?」
「昔、ギデオンの使いをしていた男です。本人が消えたり現れたりするようになってから、G席の札を取りに来ていた」
新しい名が出た。
マーロ。
ギデオンの使い。
ドレイクが小さく呟く。
「まだいたのか」
「ご存じですか」
クラリスが尋ねると、ドレイクは渋い顔をした。
「港の小使いです。正式な荷運びではない。連絡札や小荷を扱っていた男です」
「現在は?」
「確認します」
ライザは、思い出すように言った。
「寝具包なら、たしか大きめの布包みが一つありました。上等そうでしたね。うちでは開けていません。マーロが“これは戻しじゃなくて預かりだ”と言っていました」
「戻しではなく、預かり」
クラリスが繰り返す。
「はい。だから、白館へ戻すのではなく、しばらく置くものだと思いました」
「その後は?」
「マーロが持っていきました。どこへかは分かりません」
ミレーヌが、慎重に書く。
濡れ帆亭主人ライザ証言:白館分寝具包一らしき布包みをG席で受けた記憶。ギデオンの使いマーロが“戻しではなく預かり”と言い、後に持ち出し。行き先不明。
返却ではなかった。
預かりだった。
リンド商会は返却したつもりだった。
G席は預かった。
白鴎館へは戻らない。
王宮にも戻らない。
クラリスは白紙に書いた。
返却の預かり化
定義。
返却として出された物資が、返却先ではなく中間連絡席で預かり扱いとなり、元の管理台帳へ戻らない状態。返した側は返却済みと認識し、管理側は未回収となる。
ミレーヌは、その定義を見て小さく言った。
「返した人も、受け取った人も、悪いことをしているつもりがない場合もありますね」
「あります」
クラリスは答えた。
「だから、仕組みが危ないのです」
港湾管理局へ戻ると、マーロの名が確認された。
正式職員ではない。
港湾雑用人。
旧G便時代には、ギデオン・マースの小使いとして札や荷受けを扱っていた。
現在の所在は、不明。
ただし、数か月前まで港周辺で見かけられていた。
カレルはすぐに追跡手配を出した。
「マーロは、ギデオン本人へつながる可能性があります」
クラリスは頷いた。
「はい。ただ、本人よりもG席の維持役かもしれません」
「どちらでも重要です」
「ええ」
ドレイクは、濡れ帆亭の席帳を見ながら苦い顔をしていた。
「港の外の席まで管理するのは難しい」
「そうでしょう」
クラリスは答えた。
「ですが、王宮物資の返却先として使われたなら、管理外では済みません」
「分かっています」
ドレイクは疲れた声で言った。
「G席を正式に廃止させます」
「廃止の記録だけでは足りません」
「では?」
「G席へ置かれた可能性がある王宮物資の洗い出しが必要です」
ドレイクは、さらに疲れた顔になった。
「増えますな」
「増えます」
「ですが、やります」
その返答は早かった。
港湾管理局も、少しずつ変わり始めている。
少なくとも、逃げずに紙へ戻そうとしている。
夕方、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
リンド商会寝具包一およびG席返却経路確認報告
主な内容。
一、リンド商会港仮宿記録に「白館寝具包一。上等。随員室へ。帰港時、G席返却」。
二、備考に「白館K筋」。K本人ではなくK関係筋からの指示の可能性。
三、返却札に「寝具包一 白館分 受 G席」。受取人名なし。赤茶札・三本釘様印あり。
四、濡れ帆亭奥席がG席として使用されていたことを確認。二年前にはギデオン本人不在でも、席が連絡窓口として機能。
五、濡れ帆亭主人ライザ証言では、白館分寝具包一らしき布包みをG席で受け、ギデオンの使いマーロが“戻しではなく預かり”と言って持ち出した。
六、リンド商会側は返却した認識、G席側は預かり扱いであり、返却の預かり化が発生した可能性。
七、寝具包一は白鴎館・施設局・南施療院へ戻った記録なし。
八、マーロは旧G便時代の連絡札・小荷扱いの雑用人。現在所在確認中。
九、G席が王宮物資返却先として使われていた可能性があり、港湾管理局による残存通称・非正式返却先の洗い出しが必要。
十、K筋、G席、マーロ、リンド商会の関係を継続確認する。
クラリスは最後に一文を書いた。
リンド商会の一梱は、返したつもりでG席へ置かれ、G席では預かりとなり、王宮へ戻る道を失った。
ミレーヌは、壁の前で筆を取った。
少し考えてから、こう書いた。
人ではなく席が受け取ると、責任も座ったまま動かない。
イリスが、少しだけ目を細めた。
「よい札でございます」
壁に貼られる。
国際案件の箱に報告書が入る。
これで、客人荷へ消えた二梱のうち、一梱はG席へたどり着いた。
そして、そこからマーロという男へ渡った。
ギデオン本人ではない。
だが、ギデオンの名を預かる席を動かしていた男。
次は、そのマーロを探す必要がある。
彼が持ち出した寝具包一がどこへ行ったのか。
そして、ギデオン・マース本人が、今もその影を知っているのか。
G席は、人ではなく、待っている椅子だった。
だが、その椅子に置かれた布は、確かにどこかへ運ばれていた。




