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第156話 証言した者を、机の外へ落とさない

証言した者は、ひとりになりやすい。


 気づいた時も、ひとり。

 書いた時も、ひとり。

 呼ばれて話した後も、ひとり。


 そして、部屋を出た途端、周囲の空気が変わる。


 あいつが言った。

 あいつが余計なことを書いた。

 あいつが古い机を壊した。

 あいつのせいで、仕事が増えた。


 そういう声は、紙にはなかなか残らない。


 けれど、人を静かに追い詰める。


 ハーゲン補助官は、そうして孤立したのかもしれない。


 クラリスは、顧問室の机にミケル・ロウ書記の証言記録を置いていた。


 私の名を書くな。筋で足りる。筋で動ける者だけ動かせ。


 ミケルはそう証言した。


 ケイン元参事補佐は、第三回確認でそれを完全には認めなかった。


 だが、「私の名を軽々しく使うな」とは言った。

 「筋で足りる」と似た趣旨のことを言った可能性は認めた。

 そして、K筋という言葉を使った責任を、ミケルへ押し戻すような言い方をした。


 危うかった。


 とても危うい。


 ミレーヌは、壁の札を見上げていた。


 名前を書かないよう命じることも、ひとつの命令である。


「ミケルさん、大丈夫でしょうか」


「大丈夫にしなければなりません」


 クラリスは答えた。


 ミレーヌが顔を上げる。


「守る、ということですか」


「はい」


「どうやって?」


「証言を孤立させないようにします」


 ミレーヌは、少し考えて手帳を開いた。


「証言を孤立させない……」


「証言者本人だけの言葉にしない。紙、札、使用簿、他の証言と束ねる。さらに、証言したことを理由に不利益を受けないよう、手続きを作る」


 オスカーが静かに頷いた。


「証言者保護手順ですね」


「はい。正式な名前は少し整えますが」


 イリスが茶を置きながら、穏やかに言った。


「勇気を出して話した方を、話した後に廊下へ置き去りにしてはなりませんから」


 クラリスは、その言葉を記録した。


 話した後に、廊下へ置き去りにしない。


 午前中、王弟府の小会議室に、関係者が集められた。


 レオンハルト。

 カレル調査官。

 クラリス。

 オスカー。

 ミレーヌ。

 グレゴール参事官。

 そして、商務評議会の現書記長セラフィン。


 議題は明確だった。


 K筋連絡卓関連証言者の保全および不利益防止。


 グレゴール参事官は、いつもよりさらに険しい顔をしていた。


「ケインは、ミケルへ押し戻したな」


「はい」


 クラリスは答えた。


「ミケル書記が勝手にK筋と書いた可能性を示唆しました」


「古い手だ」


 グレゴールは吐き捨てるように言った。


「上は“そんなつもりではなかった”と言い、下は“そう受け取った”ことにされる」


 レオンハルトが低く言った。


「今回は、それを許さない」


 その声だけで、部屋の空気が締まる。


 クラリスは白紙に手順を書いた。


 一、ミケル・ロウ証言は単独証言として扱わず、K筋連絡卓使用簿、赤茶札、ヴィクトル証言、エリック証言、ケイン第三回確認記録と束ねる。

 二、証言者への直接接触を制限する。

 三、所属先・人事評価・異動・職務変更に関する不利益扱いを一時停止する。

 四、証言に反論がある場合は、本人への圧ではなく王弟府調査窓口へ文書で出す。

 五、証言者が自分の証言内容を確認できる写しを持つ。

 六、証言者を「責任者」に変えない。証言したことと、当時書いたこと、当時命じたことを分ける。


 ミレーヌは最後の項目で顔を上げた。


「証言者を責任者に変えない……」


「大事です」


 クラリスは言った。


「もちろん、ミケル書記にも当時札を書いた責任はあります。けれど、彼が証言したからといって、すべてを彼に背負わせてはいけません」


 セラフィン書記長が、慎重に口を開いた。


「商務評議会としても、ミケルを処分する予定はありません」


「予定は、保護ではありません」


 クラリスは静かに返した。


 セラフィンは少しだけ顔を強張らせた。


「……おっしゃる通りです」


「文書でください」


「はい」


 グレゴール参事官が続けた。


「財務院からも出す。ミケルの証言を理由に、財務院側が彼へ照会や抗議を直接行うことを禁じる」


 レオンハルトが頷く。


「王弟府名で通達する」


 カレルがすぐに文案を組み始めた。


 その場で作られた通達は、短いが強かった。


 K筋連絡卓関連証言者に対し、証言内容を理由とする直接接触、職務上不利益、評価変更、異動圧力、非公式抗議を禁じる。反論・訂正・補足は、王弟府調査窓口へ文書提出すること。


 ミレーヌは、その文をじっと見ていた。


「これがあれば、ハーゲンさんも……」


 途中で言葉を止めた。


 言っても仕方がないと思ったのだろう。


 だが、クラリスは首を横に振らなかった。


「はい」


 クラリスは言った。


「あれば、違ったかもしれません」


 部屋は静まり返った。


 取り返せないことを、取り返せないまま認める。


 その上で、次を変える。


 それが今やっている仕事だった。


 午後、ミケル・ロウ書記が呼ばれた。


 彼は前回よりもさらに顔色が悪かった。


 小会議室に入るなり、深く頭を下げる。


「私の証言で、何か問題が……」


「問題があるから呼んだのではありません」


 クラリスはすぐに言った。


 ミケルは顔を上げる。


「では」


「あなたの証言を保全し、あなたへの不利益を防ぐためです」


 ミケルは、言葉の意味をすぐには理解できなかったようだった。


 カレルが通達文を見せる。


 ミケルは目を通し、途中で指が止まった。


「直接接触、職務上不利益、評価変更、異動圧力……」


「証言を理由に、あなたへ非公式な圧がかかることを防ぎます」


 クラリスは言った。


 ミケルは、少しだけ唇を震わせた。


「私は、責任を逃れたいわけではありません」


「分かっています」


「私は札を書きました。K筋と書きました。人を動かしました」


「はい」


「でも、全部を私が考えたわけではありません」


「そのために、この手順があります」


 ミケルは、俯いた。


「前は、ありませんでした」


 誰のことを言っているのか。


 全員が分かった。


 ハーゲン。


 気づき、書き、強硬とされ、孤立した若い補助官。


 ミケルは小さく言った。


「ハーゲンは、私よりずっと強かった。私は見ていただけです。彼が何を言っていたか、分かっていたのに」


 クラリスは、すぐに慰めなかった。


 それは慰めれば済む話ではない。


「今、話しています」


 クラリスは言った。


「遅いかもしれません。でも、今の証言は必要です」


 ミケルは、顔を上げた。


 目が赤い。


 だが、泣いてはいない。


「私の証言は、あの人を戻せますか」


 部屋が静かになる。


 クラリスは、嘘をつかなかった。


「戻せません」


 ミケルは目を伏せる。


「でも、あの人が何に気づいていたかを、戻すことはできます」


 その言葉に、ミケルはゆっくり顔を上げた。


「何に気づいていたか……」


「はい。ハーゲン補助官が強硬だったのではなく、正しい布が正しい場所へ行っていないことに気づいていた。その記録を戻せます」


 ミケルは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく頷いた。


「なら、話します」


「無理に今、追加証言を求める場ではありません」


「いえ。今、思い出したことがあります」


 カレルが筆を構える。


 ミケルは、ゆっくり言った。


「ハーゲンが、私に一度だけ言いました。“数が合うことを盾にしてはいけない。布は人を温めるためにある。数字を温めるためじゃない”と」


 ミレーヌの筆が止まった。


 その言葉は、あまりにもハーゲンらしかった。


 会ったことのない若い補助官の声が、その場に落ちたようだった。


 クラリスは、静かに言った。


「記録します」


 ミケルは続けた。


「その時、私は何も言えませんでした。K筋の札を書いていたからです。彼に見透かされた気がして……」


「その会話はいつ頃ですか」


「南施療院の件の後、旧礼拝堂の少し前だったと思います」


「場所は?」


「財務院北廊下です」


「他に聞いていた人は?」


「いなかったと思います」


 弱い証言だ。


 だが、重要な証言だった。


 ハーゲンが何を見ていたか。


 何を言おうとしていたか。


 それを補う声だった。


 ミレーヌは、震える字で書いた。


 ミケル追加証言:ハーゲン補助官は「数が合うことを盾にしてはいけない。布は人を温めるためにある。数字を温めるためじゃない」と発言した記憶。時期は南施療院後、旧礼拝堂前頃。場所は財務院北廊下。単独証言。


 単独証言。


 それでも、紙に残す。


 孤立させず、他の記録と束ねる。


 夕方、王弟府通達が正式に発出された。


 商務評議会、財務院、施設局、港湾管理局へ。


 ミケルだけでなく、ヴィクトル、エリック、セヴラン、マーロ、ヘクター、オルド、そしてバルナス主任についても、証言・聴取を理由とする非公式接触を制限する補足がついた。


 もちろん、彼らにはそれぞれ責任がある。


 だが、責任確認と圧力は違う。


 証言した者を潰せば、次に誰も話さなくなる。


 それは、またハーゲンを作ることになる。


 顧問室へ戻ると、ミレーヌは壁の前に立った。


 札は増えている。


 名前を書かないよう命じることも、ひとつの命令である。

 席に責任は座らない。人の名前を書かなければならない。

 鋏を持つ手と、切らせた声を分ける。

 影を着せられた人と、影を作った人を分ける。


 そして、今日の言葉。


 ミレーヌは、筆を取った。


 話した人を、話した後にひとりにしない。


 イリスがそれを見て、静かに頷いた。


「よい札でございます」


 クラリスも頷いた。


「貼りましょう」


 国際案件の箱には、今日の報告書が入った。


 表題。


 K筋連絡卓関連証言者保全手順およびミケル・ロウ追加証言報告


 主な内容。


 一、ケイン第三回確認において、ミケル書記へ責任が押し戻される可能性が発生。

 二、K筋関連証言者への直接接触・不利益扱い・評価変更・異動圧力・非公式抗議を禁じる王弟府通達を作成。

 三、反論・訂正・補足は王弟府調査窓口へ文書提出とする。

 四、ミケル証言は単独証言ではなく、K筋連絡卓使用簿、赤茶札、ヴィクトル証言、エリック証言、ケイン確認記録と束ねて扱う。

 五、ミケルは、ハーゲン補助官が「数が合うことを盾にしてはいけない。布は人を温めるためにある。数字を温めるためじゃない」と発言した記憶を追加証言。

 六、当該証言は単独記憶証言であるが、ハーゲンが数量ではなく布の行き先・用途を問題視していた他証言と整合。

 七、証言者保全は責任免除ではなく、証言後の圧力防止と証言の孤立化防止を目的とする。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 ハーゲンを守れなかった机は、ミケルを同じ場所へ落としてはならない。証言者を守ることは、証言の中身を守ることでもある。


 箱を閉じた後も、ミレーヌはしばらく壁の札を見ていた。


「ハーゲンさんの言葉、重いですね」


「はい」


「数字を温めるためじゃない……」


「彼は、最初から核心を見ていたのでしょう」


 クラリスは静かに言った。


 ミレーヌは頷いた。


「なら、戻してあげたいです」


「何を?」


「あの人が、正しかったということを」


 クラリスは、少しだけ目を伏せた。


「戻しましょう」


 それは、失踪した人間を戻すこととは違う。


 けれど、彼の言葉と気づきを、処理済みの下から戻すことはできる。


 次に必要なのは、ハーゲン補助官の正式な再評価だった。


 強硬な若者ではなく、最初に布の行き先を見抜いた補助官として。


 紙の中で、彼の名前を正しい場所へ戻す時が来ていた。

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