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第145話 端に残った印は、布の名前を取り戻した

布は、名前を変えられる。


 台帳の上では、簡単に。


 慈善保温布。

 上等保温布。

 客用保温布。

 北翼常備布。

 臨時接待備品。

 膝掛け。


 言葉を変えれば、同じ布でも別の顔になる。


 けれど、布そのものは変わらない。


 織り目も、厚みも、重さも、端の印も。


 もし、端印が残っていれば。


 それは、布が自分の名前を覚えているということだった。


 クラリスは、顧問室の机に二つの確認先を書いた。


 白鴎館北翼 客用保温布二。

 商務評議会控室 膝掛け二。


 どちらも、C-3正温八梱の未返却分から姿を変えた可能性があるものだ。


 ミレーヌは、壁の札を見上げていた。


 名前を変えても、借りたものは返したことにならない。


「今日は、現物確認ですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「台帳ではなく、布そのものを見ます」


「端印が残っていれば……」


「由来確認の重要な手がかりになります」


「なければ?」


「ないと記録します」


 ミレーヌは、もう慣れたように小さく頷いた。


「見つからないことも、探した場所と一緒に書く」


「ええ」


 イリスが茶を置きながら言った。


「古い布ほど、端が切られていることもございます。見つからなくても、切った跡が残ることも」


「端印を消すために?」


 ミレーヌが尋ねる。


「そういうことも、ございます」


 イリスの声は静かだった。


 だが、部屋の空気が少し重くなる。


 端印は、布の名前。


 名前を変えたい者は、端を切る。


 白鴎館北翼は、昼間でも少し寒かった。


 今はほとんど使われていない迎賓館。


 白い石壁は美しいが、冬には冷えを抱え込む造りだ。


 北翼の客室は、窓が大きく、見晴らしはいい。


 だが、風も入る。


 ここに客人を泊めるなら、確かに上等な保温布が必要だっただろう。


 問題は、それをどこから持ってきたかだった。


 立ち会いは、施設局の現在の管理官、カレル調査官、クラリス、ミレーヌ、オスカー、イリス。


 そして、布を見るためにエヴァレット夫人とニナも同行していた。


 北翼の備品庫は、古い鍵で開けられた。


 中には、客用寝具、古いカーテン、予備の敷布、枕袋などが積まれている。


 管理官が帳簿を開いた。


「北翼客用保温布二。現在も保管されています。ただ、ここ数年はほとんど使っておりません」


 棚の奥から、二枚の保温布が出された。


 白灰色。


 厚手。


 持ち上げると、軽いのに空気を含む。


 ニナが触れた瞬間、顔を引き締めた。


「C-3正温の見本と近いです」


 エヴァレット夫人も頷く。


「織りはかなり近いですね。少なくとも、白鴎館用の標準寝具ではありません」


「端印は?」


 クラリスが尋ねる。


 管理官が布の端をめくる。


 だが、印はすぐには見つからなかった。


 四辺を確認する。


 一枚目。


 端の一か所が不自然に短い。


 布幅に対して、そこだけ折り返しが浅い。


 イリスが目を細めた。


「切っていますね」


「分かりますか」


「はい。縫い直しが雑です。元からの端ではありません」


 エヴァレット夫人が確認する。


「確かに、後から端を落として縫い直しています」


 ミレーヌが息を詰めた。


「端印を……」


「可能性です」


 クラリスは静かに言った。


「まだ決めません」


 二枚目を確認する。


 こちらも同じように、端の一か所が切られている。


 ただし、二枚目の裏側、折り返しの内側に、小さな糸色の違いが残っていた。


 ニナが顔を近づける。


「ここ、刺繍糸が残っています」


「読めますか」


「完全には。でも……」


 彼女は少し迷った。


 エヴァレット夫人が隣で確認する。


「王宮慈善印の一部に似ています。“慈”の左側……いえ、断定はできません」


 ヘレナがいれば紙を読むように見ただろう。


 今日は現物の布だ。


 エヴァレット夫人は慎重に言った。


「端印は切除された可能性が高い。ただし、二枚目には王宮慈善印の刺繍糸残りらしきものがあります。専門照合が必要です」


 ミレーヌは丁寧に記録した。


 白鴎館北翼保温布二。C-3正温見本と布質近似。両方とも端一部切除・縫い直し跡あり。二枚目折返し内側に王宮慈善印の一部らしき刺繍糸残り。断定不可、照合要。


 クラリスは、布を見つめた。


 慈善物資の名前を消すために端を切ったのか。


 あるいは、傷んだから直しただけなのか。


 まだ分からない。


 だが、二枚とも同じ位置に近い処理がある。


 偶然とは言いにくい。


 管理官は、明らかに動揺していた。


「私は、由来を知りませんでした。台帳では北翼常備布としか」


「はい」


 クラリスは答えた。


「そこも記録します。現在の管理官が由来を知らなかったことは、あなたの責任とは別です」


 管理官は、少しだけ救われたように頷いた。


 次に向かったのは、商務評議会の控室だった。


 王宮実務棟の奥にある、外部顧問や商人代表が待機するための部屋。


 磨かれた机。

 革張りの椅子。

 壁際には暖炉。


 そして、椅子の背に掛けられた二枚の膝掛け。


 薄茶色に染め直されていた。


 ぱっと見ただけでは、元が保温布だったとは分からない。


 商務評議会の書記は、困惑した顔で言った。


「こちらは臨時接待備品として、何年か前から置かれています。由来は台帳に……」


 台帳には、こうある。


 膝掛け二 補修場転用 商務評議会控室へ。


 それ以上はない。


 ニナが膝掛けに触れた。


 すぐに眉を寄せる。


「これ、染めています。でも元の織りはC-3に似ています」


 エヴァレット夫人が縁を確認する。


「裁ち直していますね。一枚の保温布を二つに切ったのでしょう」


「端印は?」


 カレルが尋ねる。


 エヴァレット夫人は、四隅を調べた。


「表にはありません。端は全部処理し直されています」


 その時、イリスがそっと片方の膝掛けを裏返した。


「縫い代の内側、ほどけば見えるかもしれません」


 商務評議会書記が慌てた。


「ほどくのですか」


 カレルが冷静に言う。


「証拠保全手順で行います。必要最小限です」


 エヴァレット夫人が、縫い目の一部を慎重に確認した。


 完全にほどく前に、内側から細い糸が覗いた。


 濃い青。


 王宮慈善印に使われる色だった。


 ニナが、小さく言った。


「あります」


 縫い代の奥。


 切られて半分になった印の残り。


 完全な文字ではない。


 だが、円形の縁取りと、慈善布に使われる青糸の一部が残っていた。


 エヴァレット夫人の声は硬かった。


「王宮慈善印の残糸である可能性が高いです。白鴎館の二枚より、こちらの方が残りが明瞭です」


 ミレーヌは、震える手で書く。


 商務評議会膝掛け二。染め直し・裁ち直しあり。縫い代内側に王宮慈善印由来と思われる濃青糸と円形縁取りの残り。C-3正温布見本と織り近似。


 クラリスは、膝掛けを見た。


 病床を温めるはずだった布。


 それが二つに切られ、染め直され、商務評議会の控室で膝掛けになっていた。


 膝掛けそのものに罪はない。


 使っていた者も知らなかったかもしれない。


 だが、布の名前は隠されていた。


 縫い代の奥に、かろうじて残されていた。


 書記が青ざめた顔で言った。


「まさか、慈善物資だとは……」


「現時点では可能性です」


 クラリスは言った。


「ただし、現物照合が必要な重要資料です。この膝掛け二枚は保全します」


 商務評議会書記は反論しなかった。


 反論できなかったのだろう。


 顧問室へ戻ると、現物確認の結果がすぐ整理された。


 オスカーが表にする。


 C-3正温八梱推定内訳。


 三梱――返却、補修場へ。

 二梱――白鴎館北翼常備布。端印切除跡、慈善印残糸らしきもの。

 一梱――補修場転用、膝掛け二へ。商務評議会控室で現物確認。慈善印残糸可能性高。

 二梱――客人荷へ持ち出し、未回収。


 残りの問題は、客人荷へ入った二梱だった。


 だが、それ以外の六梱分は、かなり強い線になってきた。


 白鴎館へ入り、返った三梱。

 白鴎館へ残った二梱。

 商務評議会へ膝掛け化した一梱。


 借りたものが、返されず、名前を変えた証拠。


 ミレーヌは、ずっと黙っていた。


 クラリスは声をかける。


「大丈夫ですか」


「……膝掛けでした」


「はい」


「病床の布が、膝掛けに」


「可能性が高いです」


「寒かった人がいたのに」


 その先は、言葉にならなかった。


 クラリスも、すぐには答えなかった。


 怒りはある。


 けれど、この怒りを報告書の形にしなければならない。


 感情のままでは届かない。


 冷たすぎれば、痛みが消える。


 その間を探すのが、今の仕事だった。


 夕方、ケイン元参事補佐に現物確認結果が伝えられた。


 彼は小会議室で、商務評議会の膝掛けの写しと、縫い代内側の残糸の図を見た。


 顔色は変わらない。


 だが、前のような余裕の笑みはなかった。


「興味深い照合です」


 彼は言った。


「商務評議会の膝掛けに、王宮慈善印由来の糸が残っている可能性があります」


 クラリスは答えた。


「まだ可能性でしょう」


「はい」


「では、私が知らずに受け取った可能性もありますな」


「あります」


 クラリスは認めた。


「ただし、あなたは白鴎館の寝具不足に対し臨時補充を急がせ、G札使用を許容した可能性を認めています。さらに、慈善側を代布で数合わせする考え方も認めています。その後、商務評議会控室へ転用された膝掛けに慈善印残糸が見つかりました」


 ケインは黙った。


「知らなかったという主張も記録します」


 クラリスは続けた。


「同時に、知らなかったなら、なぜあなたの周辺で慈善物資が白鴎館へ入り、商務評議会へ残ったのかを説明していただく必要があります」


 ケインは、少しだけ目を伏せた。


 その姿は、老いた役人そのものに見えた。


 だが、クラリスは油断しなかった。


「調べればよいでしょう」


 ケインは言った。


「もちろん調べます」


「私も、必要な範囲で協力します」


 グレゴール参事官が、静かに言った。


「必要な範囲ではなく、知っている範囲だ」


 ケインは、グレゴールを見た。


 しばらくして、薄く笑った。


「君は本当に変わったな」


「遅すぎるくらいだと、昨日も言った」


 そのやり取りを、クラリスは記録しなかった。


 だが、覚えておく。


 夜、報告書が作成された。


 表題。


 白鴎館北翼常備布および商務評議会膝掛け現物確認報告


 主な内容。


 一、白鴎館北翼備品庫より、客用保温布二を現物確認。

 二、C-3正温布見本と織り・厚みが近似。

 三、二枚とも端一部切除・縫い直し跡あり。二枚目折返し内側に王宮慈善印の一部らしき刺繍糸残り。

 四、商務評議会控室より膝掛け二を確認。染め直し・裁ち直しあり。

 五、縫い代内側に王宮慈善印由来と思われる濃青糸と円形縁取りの残りを確認。

 六、膝掛け二は補修場記録の「上等保温布一、膝掛け二へ転用」と整合。

 七、C-3正温八梱推定内訳のうち、三梱返却、二梱白鴎館常備化、一梱膝掛け転用について現物・記録の整合が高まる。

 八、残る二梱は客人荷へ持ち出し未回収の記録があり、追跡継続。

 九、ケイン元参事補佐は、商務評議会膝掛けが慈善物資由来であることは知らなかった可能性を主張。ただし周辺指示との整合確認が必要。

 十、白鴎館・商務評議会に残存する現物は、証拠保全のため使用停止・保管とする。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 端印は切られていた。だが、縫い代の奥に残った糸が、布の本当の名前をまだ覚えていた。


 ミレーヌは、壁の前で筆を持った。


 少し迷い、こう書いた。


 名前を消しても、縫い目の奥に残るものがある。


 イリスが、その札を貼る。


 国際案件の箱に、報告書が入った。


 白鴎館北翼の布。

 商務評議会控室の膝掛け。


 それらは、もうただの備品ではない。


 病床へ行くはずだった暖かさが、どこで名前を変えたのかを示す現物になった。


 次に残るのは、客人荷へ消えた二梱。


 それを追えば、白鴎館の夜にいた商務関係者と、ケインの外部顧問としての今のつながりへ踏み込むことになる。


 過去の布は、まだ終わっていない。


 縫い目の奥で、まだ小さく声を出していた。

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