第143話 棚を開けた手と、代布を選んだ手は違った
命令した者。
棚を開けた者。
荷札を書いた者。
馬車を出した者。
代わりの布を選んだ者。
そして、届いた扱いにした者。
それらは、同じ人間とは限らない。
だからこそ、難しい。
悪意が一人にまとまっていれば、話は簡単だった。
だが、王宮の不正はたいてい、もっと面倒な顔をしている。
誰かが急がせる。
誰かが忖度する。
誰かが棚を開ける。
誰かが帳尻を合わせる。
誰かが黙る。
誰かが、処理済みと書く。
そうして最後に、寒い場所へ寒い布が届く。
クラリスは、顧問室の机に新しい紙を置いた。
C-3棚出し・代布選定・南施搬送経路確認
ミレーヌは、その見出しを見てから、昨日貼った札を見上げた。
借りたつもりでも、戻らなければ奪ったのと同じ痛みになる。
「今日は、ケインさんが“自分は指定していない”と言った部分ですね」
「はい」
クラリスは頷く。
「彼は、白鴎館の寝具不足を急がせたこと、G札使用を許した可能性、代布で数を合わせる考え方を認めました。でも、C-3棚を指定したことと、外套地転を南施療院へ送ったことは否定しました」
「だから、棚を開けた人と、代布を選んだ人を見る」
「その通りです」
オスカーが、港湾北倉庫の記録を並べた。
C区第三棚の棚出し控え。
G札写し。
夜間搬送控え。
外套地転の保管棚記録。
南施療院向け搬送票。
そして、旧礼拝堂で見つかった布見本包みの写し。
イリスが茶を置きながら言った。
「棚を開ける鍵と、布を選ぶ目は違いますからね」
「ええ」
クラリスは答えた。
「そこを分けます」
午前、港湾北倉庫の古い棚出し控えが開かれた。
C-3正温八梱。
正式払い出し先は南施療院となっている。
だが、欄外の夜間控えには、別の文字があった。
C-3八 白館裏 G札 K急
その横に、小さな棚出し印。
Hct
ミレーヌが顔を上げる。
「Hct……」
エリオットが資料を確認した。
「当時の倉庫番ヘクターの略印です」
ヘクター。
旧G便の聞き取りで出てきた元倉庫番。
ギデオンの名が看板になっていたと証言した男。
クラリスは頷いた。
「では、C-3棚を実際に開けた手は、ヘクター様の可能性が高い」
「はい」
オスカーが記録する。
C-3棚出し控え欄外に“Hct”略印。ヘクター元倉庫番の棚出し印の可能性高。C-3八梱は白館裏へG札・K急で出された可能性。
次に、外套地転の保管棚記録。
外套用に近い灰色布は、本来、慈善病床用ではない。
港湾北倉庫では、外套補修地や軍務外套地、冬季外回り用の布として別区画に置かれていた。
その区画の記録には、二年前の同夜、こう書かれている。
外套地転八 南施 保温扱 B机
ミレーヌの筆が止まった。
B机。
また、その言葉。
「B机……」
「バルナス主任机の可能性があります」
クラリスは静かに言った。
「ただし、個人ではなく机処理を指す可能性もあります」
ミレーヌは頷いて書いた。
外套地転八、南施、保温扱、B机。B机はバルナス主任机処理の可能性。個人断定不可。
エリオットは、顔を強張らせたまま言った。
「この記録が正しければ、C-3正温を白鴎館へ出した処理と、南施療院へ外套地転を保温布扱いで送った処理が、別の欄に残っています」
「はい」
クラリスは答えた。
「棚を開けた手はHct。代布を保温扱いにした指示はB机。ここを分けます」
午後、ヘクター元倉庫番が呼ばれた。
彼は前回よりも少し警戒した顔で入ってきた。
C-3棚出し控えを見せると、彼は長く黙った。
「これは、あなたの印ですか」
カレル調査官が尋ねる。
ヘクターは、しばらくして頷いた。
「私の印に見えます」
「C-3正温八梱を白館裏へ出しましたか」
「出したと思います」
部屋の空気が張り詰める。
「誰の指示で?」
「G札です。K急とありました」
「K急とは?」
「K参急ぎ。そういう意味で受け取りました」
「ケイン参事補佐?」
「当時なら、そう思います」
ヘクターは、淡々と答えた。
「C-3が慈善保温布だと知っていましたか」
「知っていました」
「南施療院向け予定分だとは?」
ヘクターは、少しだけ口を閉じた。
「棚札には南施とありました」
「では、南施療院向けだと知っていた」
「はい」
「なぜ白館へ出したのですか」
「K急のG札でした。上からの急ぎだと判断しました」
「慈善向けを別へ出すことに疑問は?」
「ありました」
「それでも出した」
「はい」
「なぜ?」
ヘクターは目を伏せた。
「倉庫番は、札に逆らえません」
「正式な札ではないG札に?」
「当時は、G札でも動いていました」
カレルが記録する。
クラリスは、そこへ静かに問いを置いた。
「C-3を白館へ出した後、南施療院向けには何を出すことになりましたか」
ヘクターは、こちらを見た。
「私は知りません」
「外套地転八を南施へ保温扱いで出した記録があります」
クラリスは紙を出した。
外套地転八 南施 保温扱 B机
ヘクターは、それを見ると眉を寄せた。
「これは……私の字ではありません」
「印は?」
「ありません」
「誰が書いた可能性が?」
「代布の選定は、倉庫番だけではしません。財務院の机から来ます」
「B机?」
「そうでしょう」
「あなたは、外套地転が南施へ行くことを知っていましたか」
ヘクターは首を振った。
「後で聞きました。南施には別の布で数を合わせた、と」
「誰から?」
「オルド書記か、バルナス主任の机の使いだったと思います。はっきり覚えていません」
曖昧だ。
だが、構造は見えてくる。
C-3正温八梱は、K急・G札で白館へ。
その穴を埋めるため、南施療院へ外套地転八が保温扱いで出た。
その処理はB机から来た。
棚を開けたヘクターは、C-3を白館へ出したが、外套地転を選んだ者ではない。
クラリスは記録した。
ヘクター証言:C-3八をK急・G札により白館裏へ棚出ししたと認める。南施向け予定分と知っていたが、G札に従った。外套地転八の南施保温扱い処理は自筆・自身判断ではなく、B机由来と認識。
次に呼ばれたのは、オルド元書記だった。
彼は外套地転の記録を見ると、顔をしかめた。
「嫌な字ですな」
「見覚えは?」
カレルが尋ねる。
「あります」
「誰の字ですか」
「私の字ではありません。ですが、私が写した可能性はあります」
「どういう意味ですか」
「元の指示札があり、それを倉庫控えへ写す。そういうことはよくありました」
「B机とは?」
「バルナス主任机処理でしょう」
「この処理を覚えていますか」
オルドは長く黙った。
「ぼんやりとは」
「内容は?」
「C-3が白館へ行き、南施の数を保つ必要があった。軽寝では足りない。外套地転なら、八梱そろえられる。そういう話だったと思います」
ミレーヌが顔を白くした。
「外套地転なら、病床用には心許ないと分かっていたのでは?」
オルドは彼女を見た。
そして、少し苦い顔で言った。
「現場で使えば、そうでしょう。机の上では、保温扱いにできた」
「机の上では……」
「ひどい言い方だが、当時の実務はそうでした」
クラリスは、胸の奥に冷たい怒りを感じた。
だが、押さえる。
「その判断をしたのは誰ですか」
オルドは答える前に、少しだけ視線を落とした。
「バルナス主任です」
部屋が静まる。
「ただし」
オルドは続けた。
「元の穴を作ったのはK急です。C-3を白館へ出せという急ぎがなければ、B机で代布を選ぶ必要はなかった」
「責任を分ける必要がありますね」
クラリスが言うと、オルドは頷いた。
「はい。Kは正温を白館へ引いた。Bは南施を代布で埋めた。Hはそれに気づいた」
短い整理だった。
だが、あまりに重い。
ミレーヌは、その言葉をそのまま記録した。
オルド証言整理:Kは正温を白館へ引いた。Bは南施を代布で埋めた。Hはそれに気づいた。
夕方、バルナス主任が呼ばれた。
外套地転の記録を見た瞬間、彼は深く目を閉じた。
「覚えていますか」
カレルが尋ねる。
「覚えています」
その答えは、早かった。
クラリスは、静かに彼を見た。
「外套地転八を南施へ保温扱いで出した判断は、あなたですか」
バルナスは、しばらく沈黙した。
だが、今回は逃げなかった。
「はい」
ミレーヌの筆が止まった。
すぐに、また動く。
「理由は?」
「南施療院の受領数量を崩せなかった。C-3が白館へ出た後、八梱をそろえる必要がありました」
「なぜ、C-3を戻さなかったのですか」
「戻せと言える立場ではないと思った」
「なぜ」
「K急でした。ケイン参事補佐の影がありました。白鴎館には商務関係者がいた。私は、そこへ逆らえなかった」
「だから南施療院へ外套地転を送った」
「はい」
部屋は静まり返った。
バルナスの声は、ひどく低かった。
「外套地転が病床用には不向きだと知っていましたか」
クラリスが尋ねる。
「知っていました」
「それでも保温扱いにした」
「はい」
「なぜ」
「数字を合わせるためです」
ミレーヌの筆が震えた。
バルナスは、それを見た。
そして、続けた。
「言い訳はしません。私は、数字を合わせました。中身を見なかったのではありません。見て、合わせた」
その言葉は、重かった。
これまでの「知らなかった」「覚えていない」とは違う。
彼は、初めて自分の手を認めた。
ケインが正温を白館へ引いた。
だが、南施療院へ外套地転を送ると決めたのは、バルナスだった。
クラリスは、静かに問う。
「ハーゲン補助官は、それに気づいた」
「はい」
「だから、あなたは閉じた」
「はい」
「H強硬とした」
「はい」
「南施療院への返答を止めた」
「はい」
ミレーヌは、もう顔を上げていなかった。
ただ、必死に書いている。
バルナスは、低く言った。
「ハーゲンは、正しかった」
誰もすぐには答えなかった。
その一言が、遅すぎることを全員が知っていた。
しかし、記録には必要だった。
クラリスは頷いた。
「記録します」
その日の報告書は、三つの責任を分けて書かれた。
表題。
C-3棚出しおよび南施療院代布選定責任確認報告
主な内容。
一、C-3棚出し控え欄外に「C-3八 白館裏 G札 K急」およびHct略印を確認。Hctはヘクター元倉庫番の可能性高。
二、ヘクターは、C-3正温八梱をK急・G札により白館裏へ棚出ししたことを認める。南施向け予定分と知っていた。
三、ヘクターは、外套地転八を南施へ送る判断は自身ではなくB机由来と証言。
四、外套地転保管棚記録に「外套地転八 南施 保温扱 B机」。
五、オルド元書記は、B机はバルナス主任机処理の可能性が高いと証言。
六、オルドは、C-3が白館へ行ったため南施の数を保つ必要があり、外套地転で埋めた流れを証言。
七、バルナス主任は、外套地転八を南施へ保温扱いで出す判断を自身が行ったと認める。
八、バルナス主任は、外套地転が病床用に不向きであることを知りながら、数字を合わせるために処理したと認める。
九、バルナス主任は、ハーゲン補助官がこの点に気づいており、ハーゲンの指摘は正しかったと認める。
十、整理として、KはC-3正温を白館へ引いた可能性、Bは南施を代布で埋めた責任、Hはそれに気づいた構図が成立する可能性。
十一、ただしKの最終責任範囲、ヘクターの認識範囲、B机処理の同席者については継続確認が必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
棚を開けた手は、白館へ正温を出した。代布を選んだ手は、南施療院へ外套地転を保温布として送った。その二つが合わさって、病床は寒くなった。
ミレーヌは、しばらく筆を握ったまま動かなかった。
やがて、札にこう書いた。
数字を合わせるために、中身を見て見ぬふりをしてはいけない。
イリスが、静かに壁へ貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
これで、ようやく大きな線が見えた。
ケインは、白鴎館を温めるためにC-3を引いた。
ヘクターは、G札に従って棚を開けた。
バルナスは、南施療院の数を外套地転で合わせた。
ハーゲンは、それに気づいた。
だから、閉じられた。
だから、強硬と呼ばれた。
だから、返答草案は下書き箱に沈んだ。
次に残るのは、返却されなかった五梱の行方だった。
白鴎館の温かな寝台で使われた後、その布はどこへ消えたのか。
そこを追えば、C-3を「借りた」と言った者たちの最後の逃げ道が消える。




