第142話 借りた布は、寒い病床へ戻らなかった
借りたのなら、返すべきだ。
それは、子どもでも分かる。
だが、王宮の紙の中では、時にその当たり前が迷子になる。
借りた。
一時使用。
臨時補充。
後日振替。
別送処理。
数量調整。
言葉を重ねれば重ねるほど、返すべきものがどこへ返るのか分からなくなる。
クラリスは、顧問室の机に二枚の紙を置いた。
一枚目。
北翼八、今夜整え。施設不足分は財務より別送。慈善側、数は崩すな。
二枚目。
白館八床、寒気強。正温借り。慈善側は代布で数合わせ。G札、夜半。K
どちらも、ケイン元参事補佐の筆跡である可能性が高い。
どちらも、白鴎館北翼八床と、慈善側の数量調整に触れている。
どちらも、C-3正温八梱が白鴎館へ回り、慈善側――おそらく南施療院側――が代布で数を合わせられた可能性を示している。
ミレーヌは、壁の札を見上げた。
数を守るために、中身を壊してはいけない。
「今日は、ケインさんをもう一度呼ぶのですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「前回は、直接命令を否定しました。今回は、彼自身の言葉の可能性がある紙を見せます」
「認めるでしょうか」
「おそらく、すぐには認めません」
「では、どうするのですか」
「否定の形を記録します」
ミレーヌは少し考え、手帳に書いた。
認めない時は、どう否定するかを見る。
「そうです」
クラリスは静かに言った。
「否定には、その人が何を守りたいかが出ます」
イリスが茶を置きながら、そっと言った。
「“借りただけ”と言う方は、返したかどうかを聞くと黙ることが多うございます」
クラリスは目を上げた。
「今日は、その問いになりますね」
王弟府の小会議室は、前回よりもさらに静かだった。
出席者は同じようで、少し違う。
レオンハルト。
カレル調査官。
クラリス。
オスカー。
ミレーヌ。
グレゴール参事官。
エリオット。
ヘレナ修復記録官。
そして、ルドルフ・ケイン元参事補佐。
ケインは、前回と同じく少し早く来た。
衣服も整っている。
靴も磨かれている。
表情も穏やかだ。
だが、椅子に座る時、ほんのわずかに指先が机の縁へ触れた。
前回は、そんな動きはなかった。
彼も知っているのだろう。
今回は、前よりも紙がある。
「再びお招きいただき、光栄です」
ケインは静かに言った。
「確認を続ける」
レオンハルトの声は短い。
「承知しております」
クラリスは、最初の紙を出した。
白鴎館北翼準備下書きの余白。
北翼八、今夜整え。施設不足分は財務より別送。慈善側、数は崩すな。
「この文に見覚えはありますか」
ケインは紙を見た。
長くは見ない。
見すぎれば、覚えがあると思われる。
見なさすぎれば、不自然になる。
彼はちょうどよい長さで目を離した。
「古い下書きのようですな」
「筆跡は、あなたのものに近いと見られています」
「近い字を書く者はおります」
「はい。ですので、断定としては扱っていません」
ケインは、少しだけ目を細めた。
クラリスは続ける。
「ただ、“慈善側、数は崩すな”という言い方に覚えは?」
「実務上、あり得る言葉です」
「あなたの言葉ですか」
「私だけの言葉ではないでしょう」
「では、あなたも使った?」
ケインは一瞬だけ黙った。
「使った可能性はあります」
ミレーヌの筆が動く。
クラリスは二枚目の紙を出した。
接待費控え裏面。
白館八床、寒気強。正温借り。慈善側は代布で数合わせ。G札、夜半。K
ケインは、今度は長く見た。
長く見ないわけにはいかなかったのだろう。
末尾のK。
正温借り。
代布で数合わせ。
G札、夜半。
この紙は、前の紙よりも逃げ場が狭い。
「こちらは?」
クラリスが尋ねる。
ケインは、ゆっくりと息を吐いた。
「筆跡だけで人を裁くのは危険です」
「裁いていません。確認しています」
「では、答えましょう。似てはいます。しかし、私の記憶にはありません」
「記憶にない」
「ええ」
「正温借り、とは何を指しますか」
「字義通りなら、正規保温布を一時的に借りるという意味でしょう」
「どこから?」
「それは、この紙だけでは分かりません」
「慈善側は代布で数合わせ、とあります」
「もし私が書いたなら、慈善側の受領数量を保つため、別の布で一時対応するという意味でしょう」
グレゴール参事官の眉が動いた。
ケインは、また「もし私が書いたなら」と逃げ道を置いた。
だが、内容は説明できる。
知らない紙のはずなのに、意味は淀みなく説明できる。
クラリスは静かに尋ねた。
「一時対応なら、後で正温を返す必要がありますね」
ケインは口を閉じた。
部屋の空気が少し変わる。
イリスの言葉が、クラリスの中で小さく響いた。
借りただけ、と言う方は、返したかどうかを聞くと黙る。
「返却記録は見つかっていません」
クラリスは続けた。
「白鴎館仮受控えには、後日施設局へ振替とあります。しかし、施設局側の振替記録は未確認。C-3正温八梱の全量返却記録も未確認です」
ケインは、静かに言った。
「施設局の不備でしょう」
「あなたは、返却または振替を確認しましたか」
「私の担当ではありません」
「正温を借りる指示をした場合でも?」
「仮定の話です」
「では、仮定として答えてください。正温を借り、慈善側を代布で数合わせした場合、その後の返却または是正を確認する責任は誰にありますか」
ケインは答えなかった。
長い沈黙。
前回より長い。
カレル調査官が静かに記録している。
ミレーヌは、筆を止めずに待っている。
ケインは、やがて言った。
「実務上は、財務院と施設局です」
「指示者ではなく?」
「指示者が全ての後処理を見るわけではありません」
「しかし、慈善側へ代布を送るという判断は、通常の補充とは違います」
「それが私の判断だったなら、でしょう」
「はい。あなたの筆跡である可能性が高い紙に、そうあります」
ケインは、少しだけ視線をレオンハルトへ向けた。
助けを求めたわけではない。
場の上位者の反応を探ったのだろう。
レオンハルトは、何も言わなかった。
その沈黙は、許可だった。
続けろ、という。
クラリスは続けた。
「南施療院には、外套地転の疑いがある布が届きました。日誌には“病床用には心許なし”とあります。同じ夜、C-3正温八梱は白鴎館へ動いた可能性があります。あなたの可能性が高いメモには“正温借り。慈善側は代布で数合わせ”とあります」
「可能性が多い」
ケインは言った。
「その通りです」
クラリスは認めた。
「だから、あなたに確認しています。正温を借りたなら、どの正温を、どこから、どこへ、いつ返す予定でしたか」
「記憶にありません」
「では、記録に基づきます」
クラリスは、もう一枚の紙を出した。
白鴎館洗濯場控え。
上等保温布八 冬客用寝台へ。使用後返却予定。
そして、返却控え。
一部だけ。
上等保温布三 返却。汚れ強し。補修場へ。
ミレーヌが小さく息を吸った。
新しい紙だった。
今朝、施設局から届いたものだ。
C-3八のうち、白鴎館から返却された可能性がある上等保温布は三梱分だけ。
残り五梱は、まだ記録が見つかっていない。
「返却は三」
ケインが低く言った。
「はい」
「八のうち三」
「はい」
「残りは?」
「確認中です」
ケインは、そこで初めて軽く額に触れた。
疲れたような仕草。
あるいは、考える時間を稼ぐ仕草。
「二年前の白鴎館は混乱していました」
「はい」
「外国商務使節、港湾会合、財務院の夜会、暖房不足。臨時の寝具補充が必要だった」
「それは確認済みです」
「私は、客人を冷やさないよう指示しただけです」
「そのために、C-3正温を借りた?」
ケインは、黙った。
そして、初めて言い方を変えた。
「仮に借りたとしても、戻す前提でした」
部屋が静まった。
認めたわけではない。
だが、前より近い。
仮に借りたとしても。
戻す前提。
「戻っていません」
ミレーヌの声だった。
小さいが、はっきりしていた。
ケインは、彼女を見た。
ミレーヌは、少し青ざめている。
それでも続けた。
「南施療院には、戻っていません。病床には、心許ない布が届きました。白鴎館からも、八のうち三しか返っていません。借りたつもりでも、戻っていないなら、借りたことにはならないと思います」
ケインの顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬。
だが、消えた。
クラリスは止めなかった。
ミレーヌの言葉は、感情だけではない。
実務の核心だった。
借りたつもり。
戻す前提。
それは、返却記録があって初めて意味を持つ。
戻らなければ、流用である。
ケインは、静かに言った。
「お若い方は、真っ直ぐでよろしい」
その言い方には、少し棘があった。
クラリスがすぐに言った。
「真っ直ぐなのではありません。帳簿上も、返却されていません」
ケインはクラリスへ視線を戻した。
「では、私が盗んだとでも?」
「盗んだとは言っていません」
「ならば」
「慈善物資の目的外一時使用を指示、または許可し、返却確認を行わず、慈善側を代布で数量合わせした可能性を確認しています」
ケインは黙った。
表現は冷たい。
だが、正確だった。
盗んだかどうかではない。
指示したか。
許可したか。
返却確認をしたか。
代布で数量合わせをしたか。
それを分ける。
グレゴール参事官が低く言った。
「ケイン元参事補佐。あなたは、少なくともG札の使用を許可した可能性がある。白館優先の指示も否定しきっていない。さらに、慈善側を代布で数合わせする趣旨の筆跡資料が出ている。ここで“知らない”だけでは、商務評議会にも説明がつかんぞ」
ケインは、グレゴールを見た。
「君も偉くなったものだ」
「遅すぎたくらいです」
グレゴールの声は硬かった。
ケインは少しだけ笑った。
だが、その笑いは前回と違っていた。
余裕ではない。
苛立ちと諦めの間にある笑いだった。
「分かりました」
彼は言った。
「白鴎館の夜、寝具の不足があった。私は、財務院側に臨時補充を急がせた。G札の使用を許容した可能性はあります」
カレルの筆が動く。
「C-3正温を使うことは?」
「どの棚から出すかまでは、私が指定した記憶はない」
「慈善側は代布で数合わせ、という記述は?」
「……そのような考え方をした可能性はあります」
部屋が静かになった。
ケインは続けた。
「ただし、永続的に奪うつもりはなかった。あくまで一時的な借用です」
「返却確認は?」
「していません」
「南施療院へ代布が行くことは?」
「認識が甘かった」
「質問に答えてください。知っていましたか」
ケインは、口を閉じた。
長い沈黙の後、言った。
「代替布で数量を合わせることは、あり得ると知っていました」
「外套地転が行くことは?」
「そこまでは知りません」
「病床用には心許ない布であったことは?」
「知りません」
「知ろうとしましたか」
ケインは答えなかった。
ミレーヌは、震える字で記録した。
ケイン証言:白鴎館寝具不足に対し財務院側へ臨時補充を急がせたこと、G札使用を許容した可能性、慈善側を代替布で数量合わせする考え方をした可能性を認める。一時借用の意図と主張。返却確認はしていない。外套地転・病床用不適については知らないと主張。知ろうとしたかは無回答。
クラリスは、静かに言った。
「本日の確認はここまでです」
ケインは、少し驚いたように見た。
「よろしいのですか」
「はい」
「まだ、聞きたいことはあるでしょう」
「あります」
「では」
「今日は、あなたが認めた範囲を確定します」
クラリスは答えた。
「言葉を重ねすぎると、また薄くなりますので」
ケインは、何も言わなかった。
退室する時、彼はミレーヌの方を一度だけ見た。
その視線には、苛立ちがあった。
だが、ミレーヌは俯かなかった。
怖かっただろう。
それでも、彼女は手帳を閉じずに座っていた。
顧問室へ戻ると、ミレーヌは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
「言ってしまいました」
「必要な言葉でした」
クラリスは答えた。
「でも、怖かったです」
「はい」
「ケインさん、笑わなくなりました」
「紙が近づいたからです」
イリスが、そっと温かい茶を置いた。
「今日も止まらなかった記念でございます」
ミレーヌは、少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだった。
その日の報告書は、慎重に書かれた。
表題。
ルドルフ・ケイン元参事補佐第二回確認報告
主な内容。
一、ケインは「慈善側、数は崩すな」等の言い回しについて、自身も使った可能性を認める。
二、「正温借り。慈善側は代布で数合わせ。G札、夜半。K」について、記憶は否定するが、字義の説明を行う。
三、白鴎館寝具不足に対し、財務院側へ臨時補充を急がせたことを認める。
四、G札使用を許容した可能性を認める。
五、慈善側を代替布で数量合わせする考え方をした可能性を認める。
六、ただしC-3棚指定、外套地転送、病床用不適については知らないと主張。
七、正温借りは一時借用のつもりだったと主張。
八、白鴎館からの返却は八のうち三のみ確認。全量返却・施設局振替は未確認。
九、ケインは返却確認をしていないと認める。
十、代布が南施療院に与える影響を知ろうとしたかについては無回答。
十一、今後、ケインの認めた範囲を基礎に、C-3棚出し指示者、外套地転送指示者、返却未了責任を分けて確認する必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
ケイン元参事補佐は、盗んだとは認めなかった。だが、借りることを許し、代布で数を合わせる考え方を認め、返したかどうかを確認していなかった。
ミレーヌは、壁の前でしばらく考えた。
そして、札に書いた。
借りたつもりでも、戻らなければ奪ったのと同じ痛みになる。
イリスが、その札を壁に貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
ケインの否定は、まだ崩れきっていない。
だが、初めて彼は自分の足元を少し見せた。
白鴎館を優先した。
G札を許した。
慈善側は代布で数を合わせるという考え方をした。
返却確認はしなかった。
次に見るべきは、ケインが「自分は指定していない」と逃げた部分だった。
C-3棚を実際に出した者。
外套地転を南施療院へ送った者。
そして、返却されなかった五梱の行方。
そこを分ければ、ようやく白鴎館の暖かい夜と南施療院の寒い夜の間に、誰の手があったのかが見えてくる。




