第137話 Hが気づいたものは、数字ではなく布の行き先だった
Hが気づく。
その短い一文は、顧問室の空気を変えていた。
旧礼拝堂跡の司祭館。
暖炉横の浮き床板の下。
そこから見つかった紙包みには、三枚の布見本が入っていた。
C-3 正温
軽寝 代
外套地 転
そして、包み紙の内側に写った文字。
南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送。Hが気づく。Bへ戻すな。
南へは外套転。
それは、南施療院へ外套地転用布を送ったという意味に見える。
西へは軽寝二。
それは、西区老人施療舎へ軽寝具二梱を混ぜたという記録と合う。
C-3は別送。
正規の保温布は別の場所へ送られた、あるいは別経路に移された可能性がある。
そして。
Hが気づく。
誰が、何に気づいたのか。
ミレーヌは、包み紙の写しを前にして、ほとんど瞬きもせずに見つめていた。
「Hは……ハーゲンさんでしょうか」
「可能性は高いです」
クラリスは答えた。
「でも、まだ決めません」
「ほかにHは?」
「荷札のH、保管のH、港湾の略号、あるいは別の人名。可能性を消すには早いです」
ミレーヌは少しだけ唇を結び、手帳に書いた。
H=ハーゲンと決めない。まず、Hが何を指すかを見る。
その一文は、今の彼女らしい。
飛びつかない。
疑うが、決めつけない。
クラリスは小さく頷いた。
「今日は、H表記を集めます」
オスカーが、すでに関連資料を机へ並べていた。
ハーゲンの病欠連絡票。
相談箱控えのHgn署名。
南施療院返答草案のHgn略字。
港湾内部確認依頼のHgn。
主任机概要札の裏面にある「H強硬」。
そして、旧礼拝堂包み紙の「Hが気づく」。
ヘレナ修復記録官も呼ばれていた。
今日は筆跡比較の日だった。
ヘレナは、紙を一枚ずつ確認しながら言った。
「まず、HgnとHは分けます」
「Hgnはハーゲン補助官を指す可能性が高い」
オスカーが確認する。
「はい。複数の正式周辺文書で、ハーゲン補助官の略記として使われています。ただし、H単独は別です」
「H単独は?」
「人名の頭文字として使われることもありますし、状態記号として使われることもあります」
ミレーヌが尋ねた。
「状態記号?」
「保留をHと書く人がいました。古い財務院の略記で」
「保留……」
部屋の空気が少しだけ変わる。
Hが気づく。
保留が気づく、では意味が合わない。
だが、H単独が常に人名とは限らないことは重要だった。
クラリスは記録した。
H単独は、ハーゲンとは限らない。財務院旧略記では保留等の可能性もある。ただし“気づく”との文脈上、人または担当者を指す可能性が高い。
ヘレナは次に、文字の形を比べた。
包み紙に写った「H」は、強い筆圧ではない。
薄い墨が紙へ移ったものなので、元の筆圧は分かりにくい。
だが、形は少し右へ倒れている。
主任机概要札の裏面にあった「H強硬」のHも、似た倒れ方をしていた。
「同じ人が書いた可能性は?」
カレル調査官が尋ねる。
ヘレナはすぐには答えなかった。
「可能性はあります。ただし、包み紙は転写文字です。直接筆跡より精度は落ちます」
「断定不可」
「はい」
ミレーヌが書く。
包み紙のHと概要札裏面のHは形状類似の可能性。ただし転写文字のため断定不可。
ヘレナは続けた。
「興味深いのは、“気づく”の字です」
「気づく?」
クラリスが顔を上げる。
「はい。“気”の略し方が、ハーゲン補助官の草案に出てくる“気候”“気付”の字と少し違います。むしろ、オルド元書記の処理札に近い」
「では、書いたのはハーゲンではない?」
「その可能性が高いです」
ヘレナは慎重に言った。
「少なくとも、“Hが気づく”を書いたのは、H本人ではなく、別の者がHについて書いた可能性が高い」
部屋が静かになった。
Hが気づく。
これは、H本人の覚書ではない。
誰かが、Hが気づいたことを警戒して書いた可能性。
クラリスはゆっくり息を吸った。
「つまり、この包み紙は、気づいた者の記録ではなく、気づかれた側の記録かもしれない」
「はい」
ヘレナは頷いた。
ミレーヌの筆が震えた。
“Hが気づく”はH本人の記述ではなく、Hの気づきを警戒した第三者の記述の可能性。
その一文は重い。
ハーゲンが何かに気づいた。
そのことを、別の誰かが把握していた。
そして、続けて書いた。
Bへ戻すな。
気づいたHを、Bへ戻してはいけない。
あるいは、Hが気づいたものを、Bへ戻してはいけない。
文の主語が、まだ揺れる。
クラリスは白紙に二つの解釈を書いた。
一、H本人をBへ戻すな。
二、Hが気づいた紙・布見本をBへ戻すな。
オスカーが眉を寄せる。
「どちらもあり得ますね」
「はい」
ミレーヌが小さく言った。
「Bは、バルナス主任でしょうか」
「可能性はあります」
クラリスは答えた。
「でも、Bも決めません。バルナス、バルツァー、B机、B箱。複数あります」
カレルが補足する。
「ただ、これまでの文書では、B机がバルナス主任机を指した可能性がありました」
「はい」
クラリスは頷いた。
「だから、B=バルナス主任机の可能性は高い。ただし、個人なのか、机なのか、派閥なのかを分けます」
午後、オルド元書記が再び呼ばれた。
彼は、布見本包み紙の写しを見ると、長く黙った。
いつもの皮肉も出てこない。
紙に近づき、目を細め、唇を引き結ぶ。
「見覚えがありますか」
カレルが尋ねると、オルドはゆっくり答えた。
「字に、見覚えがあります」
「誰の字ですか」
「私の字に、似ています」
ミレーヌの筆が止まる。
「あなたが書いたのですか」
「覚えていません」
オルドは、静かに首を振った。
「ですが、“気づく”の略し方は私の癖に似ている」
ヘレナの見立てと合った。
クラリスは表情を変えずに尋ねた。
「この内容に覚えは?」
オルドは、布見本の写しへ視線を落とした。
「南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送……」
そこで言葉を切る。
「これは、私が判断する内容ではありません」
「では、誰の指示で書いた可能性がありますか」
「主任机の処理なら、バルナス主任。あるいは、旧バルツァー派の上から来た紙を写したか」
「Hが気づく、とは?」
オルドは、そこで初めて少し苦い顔をした。
「ハーゲンでしょうな」
「なぜそう思いますか」
「彼は、布の行き先を気にしていました。数量ではなく、何がどこへ行ったかを」
クラリスの胸の奥が、静かに鳴った気がした。
数量ではなく、何がどこへ行ったか。
まさに、この事件の核心だった。
オルドは続ける。
「財務院の多くは、八梱、六梱、四梱を見る。ハーゲンは、中身を見ようとした。端印、等級、用途。面倒な若者でした」
「面倒ではなく、必要だったのでは?」
ミレーヌが思わず言った。
オルドは彼女を見た。
怒るかと思ったが、彼は苦く笑った。
「今なら、そう言えます」
ミレーヌは、少しだけ目を伏せた。
クラリスは、オルドへ尋ねる。
「Bへ戻すな、のBは何だと思いますか」
「当時の私なら、B机と読みます」
「バルナス主任机」
「はい。ただし、B机はバルナス個人だけではなく、主任机処理全体を指すこともあります」
「つまり、ハーゲンが気づいた件を、バルナス主任机へ戻すな、という意味」
「可能性はあります」
「なぜ戻してはいけない?」
オルドは黙った。
長い沈黙だった。
やがて彼は、低く言った。
「戻せば、閉じられるからでしょう」
部屋が冷えたように感じた。
Bへ戻すな。
それは、バルナス主任机へ戻すな。
戻せば、また旧件として閉じられる。
だから、どこか別の場所へ隠した。
旧礼拝堂の床板下へ。
「では、これはハーゲンを守るための言葉ですか」
ミレーヌが尋ねた。
オルドは首を振った。
「分かりません。ハーゲンを守るためかもしれない。あるいは、ハーゲンに気づかれた証拠をバルナス机へ戻さず、別の者が握るためかもしれない」
「別の者」
「紙を握る者は、誰でも少し偉くなれます」
嫌な言葉だった。
だが、オルドらしい実感があった。
クラリスは記録した。
オルド証言:Hはハーゲンを指す可能性高。ハーゲンは数量ではなく布の行き先・端印・等級を気にしていた。BはB机、すなわちバルナス主任机処理を指す可能性。Bへ戻すなは、戻せば閉じられるためとの解釈可能。ただし保護目的か証拠掌握目的かは未確定。
夕方には、バルナス主任も呼ばれた。
布見本の写しを見せると、彼は長く沈黙した。
沈黙が重い。
以前のように「覚えていません」と即答しない。
それが逆に、部屋の空気を硬くした。
「この布見本に覚えはありますか」
カレルが尋ねる。
バルナスは、布札の文字を見ていた。
C-3正温。
軽寝代。
外套地転。
「……似たものは見たことがあります」
クラリスは筆を構えた。
「どこで?」
「主任机で」
「いつ頃?」
「二年前の冬か、春。南施療院の件が出た頃です」
エリオットが目を閉じた。
バルナスは続ける。
「ハーゲンが、布の違いを持ち込んだ。正規保温布、軽寝具、外套地。そういう比較だったと思います」
「ハーゲンが?」
「はい」
「では、Hが気づく、のHはハーゲン補助官だと思いますか」
「そうでしょう」
あまりに静かな答えだった。
ミレーヌの筆が小さく震える。
「ハーゲンは何に気づいたのですか」
クラリスが尋ねる。
バルナスは、しばらく答えなかった。
そして、低く言った。
「C-3の正規保温布が、南施療院へ行っていないことです」
部屋の空気が止まった。
カレルが、静かに聞き返す。
「C-3の正規保温布は、どこへ?」
「分かりません」
「本当に?」
「当時は、別送扱いと聞きました」
「誰から?」
「ギデオン経由の控えです」
「ギデオン本人?」
「分かりません。G札です」
また、G札。
旧G便。
名義が道になったもの。
「南施療院には外套地転が送られた」
クラリスが言うと、バルナスは目を伏せた。
「その可能性は、当時からありました」
「知っていたのですか」
「疑いとしては」
「それをなぜ閉じたのですか」
ミレーヌの声だった。
クラリスが止める前に、彼女は言っていた。
部屋が静かになる。
ミレーヌは自分でも驚いたように顔を白くしたが、引かなかった。
「南施療院は寒かったんです。病床用には心許ないって書いていました。ハーゲンさんは気づいていました。なら、なぜ……」
言葉が詰まる。
バルナスは、怒らなかった。
ただ、ひどく疲れた顔でミレーヌを見た。
「閉じれば、南施療院一件で済むと思った」
その声は、かすれていた。
「開けば、C-3、G札、旧バルツァー期の雑費、港湾仲介、複数施設の処理まで出る。財務院は壊れると思った」
「でも、現場はもう壊れていました」
ミレーヌの声は震えていた。
「寒かったんです」
バルナスは、何も言えなかった。
クラリスは、静かに息を整えた。
怒りで場を壊してはいけない。
だが、この言葉は記録するべきだった。
「記録します」
クラリスは言った。
バルナスは、小さく頷いた。
その日の報告書は、重かった。
表題。
包み紙“Hが気づく”記述およびH・B解釈確認報告
主な内容。
一、“Hが気づく”はH本人の記述ではなく、Hの気づきを警戒した第三者記述の可能性。
二、筆跡はオルド元書記に類似。本人も自筆可能性を認めるが、記憶なし。
三、Hは文脈上ハーゲン補助官を指す可能性高。
四、ハーゲン補助官は数量ではなく、布の行き先、端印、等級、用途を気にしていたとの証言。
五、BはB机、すなわちバルナス主任机処理を指す可能性。個人か机処理かは要注意。
六、“Bへ戻すな”は、戻せば旧件として閉じられるためとの解釈可能。ただし保護目的か証拠掌握目的かは未確定。
七、バルナス主任は、ハーゲンが正規保温布・軽寝具・外套地の比較を主任机へ持ち込んだ記憶を認める。
八、バルナス主任は、Hをハーゲン、Hが気づいたものをC-3正規保温布が南施療院へ行っていないことと認識。
九、C-3正規保温布はG札により別送扱いと聞いたと証言。行き先未確認。
十、バルナス主任は、開けば複数処理へ波及し財務院が壊れると考え、閉じたと証言。
十一、ミレーヌ発言として、現場はすでに寒さにより損なわれていたとの指摘あり。
クラリスは最後に一文を書いた。
Hが気づいたものは、数字の不一致ではなかった。正しい布が、正しい場所へ行っていないという、現物の行き先だった。
ミレーヌは、しばらく札を書けなかった。
手が震えていた。
イリスが静かに隣へ来て、温かい茶を置く。
「今日の札は、無理に今書かなくてもよろしいかと」
ミレーヌは首を振った。
そして、ゆっくり筆を取った。
数字が合っても、行き先が違えば届いていない。
クラリスは、その札を見て目を伏せた。
「貼りましょう」
イリスが、丁寧に壁へ貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
Hは、ほぼハーゲンへ近づいた。
彼が気づいたのは、数量ではない。
布の行き先。
C-3の正規保温布が、南施療院へ行っていないこと。
南へ外套転。
西へ軽寝二。
C-3は別送。
そして、その別送を動かしたのは、G札。
次に追うべきは、そのC-3がどこへ別送されたのかだった。
そこに、ギデオンの名を借りた道の本当の終点があるかもしれない。




