表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
137/180

第137話 Hが気づいたものは、数字ではなく布の行き先だった

Hが気づく。


 その短い一文は、顧問室の空気を変えていた。


 旧礼拝堂跡の司祭館。


 暖炉横の浮き床板の下。


 そこから見つかった紙包みには、三枚の布見本が入っていた。


 C-3 正温

 軽寝 代

 外套地 転


 そして、包み紙の内側に写った文字。


 南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送。Hが気づく。Bへ戻すな。


 南へは外套転。


 それは、南施療院へ外套地転用布を送ったという意味に見える。


 西へは軽寝二。


 それは、西区老人施療舎へ軽寝具二梱を混ぜたという記録と合う。


 C-3は別送。


 正規の保温布は別の場所へ送られた、あるいは別経路に移された可能性がある。


 そして。


 Hが気づく。


 誰が、何に気づいたのか。


 ミレーヌは、包み紙の写しを前にして、ほとんど瞬きもせずに見つめていた。


「Hは……ハーゲンさんでしょうか」


「可能性は高いです」


 クラリスは答えた。


「でも、まだ決めません」


「ほかにHは?」


「荷札のH、保管のH、港湾の略号、あるいは別の人名。可能性を消すには早いです」


 ミレーヌは少しだけ唇を結び、手帳に書いた。


 H=ハーゲンと決めない。まず、Hが何を指すかを見る。


 その一文は、今の彼女らしい。


 飛びつかない。


 疑うが、決めつけない。


 クラリスは小さく頷いた。


「今日は、H表記を集めます」


 オスカーが、すでに関連資料を机へ並べていた。


 ハーゲンの病欠連絡票。

 相談箱控えのHgn署名。

 南施療院返答草案のHgn略字。

 港湾内部確認依頼のHgn。

 主任机概要札の裏面にある「H強硬」。

 そして、旧礼拝堂包み紙の「Hが気づく」。


 ヘレナ修復記録官も呼ばれていた。


 今日は筆跡比較の日だった。


 ヘレナは、紙を一枚ずつ確認しながら言った。


「まず、HgnとHは分けます」


「Hgnはハーゲン補助官を指す可能性が高い」


 オスカーが確認する。


「はい。複数の正式周辺文書で、ハーゲン補助官の略記として使われています。ただし、H単独は別です」


「H単独は?」


「人名の頭文字として使われることもありますし、状態記号として使われることもあります」


 ミレーヌが尋ねた。


「状態記号?」


「保留をHと書く人がいました。古い財務院の略記で」


「保留……」


 部屋の空気が少しだけ変わる。


 Hが気づく。


 保留が気づく、では意味が合わない。


 だが、H単独が常に人名とは限らないことは重要だった。


 クラリスは記録した。


 H単独は、ハーゲンとは限らない。財務院旧略記では保留等の可能性もある。ただし“気づく”との文脈上、人または担当者を指す可能性が高い。


 ヘレナは次に、文字の形を比べた。


 包み紙に写った「H」は、強い筆圧ではない。


 薄い墨が紙へ移ったものなので、元の筆圧は分かりにくい。


 だが、形は少し右へ倒れている。


 主任机概要札の裏面にあった「H強硬」のHも、似た倒れ方をしていた。


「同じ人が書いた可能性は?」


 カレル調査官が尋ねる。


 ヘレナはすぐには答えなかった。


「可能性はあります。ただし、包み紙は転写文字です。直接筆跡より精度は落ちます」


「断定不可」


「はい」


 ミレーヌが書く。


 包み紙のHと概要札裏面のHは形状類似の可能性。ただし転写文字のため断定不可。


 ヘレナは続けた。


「興味深いのは、“気づく”の字です」


「気づく?」


 クラリスが顔を上げる。


「はい。“気”の略し方が、ハーゲン補助官の草案に出てくる“気候”“気付”の字と少し違います。むしろ、オルド元書記の処理札に近い」


「では、書いたのはハーゲンではない?」


「その可能性が高いです」


 ヘレナは慎重に言った。


「少なくとも、“Hが気づく”を書いたのは、H本人ではなく、別の者がHについて書いた可能性が高い」


 部屋が静かになった。


 Hが気づく。


 これは、H本人の覚書ではない。


 誰かが、Hが気づいたことを警戒して書いた可能性。


 クラリスはゆっくり息を吸った。


「つまり、この包み紙は、気づいた者の記録ではなく、気づかれた側の記録かもしれない」


「はい」


 ヘレナは頷いた。


 ミレーヌの筆が震えた。


 “Hが気づく”はH本人の記述ではなく、Hの気づきを警戒した第三者の記述の可能性。


 その一文は重い。


 ハーゲンが何かに気づいた。


 そのことを、別の誰かが把握していた。


 そして、続けて書いた。


 Bへ戻すな。


 気づいたHを、Bへ戻してはいけない。


 あるいは、Hが気づいたものを、Bへ戻してはいけない。


 文の主語が、まだ揺れる。


 クラリスは白紙に二つの解釈を書いた。


 一、H本人をBへ戻すな。

 二、Hが気づいた紙・布見本をBへ戻すな。


 オスカーが眉を寄せる。


「どちらもあり得ますね」


「はい」


 ミレーヌが小さく言った。


「Bは、バルナス主任でしょうか」


「可能性はあります」


 クラリスは答えた。


「でも、Bも決めません。バルナス、バルツァー、B机、B箱。複数あります」


 カレルが補足する。


「ただ、これまでの文書では、B机がバルナス主任机を指した可能性がありました」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「だから、B=バルナス主任机の可能性は高い。ただし、個人なのか、机なのか、派閥なのかを分けます」


 午後、オルド元書記が再び呼ばれた。


 彼は、布見本包み紙の写しを見ると、長く黙った。


 いつもの皮肉も出てこない。


 紙に近づき、目を細め、唇を引き結ぶ。


「見覚えがありますか」


 カレルが尋ねると、オルドはゆっくり答えた。


「字に、見覚えがあります」


「誰の字ですか」


「私の字に、似ています」


 ミレーヌの筆が止まる。


「あなたが書いたのですか」


「覚えていません」


 オルドは、静かに首を振った。


「ですが、“気づく”の略し方は私の癖に似ている」


 ヘレナの見立てと合った。


 クラリスは表情を変えずに尋ねた。


「この内容に覚えは?」


 オルドは、布見本の写しへ視線を落とした。


「南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送……」


 そこで言葉を切る。


「これは、私が判断する内容ではありません」


「では、誰の指示で書いた可能性がありますか」


「主任机の処理なら、バルナス主任。あるいは、旧バルツァー派の上から来た紙を写したか」


「Hが気づく、とは?」


 オルドは、そこで初めて少し苦い顔をした。


「ハーゲンでしょうな」


「なぜそう思いますか」


「彼は、布の行き先を気にしていました。数量ではなく、何がどこへ行ったかを」


 クラリスの胸の奥が、静かに鳴った気がした。


 数量ではなく、何がどこへ行ったか。


 まさに、この事件の核心だった。


 オルドは続ける。


「財務院の多くは、八梱、六梱、四梱を見る。ハーゲンは、中身を見ようとした。端印、等級、用途。面倒な若者でした」


「面倒ではなく、必要だったのでは?」


 ミレーヌが思わず言った。


 オルドは彼女を見た。


 怒るかと思ったが、彼は苦く笑った。


「今なら、そう言えます」


 ミレーヌは、少しだけ目を伏せた。


 クラリスは、オルドへ尋ねる。


「Bへ戻すな、のBは何だと思いますか」


「当時の私なら、B机と読みます」


「バルナス主任机」


「はい。ただし、B机はバルナス個人だけではなく、主任机処理全体を指すこともあります」


「つまり、ハーゲンが気づいた件を、バルナス主任机へ戻すな、という意味」


「可能性はあります」


「なぜ戻してはいけない?」


 オルドは黙った。


 長い沈黙だった。


 やがて彼は、低く言った。


「戻せば、閉じられるからでしょう」


 部屋が冷えたように感じた。


 Bへ戻すな。


 それは、バルナス主任机へ戻すな。


 戻せば、また旧件として閉じられる。


 だから、どこか別の場所へ隠した。


 旧礼拝堂の床板下へ。


「では、これはハーゲンを守るための言葉ですか」


 ミレーヌが尋ねた。


 オルドは首を振った。


「分かりません。ハーゲンを守るためかもしれない。あるいは、ハーゲンに気づかれた証拠をバルナス机へ戻さず、別の者が握るためかもしれない」


「別の者」


「紙を握る者は、誰でも少し偉くなれます」


 嫌な言葉だった。


 だが、オルドらしい実感があった。


 クラリスは記録した。


 オルド証言:Hはハーゲンを指す可能性高。ハーゲンは数量ではなく布の行き先・端印・等級を気にしていた。BはB机、すなわちバルナス主任机処理を指す可能性。Bへ戻すなは、戻せば閉じられるためとの解釈可能。ただし保護目的か証拠掌握目的かは未確定。


 夕方には、バルナス主任も呼ばれた。


 布見本の写しを見せると、彼は長く沈黙した。


 沈黙が重い。


 以前のように「覚えていません」と即答しない。


 それが逆に、部屋の空気を硬くした。


「この布見本に覚えはありますか」


 カレルが尋ねる。


 バルナスは、布札の文字を見ていた。


 C-3正温。

 軽寝代。

 外套地転。


「……似たものは見たことがあります」


 クラリスは筆を構えた。


「どこで?」


「主任机で」


「いつ頃?」


「二年前の冬か、春。南施療院の件が出た頃です」


 エリオットが目を閉じた。


 バルナスは続ける。


「ハーゲンが、布の違いを持ち込んだ。正規保温布、軽寝具、外套地。そういう比較だったと思います」


「ハーゲンが?」


「はい」


「では、Hが気づく、のHはハーゲン補助官だと思いますか」


「そうでしょう」


 あまりに静かな答えだった。


 ミレーヌの筆が小さく震える。


「ハーゲンは何に気づいたのですか」


 クラリスが尋ねる。


 バルナスは、しばらく答えなかった。


 そして、低く言った。


「C-3の正規保温布が、南施療院へ行っていないことです」


 部屋の空気が止まった。


 カレルが、静かに聞き返す。


「C-3の正規保温布は、どこへ?」


「分かりません」


「本当に?」


「当時は、別送扱いと聞きました」


「誰から?」


「ギデオン経由の控えです」


「ギデオン本人?」


「分かりません。G札です」


 また、G札。


 旧G便。


 名義が道になったもの。


「南施療院には外套地転が送られた」


 クラリスが言うと、バルナスは目を伏せた。


「その可能性は、当時からありました」


「知っていたのですか」


「疑いとしては」


「それをなぜ閉じたのですか」


 ミレーヌの声だった。


 クラリスが止める前に、彼女は言っていた。


 部屋が静かになる。


 ミレーヌは自分でも驚いたように顔を白くしたが、引かなかった。


「南施療院は寒かったんです。病床用には心許ないって書いていました。ハーゲンさんは気づいていました。なら、なぜ……」


 言葉が詰まる。


 バルナスは、怒らなかった。


 ただ、ひどく疲れた顔でミレーヌを見た。


「閉じれば、南施療院一件で済むと思った」


 その声は、かすれていた。


「開けば、C-3、G札、旧バルツァー期の雑費、港湾仲介、複数施設の処理まで出る。財務院は壊れると思った」


「でも、現場はもう壊れていました」


 ミレーヌの声は震えていた。


「寒かったんです」


 バルナスは、何も言えなかった。


 クラリスは、静かに息を整えた。


 怒りで場を壊してはいけない。


 だが、この言葉は記録するべきだった。


「記録します」


 クラリスは言った。


 バルナスは、小さく頷いた。


 その日の報告書は、重かった。


 表題。


 包み紙“Hが気づく”記述およびH・B解釈確認報告


 主な内容。


 一、“Hが気づく”はH本人の記述ではなく、Hの気づきを警戒した第三者記述の可能性。

 二、筆跡はオルド元書記に類似。本人も自筆可能性を認めるが、記憶なし。

 三、Hは文脈上ハーゲン補助官を指す可能性高。

 四、ハーゲン補助官は数量ではなく、布の行き先、端印、等級、用途を気にしていたとの証言。

 五、BはB机、すなわちバルナス主任机処理を指す可能性。個人か机処理かは要注意。

 六、“Bへ戻すな”は、戻せば旧件として閉じられるためとの解釈可能。ただし保護目的か証拠掌握目的かは未確定。

 七、バルナス主任は、ハーゲンが正規保温布・軽寝具・外套地の比較を主任机へ持ち込んだ記憶を認める。

 八、バルナス主任は、Hをハーゲン、Hが気づいたものをC-3正規保温布が南施療院へ行っていないことと認識。

 九、C-3正規保温布はG札により別送扱いと聞いたと証言。行き先未確認。

 十、バルナス主任は、開けば複数処理へ波及し財務院が壊れると考え、閉じたと証言。

 十一、ミレーヌ発言として、現場はすでに寒さにより損なわれていたとの指摘あり。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 Hが気づいたものは、数字の不一致ではなかった。正しい布が、正しい場所へ行っていないという、現物の行き先だった。


 ミレーヌは、しばらく札を書けなかった。


 手が震えていた。


 イリスが静かに隣へ来て、温かい茶を置く。


「今日の札は、無理に今書かなくてもよろしいかと」


 ミレーヌは首を振った。


 そして、ゆっくり筆を取った。


 数字が合っても、行き先が違えば届いていない。


 クラリスは、その札を見て目を伏せた。


「貼りましょう」


 イリスが、丁寧に壁へ貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 Hは、ほぼハーゲンへ近づいた。


 彼が気づいたのは、数量ではない。


 布の行き先。


 C-3の正規保温布が、南施療院へ行っていないこと。


 南へ外套転。


 西へ軽寝二。


 C-3は別送。


 そして、その別送を動かしたのは、G札。


 次に追うべきは、そのC-3がどこへ別送されたのかだった。


 そこに、ギデオンの名を借りた道の本当の終点があるかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ