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第136話 床板の下に、布の声が残っていた

布は、紙より黙っている。


 紙には文字がある。

 署名がある。

 印がある。

 日付がある。

 余白の癖がある。


 だが、布は黙っている。


 ただ、そこにある。


 厚いか。

 薄いか。

 暖かいか。

 水を吸いやすいか。

 何のために織られたものか。


 それを読める者でなければ、布は何も語らない。


 だからこそ、布を読める手が必要だった。


 クラリスは、朝の顧問室で旧G便聞き取り報告を見返していた。


 ロス元御者の証言。


 二年前冬〜春、旧礼拝堂前へG札・控え・布見本様の紙包みを運んだことあり。


 布見本。


 その言葉が、今朝の中心だった。


 南施療院では、保温布と言われた布が病床用には心許ないと記録されていた。


 西区老人施療舎では、寝具布六梱のうち二梱が軽く、上掛けには不向きだった。


 C-3では、正規保温布の束が別経路へ流れた可能性があった。


 もし旧礼拝堂跡に布見本が残っていれば。


 それは、紙ではなく現物の声になる。


 ミレーヌは、手帳を開きながら言った。


「布見本が残っていると思いますか」


「分かりません」


 クラリスは正直に答えた。


「燃やされたかもしれません。持ち去られたかもしれません。湿気で傷んでいるかもしれません」


「でも、探す」


「はい」


「見つからないことも、探した場所と一緒に書く」


「その通りです」


 ミレーヌは、もうその考え方を自分のものにしていた。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「布は、紙より隠れやすいですから。棚の裏、箱の底、床板の隙間。古い建物なら、どこにでも潜ります」


「まるで見てきたように言うのね」


「古い屋敷の侍女は、床板の下から落とし物を見つけるのも仕事でございます」


 クラリスは小さく頷いた。


「今日は、侍女の目も借りたいところです」


「もちろんでございます」


 旧礼拝堂跡へ向かう一行は、いつもより少し異色だった。


 王弟府調査官カレル。

 クラリス。

 オスカー。

 ミレーヌ。

 イリス。

 文書課のヘレナ修復記録官。

 そして、仕立て場からエヴァレット夫人とニナ。


 紙を見る者。

 場所を見る者。

 布を見る者。

 生活の痕跡を見る者。


 旧礼拝堂跡は、昼間でも薄暗かった。


 壁には蔦が絡み、割れた窓から風が入る。


 隣の司祭館跡は、前に見た時と同じように壊れかけていた。


 だが、今日は違う目的で見る。


 紙灰や足跡だけではない。


 布が潜める場所を探す。


 カレルは最初に注意を告げた。


「床板や棚を動かす前に、必ず声をかけてください。見つけたものには触れず、位置を記録します」


 ニナは少し緊張した顔で頷いた。


「はい」


 エヴァレット夫人は落ち着いていた。


「布なら、湿気の入り方も見ます。古い布でも、保管されていた場所で傷み方が変わります」


 ヘレナが頷く。


「紙も同じです。包み紙が残っていれば、そちらも見ます」


 ミレーヌは、手帳を握りしめた。


 旧礼拝堂跡の司祭館。


 その入口に立った時、彼女は小さく呟いた。


「ここで、紙が分かれたかもしれないのですね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「そして、布も見せられたかもしれません」


 最初に見つかったのは、何でもない麻紐だった。


 古い棚の後ろに落ちていた。


 すでに朽ちかけている。


 ヘレナが確認し、以前見つかった紙紐とは別物の可能性が高いと判断した。


 次に見つかったのは、小さな蝋のかけら。


 ただし、印はなく、礼拝堂で使われていた普通の蝋燭の残りと見られた。


 そして、何も出ない時間が続いた。


 古い床を一枚ずつ見る。


 棚の裏を覗く。


 壁板の隙間に光を当てる。


 ミレーヌは、だんだん不安そうになってきた。


「ないのでしょうか」


「ない可能性もあります」


 クラリスは言った。


「その時は、ないと記録します」


「はい」


 その時だった。


 イリスが、崩れた暖炉の横で膝をついた。


「奥の床板、少し浮いております」


 カレルがすぐに近づく。


 床板は、見た目には他と変わらない。


 だが、イリスが指した端だけ、わずかに反っていた。


 無理にこじ開けた跡ではない。


 何度か開け閉めされたような、古い癖だった。


「隠し場所ですか」


 ミレーヌが小声で言う。


「隠し場所、または湿気逃がしの板でしょう」


 イリスは答えた。


「古い建物では、床下に乾燥材や香草を入れることもございます」


 カレルが工具を使い、慎重に板を外した。


 床下には、埃と小さな木片が溜まっていた。


 そして、その奥に、細い紙包みがあった。


 誰も声を出さなかった。


 紙包みは、手のひらより少し大きい。


 外側は黄ばんでいる。


 紐は切れかけているが、ほどけてはいない。


 ヘレナが近づき、状態を確認する。


「湿気はありますが、完全には腐っていません。包み紙は古い。二年程度ならあり得ます」


「動かせますか」


 カレルが尋ねる。


「この場で開くより、板の下ごと位置記録してから作業台へ」


「分かりました」


 オスカーが位置を記録する。


 司祭館跡、暖炉横、浮き床板下。


 ミレーヌは震える字で書いた。


 床板下より紙包み一つ。布見本の可能性。未開封。


 クラリスは、その一文を見て静かに息を整えた。


 見つかった。


 ただし、中身はまだ分からない。


 期待しすぎてはいけない。


 紙包みは、司祭館跡の中に設けた簡易作業台へ運ばれた。


 ヘレナが包みを開く。


 紐は古く、触れると崩れそうだった。


 慎重に切り、包み紙を少しずつ開いていく。


 中から出てきたのは、三枚の布片だった。


 一枚目は、厚手の白灰色。


 二枚目は、やや薄い生成り色。


 三枚目は、灰色がかった軽い布。


 それぞれに、小さな紙札がついている。


 文字はかすれていたが、読める部分があった。


 一枚目。


 C-3 正温


 二枚目。


 軽寝 代


 三枚目。


 外套地 転


 ミレーヌが、手帳を握りしめたまま固まった。


 ニナが、小さく息を吸う。


「これ……」


 エヴァレット夫人が、布片を覗き込んだ。


「触ってよろしいですか」


 カレルが頷く。


「手袋でお願いします」


 エヴァレット夫人とニナは、布を一枚ずつ確認した。


 まず、C-3と書かれた厚手の白灰色。


 ニナは、指先で厚みを確かめながら言った。


「これは、病床用の保温布として使えます。織りが詰まっていて、空気を含みます。暖かい」


 エヴァレット夫人も頷く。


「王宮慈善向けの上等な保温布に近い。少なくとも、外套布ではありません」


 次に、軽寝と書かれた生成り色。


「これは寝具布ですが、軽いです。敷き布か、季節の変わり目用。真冬の上掛けには弱い」


 西区老人施療舎の記録が思い出される。


 上掛けには不向き。


 敷き布に回す。


 最後に、外套地転と書かれた灰色の布。


 ニナの顔が明らかに曇った。


「これは……外套用に近いです。病床用保温布には向きません」


「南施療院の記録と?」


 クラリスが尋ねる。


「“外套布のように薄い”という表現とは合います」


 ニナは慎重に答えた。


「でも、南施療院の現物そのものとは言えません。あくまで同種の可能性です」


 ミレーヌが、すぐに書く。


 外套地転:病床用保温布には不向き。南施療院記録“外套布のように薄い”と整合可能。ただし現物同一断定不可。


 エヴァレット夫人は、三枚の布を並べて見た。


「これは、比較見本です」


「比較見本?」


 クラリスが尋ねる。


「はい。正規の保温布、軽寝具、外套地転用布。用途が違う布を比べるための見本です」


「つまり、誰かが用途の違いを知っていた」


「そうです」


 その言葉は重かった。


 知らずに混ざったのではない。


 少なくとも、この見本を持っていた者は、違いを知っていた。


 C-3正温。

 軽寝代。

 外套地転。


 正しい保温布。

 代用軽寝具。

 外套地を転用した布。


 それが三枚、旧礼拝堂の床板下に隠されていた。


 ヘレナが紙札を見て言った。


「札の字も確認が必要です。赤鉛筆ではなく、薄い墨。略字が多い」


「誰の字に見えますか」


 カレルが尋ねる。


「今は言いません。比較してからです」


 さすがヘレナだった。


 その場で印象を言わない。


 クラリスは頷いた。


「比較用に保全してください」


 オスカーが包み紙の内側を見ていた。


「ここに文字があります」


 包み紙の内側。


 布を包んでいた面に、うっすらと墨が写っている。


 ヘレナが光の角度を変えた。


 読める。


 完全ではないが、いくつかの単語が浮かんだ。


 南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送。Hが気づく。Bへ戻すな。


 全員が黙った。


 Hが気づく。


 Bへ戻すな。


 Hはハーゲンか。


 Bはバルナスか。


 まだ断定できない。


 だが、文脈はあまりに重い。


 ミレーヌの筆が震えた。


 クラリスは、静かに言った。


「そのまま書いてください。推定は別に」


 ミレーヌは頷き、丁寧に記録した。


 包み紙内側に転写文字:“南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送。Hが気づく。Bへ戻すな。”と読める可能性。判読・略字解釈は要確認。H・B未確定。


 ニナは布を見つめたまま、低く言った。


「これ、分かってやってます」


 その言葉は、針子としての直感だった。


 クラリスは、彼女へ顔を向ける。


「どういう意味ですか」


「正温と外套地転は、触れば違います。素人でも、並べれば分かります。これを比較していたなら、間違えたじゃ済みません」


 エヴァレット夫人も、厳しい顔で頷いた。


「少なくとも、布を扱う者なら用途違いを理解できます」


 カレルが確認する。


「財務官でも分かりますか」


 ニナは少し迷った。


「一枚だけなら、分からない人もいると思います。でも、三枚並べたら……さすがに」


 クラリスは記録した。


 仕立て場所見:三布片を並べれば用途差は明瞭。布を扱う者なら理解可能。財務官等が単独で見た場合の理解度は個人差あり。


 断定しない。


 だが、重い。


 これで、南施療院と西区老人施療舎は、布見本上でつながった。


 南へは外套転。


 西へは軽寝二。


 C-3は別送。


 これは、ただの後付けではない。


 誰かが布の行き先を分けていた可能性がある。


 そして、Hが気づいた。


 ハーゲンが気づいた可能性。


 だから、Bへ戻すな。


 バルナスへ戻すな、なのか。


 Bの箱へ戻すな、なのか。


 バルツァー系へ戻すな、なのか。


 まだ分からない。


 旧礼拝堂跡から帰る馬車の中、ミレーヌはずっと黙っていた。


 クラリスも無理に話しかけなかった。


 窓の外を、南門へ向かう道が流れていく。


 この道を、ハーゲンらしき人物も通ったのかもしれない。


 小型鞄と紙包みを持って。


 彼が探していたのは、この布見本だったのか。


 それとも、これを誰かに見せられたのか。


 彼は気づいたのか。


 だから、消えたのか。


 まだ分からない。


 顧問室へ戻ると、すぐに報告書の作成が始まった。


 表題。


 旧礼拝堂司祭館跡床下発見布見本包み確認報告


 主な内容。


 一、司祭館跡暖炉横の浮き床板下より紙包み一つを発見。

 二、包み内に布片三枚。札に「C-3 正温」「軽寝 代」「外套地 転」と読める記述。

 三、仕立て場所見では、C-3正温は病床用保温布に近く、軽寝代は軽寝具・敷き布向き、外套地転は病床用保温布には不向き。

 四、三枚は用途比較見本の可能性。

 五、南施療院の“外套布のように薄い”記録、西区老人施療舎の軽寝具二梱記録と整合する可能性。

 六、包み紙内側に「南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送。Hが気づく。Bへ戻すな。」と読める転写文字あり。判読要確認。

 七、HおよびBの意味は未確定。ハーゲン、バルナス等との関連は現時点で推定に留める。

 八、布見本は、用途違いを認識した上で布を分配していた可能性を示す重要物証となる可能性。

 九、紙札筆跡、包み紙、布地、旧礼拝堂封蝋片、G札証言との照合が必要。

 十、布見本発見により、旧礼拝堂跡が紙だけでなく現物比較・分配確認の場であった可能性が高まる。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 床板の下に残っていたのは、ただの端切れではなく、違う布を違う用途へ送ったことを知っていた者の痕跡だった可能性がある。


 ミレーヌは、自分の札に書いた。


 布は黙っていても、並べれば違いを語る。


 イリスがその札を壁に貼った。


 壁には、また新しい言葉が増えた。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 箱は、これまでで一番重く感じた。


 南施療院。

 西区老人施療舎。

 C-3。

 旧G便。

 旧礼拝堂。

 ハーゲン。

 バルナス。


 すべての線が、床板の下の三枚の布へ集まり始めている。


 次に必要なのは、包み紙の「Hが気づく」という言葉の意味を確かめることだった。


 Hは、本当にハーゲンなのか。


 そして、彼は何に気づいたのか。

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