第135話 古い御者は、誰の荷かより、誰が急がせたかを覚えていた
旧G便。
その言葉は、正式な帳簿にはなかった。
港湾管理局の便名表にもない。
財務院の急送手配規則にもない。
王宮慈善窓口の記録にもない。
だが、港の者は知っていた。
速い便。
夜でも動く便。
正規手配帳に載る前に荷が出る便。
責任者が曖昧で、だからこそ便利だった便。
正式にない道ほど、使った者の口に残る。
クラリスは、顧問室の机に港湾管理局から届いた聞き取り予定表を置いた。
古い御者、三名。
バイン。
ヘクター。
ロス。
そのうち、バインは前日の聞き取りで名前が出た人物だった。
港の古参御者で、「旧G便みたいに回せ」という言い回しを今も使う者の一人。
ミレーヌは、その名を見て少し緊張した顔になった。
「御者さんから聞くのですね」
「はい」
「紙ではなく、人の記憶ですね」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「ただし、人の記憶も紙と同じです。強いところと弱いところがある」
ミレーヌは、もう自然に手帳を開いていた。
「覚えていることと、思い込んでいることを分ける」
「その通りです」
イリスが茶を置きながら言った。
「御者は、荷札よりも急がせた声を覚えているかもしれませんね」
クラリスは、その言葉に少し目を上げた。
「急がせた声」
「はい。馬を出す時、誰がどんな声で急かしたか。そういうものは残るかと」
「今日の視点にしましょう」
ミレーヌがすぐに書く。
荷札だけでなく、誰が急がせたかを見る。
港湾管理局の聞き取り室に、古参御者バインが現れたのは昼前だった。
年は六十を越えているだろう。
背は曲がり、肌は日に焼け、手の甲には古い傷がいくつもある。
だが、目はよく動く。
部屋に入るなり、彼は机の位置、窓、扉、座っている者の顔を順番に見た。
長年、荷と人を運んできた者の目だった。
「王宮の偉い方々が、今さら旧G便ですか」
開口一番、彼はそう言った。
皮肉というより、呆れに近い声だった。
港湾管理局のドレイクが低く言う。
「聞かれたことに答えろ、バイン」
「へいへい」
バインは椅子に腰を下ろした。
出席者は、クラリス、オスカー、ミレーヌ、カレル調査官、エリオット、ドレイク。
レオンハルトは同席していないが、王弟府の調査としてカレルが主導する。
クラリスは、まず確認した。
「旧G便をご存じですか」
「知ってますよ。若い連中は昔話だと思っているでしょうがね」
「正式な便ですか」
「まさか。正式なら、旧G便なんて呼びません」
バインは鼻で笑った。
「夜中に、正規便が出せない時、倉庫が詰まってる時、財務院の札がまだ揃ってない時、それでも“朝までに届けろ”と言われる。そういう時に使う道です」
「誰が手配していましたか」
「時代によります」
「ギデオン・マースは関わっていましたか」
バインは、少し目を細めた。
「初めの頃は、あの男の顔がありました」
「初めの頃」
「ええ。ギデオンが濡れ帆亭の奥席にいて、札を出す。赤茶の札です。そこに行き先と梱数が書いてある。御者はそれを見て、倉庫裏へ行く」
「その後は?」
「ギデオン本人はいなくても、札だけ来るようになった」
部屋の空気が少し変わる。
ミレーヌの筆が止まり、すぐにまた動いた。
「札だけ」
クラリスが繰り返す。
「はい。G札です。誰が書いたかは知らない。でも、港の者は“G札なら急ぎだ”と分かる」
「ギデオン本人の確認は?」
「しません。札があれば動く」
「それは危険では?」
バインは肩をすくめた。
「危険でしょうな。でも、速かった」
また、その言葉。
速かった。
速さが、危うさを隠す。
クラリスは記録した。
旧G便初期はギデオン本人が濡れ帆亭奥席で札を出したとのバイン証言。後には本人不在でもG札のみで動いた可能性。
カレルが尋ねる。
「G札はどのようなものでしたか」
「赤茶色の小札。角に三本の釘跡みたいな印がある」
「三本釘」
エリオットが顔を上げた。
「旧礼拝堂跡で見つかった封蝋片に、欠けた三本線がありました」
クラリスは思わず視線を動かした。
旧バルツァー派の私的連絡印に似るとされた封蝋片。
三本の印。
まだ同じとは言えない。
だが、線が近づいた。
「三本釘の印は、何を意味しますか」
クラリスが尋ねると、バインは首を振った。
「さあ。港では“Gの釘”と呼んでいました。札が飛ばないように留める釘だとか、ギデオンが三つの倉庫を押さえていたからだとか、いろいろ言われましたがね」
「正式な印ではない」
「正式な印なら、あんなところに出ません」
ミレーヌが、慎重に書く。
G札:赤茶小札、角に三本釘様の印。正式印ではなく港湾内通称“Gの釘”。旧礼拝堂封蝋片との関連可能性。断定不可。
クラリスはその記録を見て頷いた。
断定不可。
今はそれでよい。
次に呼ばれたのは、ヘクターだった。
元倉庫番で、今は半ば引退している。
バインより無口で、答える前に長く考える癖があった。
彼は旧G便について、少し違う証言をした。
「ギデオン本人は、途中から看板みたいなものでした」
「看板?」
カレルが尋ねる。
「ええ。ギデオンの名を出せば、倉庫が開く。御者が動く。夜間でも人が集まる。本人がいなくても、“Gで”と言えば通る」
「誰がその言葉を使っていましたか」
「商会の使い。財務院の急使。港湾の古い者。時々、王宮慈善の荷を急がせる者も」
「財務院の急使とは、官吏ですか」
「官吏もいれば、ただの走り使いもいる」
「名は?」
ヘクターは首を振った。
「昔の走り使いの名など、覚えていません」
しばらく沈黙。
それから、ヘクターは低く付け加えた。
「ただ、声は覚えています」
イリスの言葉が、ふとクラリスの頭をよぎる。
御者は、急がせた声を覚えているかもしれない。
「どんな声ですか」
「低くて、急かさない声です」
「急がせるのに、急かさない?」
「はい。“いつものように”と言うだけです」
クラリスは目を細めた。
「いつものように」
「ええ。怒鳴らない。騒がない。ただ、札を出して“いつものように、朝までに”と言う」
バルナス主任の声ではないか。
そう思った者もいたかもしれない。
だが、クラリスは急がない。
「その人物の顔は?」
「帽子を深くかぶっていた。顔はよく見えない。左目に傷がある男とは違う」
ミレーヌが顔を上げた。
「左目に傷がある男を知っているのですか」
ヘクターは少し考えた。
「最近、港で聞く名です。昔のG便では、私は見ていません」
「では、旧G便の時代には左目の傷の男は関わっていなかった?」
「少なくとも、私の記憶にはありません」
重要だ。
左目の傷の男は、旧G便そのものではなく、後から古い経路を利用した可能性がある。
クラリスは記録した。
ヘクター証言:旧G便はギデオン名義が看板化し、本人不在でも“Gで”通った。急使の一人は低い声で“いつものように、朝までに”と言った記憶あり。左目傷の男は旧G便時代の記憶にはなし。
最後に、ロスが呼ばれた。
彼は三人の中で最も年若いが、それでも四十代半ばだった。
旧G便の末期を知る者として呼ばれている。
ロスは、他の二人より警戒心が強かった。
「旧G便はもうないでしょう」
「今はないと聞いています」
クラリスは答えた。
「ですが、通称が残っているか確認しています」
「通称なら残っています。港は古い呼び方が好きですから」
「末期の旧G便は、どのようなものでしたか」
ロスは腕を組んだ。
「便というより、抜け道です。正規便が詰まったら、“G札を回せ”と言う。すると、誰かが裏の御者を押さえ、倉庫番に話を通し、夜に出す」
「誰か、とは?」
「そこが分からないから旧G便です」
皮肉な答えだった。
だが、核心でもあった。
「ギデオン本人は?」
「見たことはありません。私が関わった頃には、もう名前だけでした」
「名前だけ」
「はい。ギデオンの名は、本人より長生きしたんです」
部屋が静かになった。
ミレーヌが、ゆっくり書いた。
ギデオンの名は、本人より長生きした。
ロスは続けた。
「だから、今ギデオン本人を探しても、旧G便の全部は分からないと思います」
「なぜですか」
「みんな、ギデオンを使っていたからです。本人が使った道じゃなく、本人の名を使う道になっていた」
それは、Gの多義化を人の言葉で言い換えたものだった。
G人。
G席。
G札。
G夜。
そして、G便。
人名が、経路になった。
ロスは、最後に思い出したように言った。
「ただ、一つだけ妙なことがありました」
「何でしょう」
「旧G便の札は、最後の頃、南門外の旧礼拝堂前でも受け渡しに使われていました」
クラリスの背筋が、静かに伸びた。
ミレーヌの筆が止まる。
カレルの目が細くなった。
「旧礼拝堂前」
「はい。港から離れているのに、なぜかあそこへ持っていけと言われることがあった」
「いつ頃ですか」
「二年前の冬から春にかけて。少なくとも、数回」
二年前。
南施療院の冬。
旧礼拝堂跡。
ハーゲンらしき人物が降りた場所。
紙紐、濃紺繊維、封蝋片、赤鉛筆欠片、紙灰が見つかった場所。
そこに、旧G便の札が持ち込まれていた可能性。
「何を運んだのですか」
カレルが尋ねる。
「紙包みです。荷物というより、札と控え。たまに小さな布見本」
「布見本?」
「はい。端切れみたいなものです。厚さを見せるためだとか何とか」
クラリスは、息を整えた。
端切れ。
布見本。
南施療院の端印違い。
西区老人施療舎の軽寝具。
C-3の正規保温布。
線が、旧礼拝堂へ集まり始めている。
「誰に渡したのですか」
ロスは首を振った。
「私は直接渡していません。御者は旧礼拝堂前まで行き、司祭館跡の扉脇に置く。それだけです」
「受け取り人は見ていない?」
「見ていません。ただ、一度だけ、灰色の外套の男が遠くに立っているのを見ました」
ミレーヌの顔色が変わった。
灰色の外套。
バルナス主任らしさを作った外套。
未確認外套。
旧礼拝堂跡の布片。
「その男の特徴は?」
カレルが尋ねる。
「遠くて分かりません。右足を少し引くように歩いていた気もしますが、昔の記憶です」
右足。
また、そこへ戻る。
だが、これはロスの古い記憶。
断定してはいけない。
クラリスは言った。
「弱証言として扱います」
ロスは少しほっとしたように頷いた。
「助かります。古いことですから」
ミレーヌが書く。
ロス証言:二年前冬〜春、旧礼拝堂前へ旧G便札・控え・布見本様の紙包みを運んだことあり。受取人直接確認なし。一度、灰色外套・右足を少し引くような男を遠目に見た記憶。ただし弱証言。
聞き取り後、顧問室へ戻ったクラリスたちは、しばらく言葉少なだった。
旧G便は、ただの昔話ではなかった。
ギデオン本人の動きでもなかった。
本人の名から離れ、札となり、席となり、夜間便となり、旧礼拝堂前へ紙包みを運ぶ道になっていた。
そして、そこには布見本があったかもしれない。
灰色外套の男がいたかもしれない。
右足の癖があったかもしれない。
クラリスは白紙に見出しを書いた。
旧G便聞き取り整理
一、旧G便は正式便ではなく、夜間急送・非正式手配経路の通称。
二、初期はギデオン本人が濡れ帆亭奥席で赤茶札を出したとの証言。
三、後期はギデオン本人不在でもG札で便が動いた可能性。
四、G札には三本釘様の印。旧礼拝堂封蝋片との関連可能性。断定不可。
五、旧G便は速いが記録が薄い経路として港に記憶。
六、ギデオンの名が本人から離れ、経路名として長生きした可能性。
七、二年前冬〜春、旧礼拝堂前へG札・控え・布見本様の紙包みを運んだ証言あり。
八、灰色外套・右足癖のある男を遠目に見た弱証言あり。
九、旧礼拝堂跡とG経由急送の接点が強まる。
十、ただし各証言は記憶証言であり、紙記録との照合が必要。
オスカーが清書しながら言った。
「旧礼拝堂の意味が変わりますね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「ハーゲンがたまたま向かった場所ではなく、旧G便の紙や布見本が集まる場所だった可能性が出ました」
ミレーヌが小さく言った。
「だから、ハーゲンさんはそこへ行ったのでしょうか」
「可能性はあります」
「自分が探していたものが、そこにあると思った」
「ええ」
イリスが、静かに茶を置いた。
「紙の分かれ道であり、古い便の終点でもあったのですね」
「その可能性があります」
クラリスは報告書の最後に一文を書いた。
旧G便は、ギデオン本人の足ではなく、ギデオンの名を借りた道だった。そして、その道は旧礼拝堂前へ続いていた可能性がある。
ミレーヌは、壁の札に新しい一枚を加えた。
人の名前が道になると、責任が迷子になる。
イリスが、それを丁寧に貼る。
国際案件の箱に、また報告書が入る。
箱の中で、旧礼拝堂跡の記録がさらに重くなった。
ハーゲンの足取り。
バルナス主任らしさ。
灰色外套。
右踵の癖。
紙灰。
封蝋片。
そして、旧G便。
次に必要なのは、旧礼拝堂へ運ばれたという布見本の行方だった。
その端切れが、どこかに残っていれば。
南施療院の薄い布と、西区老人施療舎の軽い布と、C-3の保温布をつなぐ、現物の声になるかもしれなかった。




