第119話 返されなかった返事は、下書き箱の底にあった
返事は、届かなければ返事ではない。
どれほど丁寧に書かれていても。
どれほど正しい言葉が並んでいても。
相手の手に渡らなければ、ただの下書きで終わる。
クラリスは、顧問室の机に置かれた報告書を見ていた。
ハーゲンが南施療院への返答草案を書いた可能性。草案は主任机へ出された後、所在不明。
所在不明。
人にも使われ、紙にも使われる言葉だった。
ハンス・ベルト。
ハーゲン補助官。
ギデオン・マース。
黒い帳面。
そして、南施療院への返答草案。
見えなくなったものは多い。
だが、見えなくなった理由はそれぞれ違う。
逃げたのか。
隠されたのか。
移されたのか。
処分されたのか。
そもそも正式な場所に置かれなかったのか。
それを分けなければならない。
「今日は、返答草案ですね」
ミレーヌが言った。
「はい」
クラリスは頷く。
「南施療院に届かなかった返事を探します」
「もし、もう無かったら?」
「無かったことを確認します」
「無かったことも、記録ですか」
「ええ」
ミレーヌは少し考えてから、自分の手帳に書いた。
見つからないことも、探した場所と一緒に書く。
クラリスは、その一文を見て静かに頷いた。
探していないのに無いと言うことと、探した上で無いと言うことは違う。
それもまた、記録の基本だった。
財務院の「下書き箱」は、正式な箱ではなかった。
財務院の正式な文書管理規則に、その名はない。
だが、現場にはあった。
返答前の文案。
訂正待ちの草案。
上司に見せる前の写し。
送らなかった文書。
書きかけの照会返答。
そういう紙を一時的に入れておく箱。
正式名称はない。
だから、職員ごとに呼び方も違う。
下書き箱。
草案箱。
仮置き箱。
未送付箱。
呼び名が違えば、探す場所もずれる。
クラリスたちは、まずその箱がどこにあったのかを確認した。
王弟府調査官カレル、エリオット、オスカー、ミレーヌ。
そして財務院側から、グレゴール参事官と元相談箱担当のパウラが立ち会った。
パウラは、古い机の前で少し困ったように言った。
「当時は、このあたりにありました。主任机の横です」
彼女が指したのは、財務院港湾記録整理室の奥だった。
バルナス主任の机から、二歩ほど離れた場所。
窓の下に、小さな木箱を置ける空きがある。
「今は?」
カレルが尋ねる。
「ありません。部署替えの時に撤去されたはずです」
「中身は?」
パウラは首を振った。
「覚えていません。送付済み、破棄、保管に分けたはずですが……」
「はず」
クラリスは繰り返した。
責めるためではない。
曖昧なところを曖昧と認めるためだ。
パウラもそれを理解したのか、小さく頷いた。
「はい。はっきりとは覚えていません」
ミレーヌが記録する。
下書き箱は正式管理外。主任机横に存在。部署替え時に撤去。中身の処理不明。
グレゴール参事官が苦い声で言った。
「正式管理外の箱が、いくつ出てくるのだ」
「必要だから生まれたのでしょう」
クラリスは答えた。
「ただ、必要なものに名前と記録を与えなかった。その結果、紙の行き先が消えました」
グレゴールは黙った。
その沈黙には、反論ではなく疲れがあった。
パウラは続けた。
「ただ、完全に捨てたわけではないかもしれません」
「なぜですか」
「ハーゲンは、下書きの写しをよく残していました。自分の机にも、処理箱にも」
エリオットが顔を上げる。
「ハーゲン担当箱には、まだ未確認の小箱がありました」
「どこですか」
「旧帳簿保管室の奥です。余白メモを見つけた箱とは別に、差し戻し草案の箱があります」
カレルがすぐに言った。
「確認しましょう」
旧帳簿保管室の奥は、空気がさらに古かった。
棚の上段に、細い木箱が並んでいる。
ラベルは擦れて、読みにくい。
エリオットが脚立に上り、一つの箱を下ろした。
札には、薄くこう書かれていた。
港湾・草案差戻
日付は二年前。
南施療院の件があった冬から、春にかけての時期だった。
ミレーヌが息を飲む。
クラリスは、すぐに言った。
「まだ期待しすぎないでください」
「はい」
彼女は頷いた。
だが、手帳を握る手は少し強い。
箱を開けると、中には送られなかった草案や差し戻し文書が入っていた。
紙は黄ばんでいる。
いくつかは端が折れ、いくつかは赤鉛筆で線を引かれている。
パウラが一枚ずつ見ていく。
「これは孤児院の燃料相談。これは北区施療所の薬草不足。これは……違います」
クラリスたちは黙って待った。
焦ると、紙は読み飛ばされる。
やがて、パウラの手が止まった。
「これ」
彼女は一枚の紙をそっと机に置いた。
表題はない。
だが、本文の冒頭にこうあった。
南施療院御中。先般照会の王宮慈善保温布八梱につき、現物確認のため、可能であれば未使用分または端印部分を保管願います。
ミレーヌが、小さく声を漏らした。
「返答草案……」
クラリスは、胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。
あった。
返されなかった返事は、消えていなかった。
ただ、送られていなかった。
カレルが紙の状態を確認する。
「送付印なし。受付番号なし。草案ですね」
「筆跡は?」
オスカーが尋ねる。
エリオットが見る。
「ハーゲンの字に似ています」
「正式比較が必要です」
クラリスは言った。
「でも、草案の内容は重要です」
続きには、こう書かれていた。
端印が通常の病床用保温布と異なる場合、現物等級確認が必要です。受領数が一致していても、用途等級が異なる可能性があるため、財務院港湾記録整理室にて確認を行います。
さらに、下には別の字で赤く線が引かれていた。
相談箱から返すな。港湾確認後。
赤鉛筆。
また、赤鉛筆だった。
ミレーヌは息を詰める。
「返すな……」
パウラが顔を曇らせた。
「この線、見覚えがあります」
「誰のものですか」
カレルが尋ねる。
「バルナス主任の指示に似ています。でも、字は……」
彼女は言いよどんだ。
「字は?」
「バルナス主任本人が書いた時より、少し弱い気がします。誰かが主任の言葉を写したのかもしれません」
また、本人の言葉と記入者が分かれる。
クラリスは慎重に記録した。
返答草案あり。ハーゲン筆跡類似。赤字で“相談箱から返すな。港湾確認後。”の差戻し指示。バルナス主任の指示に似るが記入者未確定。
草案の右上には、小さな文字があった。
H草→B机
H草案から、B主任机へ。
そう読める。
Bがバルナスなら、草案は主任机へ上がった。
そして、戻されなかった。
「この草案が南施療院へ送られていれば」
ミレーヌが言いかけて、止まった。
クラリスは、静かに言った。
「言ってください」
「未使用分や端印を残せたかもしれません」
「はい」
「そうしたら、二年前に分かったかもしれません」
「可能性はあります」
ミレーヌは、手帳に書いた。
返事が届けば、現物が残ったかもしれない。
その字は少し震えていた。
草案は、もう一枚あった。
こちらはさらに短い。
南施療院へではなく、港湾記録整理室内への確認依頼だった。
南施八梱、王宮保温布として数量一致。ただし施療院側より布質相違の相談あり。G経由急送分との関連、旧雑費控え確認要。Hgn
クラリスは、その末尾を見た。
Hgn。
ハーゲンの略字。
そして、G経由急送分。
ギデオン経由の急送分。
この時点で、ハーゲンはギデオンの関与を疑っていた。
あるいは、少なくとも確認しようとしていた。
赤鉛筆で、その横に大きく書かれている。
旧件。閉じ。
旧件。
閉じ。
ミレーヌが唇を噛んだ。
「旧件だから、閉じたのですか」
「そう書かれています」
クラリスは答えた。
「でも、誰の判断かはまだ分かりません」
「はい」
クラリスは、白紙に見出しを書いた。
返答草案差戻し経路
一、南施療院から布質相談。
二、相談箱でHgn受領。
三、ハーゲンが南施療院宛返答草案作成。
四、端印保管・現物確認を依頼する内容。
五、草案右上に「H草→B机」。
六、赤字で「相談箱から返すな。港湾確認後」。
七、港湾内部確認依頼に「G経由急送分」「旧雑費控え確認要」。
八、赤字で「旧件。閉じ」。
九、草案は送付されず、下書き箱または差戻し箱へ残存。
オスカーが清書する横で、エリオットは静かに紙を見ていた。
表情が硬い。
「エリオット様」
クラリスが声をかけると、彼は小さく首を振った。
「大丈夫ではありません」
最近、彼はそれを隠さなくなった。
「でも、見ます」
そう続けることも。
「ハーゲンは、ちゃんと返そうとしていたんですね」
「その可能性が高いです」
「現物を残しておいてほしいと。端印を確認したいと。G経由も見ようとしていた」
「はい」
「それを、閉じた人がいる」
「その可能性があります」
エリオットは、深く息を吐いた。
「財務院は、数字だけでなく、返事も止めた」
クラリスは、すぐには答えなかった。
全体としては、そう見える。
だが、誰が、どこで、どう止めたかを分ける必要がある。
「財務院の運用の中で、返事が止まりました」
クラリスは言った。
「それを誰の判断で、誰が記入し、誰が放置したかをこれから確認します」
エリオットは頷いた。
「はい」
午後、バルナス主任への確認が行われた。
彼は返答草案の写しを見ると、表情を固めた。
「覚えていません」
第一声が、それだった。
カレルは静かに尋ねる。
「この草案を見た記憶はない?」
「ありません」
「H草→B机とあります。B机は、あなたの机では?」
「当時、Bは私を指すこともありました」
「では、あなたの机へ上がった可能性は認める」
「可能性は」
「赤字の“相談箱から返すな。港湾確認後”は?」
「私がそう判断した可能性はあります」
部屋の空気が変わった。
バルナスは続けた。
「相談箱が勝手に返答すべきではない。港湾側で確認してから返す。それは、手順として間違っていません」
「港湾側の確認は?」
「……そこまでは」
「確認しなかった?」
「私だけの役割ではありません」
「旧件。閉じ、という赤字については?」
バルナスは黙った。
長い沈黙だった。
「覚えていません」
「あなたの字ですか」
「断言できません」
「違うと断言しますか」
バルナスは、目を閉じた。
「できません」
クラリスは、その表情を見ていた。
追い詰められた者の顔にも見える。
だが、自分の判断がどう残っているかを初めて見せられた者の顔にも見える。
カレルが言った。
「あなたは、南施療院へ返答しなかったことを認めますか」
「相談箱からは返答しない判断をした可能性はあります」
「結果として返答はなかった」
「結果としては」
「その結果、現物確認の機会が失われた可能性がある」
バルナスは、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「当時は、そこまで大きな問題になるとは思わなかった」
クラリスは、その言葉に胸が少し冷えた。
大きな問題になるとは思わなかった。
けれど、南施療院では寒かった。
現場は覚えていた。
紙が足りなかった。
大きいか小さいかは、財務院の箱で決まることではなかった。
ただし、今は怒る場面ではない。
クラリスは静かに言った。
「その発言も記録します」
バルナスは、もう反論しなかった。
夕方、顧問室へ戻ると、ミレーヌが返答草案の写しを見つめていた。
「この返事、届いてほしかったですね」
「はい」
「でも、届かなかった」
「ええ」
「届かなかった返事も、現場から見れば無かったのと同じ」
「そうです」
ミレーヌは、自分の札に書いた。
書いた返事は、届いて初めて返事。
クラリスは、その札を見て頷いた。
報告書の表題は、こうなった。
南施療院返答草案および差戻し経路確認報告
主な内容。
一、港湾・草案差戻箱から南施療院宛返答草案を確認。
二、内容は、未使用分または端印部分の保管依頼、現物等級確認を行う旨。
三、筆跡はハーゲン補助官の可能性。正式比較要。
四、右上に「H草→B机」。Bはバルナス主任机の可能性。
五、赤字で「相談箱から返すな。港湾確認後」の差戻し指示。記入者未確定。
六、港湾内部確認依頼に「G経由急送分」「旧雑費控え確認要」の記述。
七、赤字で「旧件。閉じ」。記入者未確定。
八、草案は送付されず、差戻箱に残存。
九、バルナス主任は、相談箱から返答しない判断をした可能性を認めるが、赤字記入者は断定せず。
十、返答不達により、南施療院側が現物を保管・再確認する機会を失った可能性。
クラリスは最後に一文を入れた。
返されなかった返事は、下書き箱の底に残っていた。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「返事は、箱の底ではなく、人の手に届くべきものでございますね」
「はい」
クラリスは答えた。
国際案件の箱に、また報告書が入る。
南施療院への返答草案は、あった。
ハーゲンは、現物を残してほしいと書いていた。
G経由急送分を確認しようとしていた。
旧雑費控えを見ようとしていた。
そして、その草案は主任机へ上がり、返すなと書かれ、旧件として閉じられた。
南施療院には届かなかった。
寒かった夜に、返事は届かなかった。
だが今、その返事は箱の底から戻ってきた。
次に見るべきは、その返事を止めた赤字の手だった。




