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第120話 赤字を書いた手と、止めた声は同じではなかった

赤字は、よく目立つ。


 黒い文字の上に引かれた一本の線。

 余白に書かれた短い指示。

 紙の行き先を変える二文字。


 D済。

 相談箱から返すな。港湾確認後。

 旧件。閉じ。


 どれも赤かった。


 そして、どれも紙を止めていた。


 南施療院への返答草案は、送られなかった。


 港湾内部確認依頼は、旧件として閉じられた。


 相談箱の控えは、処理済みになった。


 だが、その赤字を誰が書いたのか。


 そして、赤字を書いた者と、返答を止めた判断をした者は同じなのか。


 そこは、まだ分かっていない。


 クラリスは、王弟府の小会議室で白紙に線を引いた。


 左に「書いた手」。

 右に「判断した声」。


 その間に、大きく空白を残す。


「今日は、この空白を見ます」


 ミレーヌが、じっとその紙を見つめた。


「書いた人と、決めた人は違うことがある」


「はい」


「S印の時と同じですね」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「印を押した手と、物を消した手は同じとは限らない。赤字も同じです」


 オスカーが、比較資料を机に並べる。


 返答草案の赤字。

 相談箱控えのD済。

 バルナス主任の赤鉛筆メモ。

 ハーゲン補助官の筆跡資料。

 当時の古い書記オルドの処理メモ。

 パウラの相談箱メモ。

 ネーラの受領控え。


 そして、文書課のヘレナ修復記録官が、白い手袋をはめて席に着いた。


「まず、赤字は一人の筆跡ではありません」


 最初の言葉で、部屋が静かになった。


 レオンハルトが目を細める。


「三つとも違うのか」


「完全に別、とまでは言いません。ただ、少なくとも二系統あります」


 ヘレナは、赤字の写しを二枚並べた。


 一つ目。


 相談箱から返すな。港湾確認後。


 二つ目。


 旧件。閉じ。


「この二つは、同じ赤鉛筆で書かれた可能性があります。色味は近い。しかし筆跡は違います」


「色味は同じでも、手が違う」


 ミレーヌが小さく言った。


「はい」


 ヘレナは続ける。


「“相談箱から返すな”の方は、字が強い。横線が長く、命令として書いている。バルナス主任の赤鉛筆メモと近い特徴があります」


 クラリスは確認する。


「近い特徴。断定不可」


「はい」


 ヘレナは頷く。


「一方、“旧件。閉じ。”は、字が小さい。右肩が下がる。句点の位置が低い。これは、バルナス主任の筆跡よりも、当時の書記オルドの処理メモに近いです」


 新しい線が引かれた。


 オルド。


 退職した古い書記。


 パウラが、主任机の周辺にいたかもしれないと証言していた人物。


 ミレーヌが、丁寧に書き始める。


 赤字は二系統の可能性。“相談箱から返すな”はバルナス主任筆跡類似。“旧件。閉じ”は旧書記オルド筆跡類似。ただし正式鑑定未了。


 クラリスは、その記録を見て頷いた。


 かなり重い内容だ。


 だが、確定にしていない。


 それが大事だった。


「D済は?」


 カレルが尋ねた。


 ヘレナは、相談箱控えの赤い二文字を示した。


「D済は、二文字だけなので最も弱い。ただ、“旧件。閉じ。”の筆跡に近い可能性があります。特に“済”の略し方が、オルドの古い処理メモに似ています」


 エリオットが、低く息を吐いた。


「オルド書記は、当時バルナス主任の机で処理補助をしていました」


「現在は?」


 レオンハルトが尋ねる。


「退職し、王都北区にいます。高齢ですが、存命です」


「聞き取りを行う」


 カレルが即座に頷いた。


 だが、その前にクラリスは言った。


「オルド様が赤字を書いたとしても、判断者とは限りません」


「分かっている」


 レオンハルトは短く答えた。


「だが、書いた手は聞かなければならない」


「はい」


 ミレーヌは、白紙の空白を見ていた。


 書いた手。

 判断した声。


 その二つを、まだ線で結ばない。


 それが今日の仕事だった。


 午後、オルド元書記が王弟府へ呼ばれた。


 年は七十を越えているだろう。


 痩せた体に古い上着を着て、手には杖を持っていた。


 だが、目は思ったより鋭い。


 紙を見る人間の目だった。


「まさか、退職してからまで財務院の紙に呼ばれるとは思いませんでしたな」


 彼は椅子に腰を下ろすなり、そう言った。


 声には皮肉があったが、怯えは少ない。


 長く紙の中で生きた者の、どこか諦めたような落ち着き。


 カレルが、返答草案の写しを机に置いた。


「この赤字に見覚えはありますか」


 オルドは、しばらく紙を見た。


 目を細め、杖の先を床に軽く当てる。


「古い字ですな」


「あなたの字ですか」


「どれです」


「“旧件。閉じ。”です」


 オルドは紙をさらに近づけた。


「……私の字に見えます」


 部屋の空気が変わった。


 だが、クラリスは自分に言い聞かせる。


 まだ、ここからだ。


 書いたことを認めた。


 判断したとは言っていない。


「覚えていますか」


 カレルが尋ねる。


 オルドは首を横に振った。


「一枚一枚は覚えていません。あの頃、こういう紙は山ほどありました」


「では、なぜ“旧件。閉じ。”と書いたのですか」


「主任に言われたのでしょう」


「主任とは?」


「当時の港湾記録整理室なら、バルナス主任です」


 エリオットの表情が硬くなる。


 ミレーヌの筆も少し震えた。


 オルドは続けた。


「私は、主任机で処理補助をしていました。主任が見た紙に、処理区分を書き込む。戻す、回す、閉じる、保留。そういう仕事です」


「あなた自身の判断で閉じることは?」


 オルドは鼻で笑った。


「補助書記がそんなことをしたら、首が飛びます」


 その言い方は乱暴だったが、内容はサビナやネーラの証言と合う。


 責任が重い処理を、下位職が勝手にすることは怖い。


 だから、しない。


 ミレーヌが記録する。


 オルド証言:“旧件。閉じ。”は自筆に見える。主任指示による処理補助として記入した可能性。補助書記が独断で閉じることは通常ないとの証言。


 クラリスは、赤字のもう一枚を出した。


 相談箱から返すな。港湾確認後。


「こちらは?」


 オルドは、少し見て首を振った。


「これは私ではないと思います」


「理由は?」


「字が強すぎる。私は、主任の指示を書く時、もっと小さく書きます。これは、指示そのものを書いた字です」


「バルナス主任の字に見えますか」


 オルドは、すぐには答えなかった。


「似ています」


「断言は?」


「しません。年寄りの記憶ですから」


 ヘレナがいれば頷いただろう。


 クラリスも頷いた。


「D済については?」


 相談箱控えを見せると、オルドは長く黙った。


「これは……私が書いたかもしれません」


「覚えは?」


「ありません。ただ、この“済”の省き方は、私の癖です」


「誰の指示で?」


「それは、その場の主任でしょう」


「バルナス主任?」


「おそらく」


 オルドは、そこで少し目を伏せた。


「ただし、主任が全てを読んだとは限りません」


 クラリスが目を上げる。


「どういう意味ですか」


「山ほど紙がありました。主任は全部を一字一句読むわけではない。私や他の書記が概要を言う。主任が“それは旧件だ”“港湾へ回せ”“相談箱で返すな”と言う。私が書く。そういうことです」


「では、概要を伝えた者の言い方次第で、処理が変わる」


「あります」


 オルドは、あっさり認めた。


「むしろ、よくありました」


 部屋の空気がまた重くなる。


 主任の判断。


 だが、その前に、誰かが概要を伝える。


 概要がゆがめば、判断もゆがむ。


 判断した声と、書いた手の間に、さらに「説明した口」がある。


 クラリスは白紙に新しい列を書き足した。


 説明した口


 書いた手。

 判断した声。

 説明した口。


 ミレーヌが、それを見て小さく息を吐いた。


「増えました」


「はい」


「でも、増やさないと間違えますね」


「ええ」


 カレルがオルドに尋ねる。


「南施療院の布質相談について、誰が概要を伝えたか覚えていますか」


 オルドは、しばらく考えた。


「ハーゲンではなかったと思います」


「なぜ?」


「ハーゲンなら、もっと食い下がる。彼は、現物を見ろと言う若造でした」


「では誰です」


「……パウラか、ネーラか、私か。あるいは、主任が自分で見たか」


「マルティンや商会関係者は?」


 オルドは顔をしかめた。


「財務院の主任机に商会の者は来ません。少なくとも表向きは」


「裏では?」


「港湾記録の周りには、商会の使いが来ることもありました。待合で書類を預ける程度ですが」


「ギデオン・マースは?」


 オルドの目が、わずかに動いた。


「懐かしい名ですな」


「知っていますか」


「港湾仲介人。昔から、雑費の臭いがする男でした」


 エリオットが顔をしかめた。


「雑費の臭い」


「正式な金では出せないものを、雑費の中に溶かす。そういう時、ああいう男が出てくる」


 オルドの声には、長年見てきた者の諦めがあった。


「南施療院の件に、G経由急送分という記述があります」


 クラリスが言うと、オルドは小さく頷いた。


「Gなら、ギデオンでしょうな。少なくとも当時の港湾なら」


「では、G経由急送分を旧件として閉じるのは、どういう意味ですか」


 オルドはしばらく黙った。


「開けば、古い雑費が全部出ます」


「それを避けた?」


「そういう判断を、上は好みました」


「上とは?」


 オルドは、ゆっくりと視線を上げた。


「当時の財務院です。バルナス一人の話ではありません」


 部屋が静かになった。


 それは、逃げの言葉にも聞こえる。


 だが、事実でもあるかもしれない。


 個人の判断と、組織の空気。


 どちらもある。


 混ぜてはいけない。


 クラリスは記録した。


 オルド証言:Gは当時の港湾ではギデオンを指す可能性。G経由急送分を開けば古い雑費が出るため、当時の財務院上層は旧件として閉じる傾向があったとの証言。


 カレルは最後に尋ねた。


「あなたは、南施療院への返答を止めるべきではなかったと思いますか」


 オルドは少し笑った。


 皮肉ではなく、疲れた笑いだった。


「今なら、そう思います」


「当時は?」


「当時は、紙を減らすことが仕事でした」


 その言葉は、部屋の誰にも刺さった。


 紙を減らすこと。


 処理済みにすること。


 箱を空にすること。


 それが仕事になれば、返事を待つ人は見えなくなる。


 ミレーヌは、震えた字で書いた。


 紙を減らすことと、問題を解くことは違う。


 クラリスは、何も言わず頷いた。


 聞き取りが終わると、オルドは立ち上がった。


 杖をつき、扉へ向かう前に、一度だけ振り返る。


「ハーゲンは、面倒な若者でした」


 彼は言った。


「ですが、紙の向こうに人がいることを、忘れない若者でした」


 その言葉を残して、オルドは出て行った。


 顧問室へ戻った後、報告書がまとめられた。


 表題。


 返答草案赤字筆跡およびオルド元書記聴取報告


 主な内容。


 一、返答草案赤字は一人の筆跡ではなく、少なくとも二系統の可能性。

 二、“相談箱から返すな。港湾確認後。”はバルナス主任筆跡類似。断定不可。

 三、“旧件。閉じ。”はオルド元書記筆跡類似。本人も自筆可能性を認める。

 四、D済追記もオルド元書記筆跡の可能性あり。ただし記憶なし。

 五、オルド元書記は、主任指示による処理補助として記入した可能性を証言。

 六、補助書記が独断で旧件閉じ・D済を行うことは通常考えにくいとの証言。

 七、主任机処理では、書いた手、判断した声、説明した口が分かれる可能性。

 八、南施療院件の概要を誰が主任へ伝えたかは未確定。

 九、Gは当時の港湾ではギデオンを指す可能性が高いとの証言。

 十、G経由急送分を開けば古い雑費が出るため、当時の財務院上層は旧件として閉じる傾向があったとの証言。

 十一、紙を減らす運用と問題解決が混同されていた可能性。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 赤字を書いた手と、返事を止めた声は同じではなかった可能性がある。だが、止めた事実は消えない。


 ミレーヌは、自分の札に書いた。


 紙を減らしても、待つ人は減らない。


 イリスがその札を見て、静かに頭を下げるように目を伏せた。


「これは、貼りましょう」


「はい」


 クラリスは答えた。


 国際案件の箱に、新しい報告書が入る。


 赤字の手は、少し見えた。


 オルド元書記の手。


 バルナス主任に似た筆跡。


 だが、まだ全てではない。


 書いた手。

 判断した声。

 説明した口。


 三つは同じとは限らない。


 それでも、南施療院への返事は止まった。


 その事実だけは、もう消えない。

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