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第111話 席に置かれた外套は、人の代わりにならない

バルナス主任の朝を割っていたものは、時刻だけではなかった。


 出勤控え。

 茶配り係の巡回控え。

 南口門番控え。

 辻馬車料金控え。

 病欠連絡票。


 それぞれは、単独で見れば小さな紙だった。


 だが並べると、同じ朝が違う顔をしている。


 財務院にいたはずの人間が、部署にはいない。

 南口から出ていないと言った人間が、南口近くへ出たかもしれないと言い直す。

 ハーゲン補助官から体調不良を聞いたというのに、彼の所持品は覚えていない。


 クラリスは時系列表を見ながら、静かに言った。


「まず、出勤扱いの根拠を確認しましょう」


 オスカーが頷いた。


「部署書記セドリック・ノールですね」


「はい」


 ミレーヌが顔を上げる。


「セドリックさんは、Sに該当する商会員一覧にもいましたよね」


「リーヴェ商会のセドリックとは別人です」


「あ、そうでした」


 彼女は少し頬を赤くし、すぐに自分の紙へ書いた。


 同名・同頭文字は混ぜない。所属で分ける。


 クラリスは小さく頷いた。


 名前は便利だ。


 だが、同じ名もある。


 似た頭文字もある。


 名前を追う時ほど、所属、役職、時刻を分けなければならない。


 財務院港湾記録整理室の部署書記セドリック・ノールは、若い官吏だった。


 まだ二十代前半。


 髪は短く、姿勢はやや硬い。


 小会議室へ呼ばれた彼は、最初からひどく緊張していた。


「私は、何か間違いをしたのでしょうか」


 席に着く前に、彼はそう言った。


 クラリスは首を横に振った。


「責めるためではありません。出勤控えの確認です」


「出勤控え……」


 セドリックの顔色が、さらに悪くなる。


 カレル調査官が、当日の出勤控えを机に置いた。


「この日、あなたはバルナス主任を第一鐘前に出勤扱いにしています」


「はい」


「本人を見ましたか」


 セドリックは、すぐには答えなかった。


 その沈黙で、クラリスは半分分かった。


「見ていません」


 小さな声だった。


「では、なぜ出勤扱いに?」


「机に外套と書類があったので……」


 ミレーヌの筆が動く。


 カレルが尋ねた。


「バルナス主任の机に?」


「はい。灰色の外套が椅子に掛かっていて、前日の処理箱が机に置いてありました。いつも主任は早く来て、途中で保管室へ行くことが多いので、出勤していると思いました」


「本人確認ではない」


「はい」


「席確認ですね」


「……はい」


 クラリスは、静かに言った。


「それは財務院では普通ですか」


 セドリックは困った顔をした。


「普通、というか……主任級の方は、いちいち全員の顔を確認しません。席に荷物があって、その日の処理箱が出ていれば、出勤扱いにします」


「誰からそう教わりましたか」


「前任の書記からです」


「バルナス主任からではなく?」


「はい。ただ、主任も特に何も」


 彼はそこで言葉を止めた。


 何も言われない。


 それは、黙認と同じになることがある。


 クラリスは記録した。


 出勤扱いは本人目視ではなく、席上の外套・処理箱による推定。主任級では慣行化。


 ミレーヌが小さく言った。


「外套が、人の代わりになっています」


 その言葉に、セドリックがびくりとした。


 責められたと思ったのだろう。


 クラリスはすぐに補った。


「あなた一人の問題ではありません。運用の問題として扱います」


 セドリックは、少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、表情はまだ硬い。


「その朝、バルナス主任の外套は確かに灰色でしたか」


 カレルが尋ねる。


「はい。いつもの灰色の外套です」


「それを誰かが置いた可能性は?」


 セドリックは、目を見開いた。


「そんなことは……考えたこともありません」


「考えたことがない、ですね」


「はい」


 クラリスは頷く。


「そこも大事です」


 考えたことがない運用ほど、穴になる。


 誰かが外套を置けば、出勤扱いになる。


 誰かが処理箱を机に出せば、そこにいることになる。


 それは、本人の出勤ではない。


 席の演出だ。


 ミレーヌは震えない字で書いた。


 席の演出で出勤扱いになる危険。


 セドリックへの確認は、さらに続いた。


 当日の朝、彼は第一鐘前に部屋へ入った。


 バルナス主任の机には、灰色外套と旧港湾関係の処理箱。


 椅子は少し引かれていた。


 机上の赤鉛筆は一本、斜めに置かれていた。


 窓は閉まっていた。


 本人はいなかった。


 その後、セドリックは部署印で出勤控えをまとめた。


 第一鐘後、茶配り係が来た時にも、バルナス主任は戻っていなかった。


 だが、セドリックはそれを出勤控えに反映しなかった。


 理由は単純だった。


「一度出勤扱いにした後、席を外しているだけだと思ったので」


 それも、普通の判断だった。


 普通だからこそ、危うかった。


 クラリスは、白紙に新しい見出しを書いた。


 席在席推定


 定義。


 本人を目視せず、机上の外套、書類箱、筆記具、椅子の状態などから在席・出勤を推定する運用。通常時は効率的だが、意図的に席を作られた場合、本人所在を誤認する危険がある。


 オスカーがそれを清書する横で、ミレーヌは自分の札に書いた。


 外套は、人ではない。


 短い。


 だが、今日の核心だった。


 午後には、茶配り係ルシアの聞き取りが行われた。


 ルシアは、財務院内を毎朝回る若い女性だった。


 彼女は緊張していたが、セドリックよりは少し落ち着いていた。


 毎朝、多くの部屋を回っているためか、人を見る目が細かい。


「バルナス主任は、その朝いませんでした」


 彼女ははっきり言った。


「どうして分かりますか」


 カレルが尋ねる。


「主任は、茶を薄めにしてくれといつも言うんです。いらっしゃる時は、必ず一言あります。その日は外套だけで、人はいませんでした」


「外套は見た?」


「はい。椅子に掛かっていました」


「普段と同じ?」


 ルシアは少し考えた。


「似ていました。でも……」


「でも?」


「袖の向きが違った気がします」


 クラリスが顔を上げる。


「袖の向き」


「いつも主任は、外套を椅子の背にきちんと掛けます。右袖が内側に畳まれているんです。右手で脱いで、左手で整える癖があるみたいで。でも、その朝は右袖が外に落ちていました」


 部屋が静かになった。


 外套が椅子にある。


 だが、掛け方が違う。


 本人が掛けたとは限らない。


「それをその時、不自然だと思いましたか」


 クラリスが尋ねると、ルシアは首を横に振った。


「少し変だとは思いました。でも、急いでいたのかと」


「今は?」


「今聞かれると、覚えています」


 クラリスは頷いた。


「それでいいです。当時は異常と思わなかった。今聞かれて思い出した。それを分けて記録します」


 ルシアは、少し安心したように息を吐いた。


 ミレーヌが丁寧に書く。


 ルシア証言:当時は異常と認識せず。今確認され、外套の袖向きが普段と異なる記憶あり。


 それは弱い証言だ。


 けれど、消すべきではない。


 外套が本人の代わりに置かれた可能性を、少しだけ支える。


 次に確認されたのは、赤鉛筆だった。


 セドリックが見た、机上に斜めに置かれていた赤鉛筆。


 財務院のものかと思われたが、エリオットが備品番号を確認したところ、港湾記録整理室のものではなかった。


 同じ財務院内でも、旧帳簿保管室の備品だった。


「なぜバルナス主任の机に?」


 ミレーヌが尋ねる。


 エリオットは首を振った。


「分かりません。ただ、旧礼拝堂跡で見つかった赤鉛筆の欠片も、旧帳簿保管室の備品に近い色味でした」


「同じものですか」


「まだ断定できません。ですが、同系統です」


 クラリスは記録した。


 バルナス机上赤鉛筆、旧帳簿保管室備品系統の可能性。旧礼拝堂跡赤鉛筆欠片との照合継続。


 線がまた増えた。


 外套。

 処理箱。

 赤鉛筆。


 机の上に置かれていたものは、ただの出勤の印ではなかった。


 誰かが席を作ったのかもしれない。


 本人が出かける前に残したのかもしれない。


 別人が置いたのかもしれない。


 どちらにしても、席は人の代わりをした。


 そして、それによってバルナス主任は第一鐘前に出勤扱いになった。


 夕方、バルナス主任への追加確認が行われた。


 彼は、セドリックとルシアの証言を聞くと、わずかに目を細めた。


「外套の掛け方まで記録するのですか」


「必要なら」


 カレルは答えた。


「その朝、あなたの外套は椅子にありました」


「そうでしょう。出勤していたのですから」


「あなたは、第一鐘後には部署にいませんでした」


「席を外していました」


「どこへ?」


「覚えていません」


「南口近くへ出た可能性は、前回認めました」


「近くです。外へは出ていません」


「では、なぜ外套は席に?」


「室内で外套を脱いだからでしょう」


「ルシアは、外套の袖向きが普段と違ったと証言しています」


 バルナスは、初めてはっきり不快そうな顔をした。


「茶配り係の記憶まで持ち出すのですか」


「はい」


「彼女が何を正確に覚えていると?」


「正確かどうかを確認しています」


 クラリスが静かに言った。


「外套の袖向きは、単独では証拠になりません。ただ、席が本人を示す根拠になっていた以上、その席が本人によるものか確認する必要があります」


 バルナスは黙った。


 彼は疲れているように見えた。


 あるいは、追い詰められているのかもしれない。


 それも、まだ分からない。


「赤鉛筆について」


 カレルが続けた。


「あなたの机に旧帳簿保管室系統の赤鉛筆がありました」


「古い備品を使うことはあります」


「旧礼拝堂跡から同系統の赤鉛筆欠片が見つかっています」


「私は礼拝堂へ行っていません」


「その発言は記録済みです」


「ならば、何度聞いても同じです」


 バルナスの声には苛立ちが混じっていた。


「私はハーゲンから体調不良を聞き、病欠連絡票を出した。それだけです」


「その時、ハーゲンは書類包みを持っていましたか」


「覚えていません」


「小型鞄は」


「覚えていません」


「体調不良の部下が、財務院資料を持ち出していたかもしれないのに?」


 バルナスは、口を閉じた。


 その沈黙を、クラリスは長く感じた。


 やがて彼は低く言った。


「その時は、そういう問題だと思わなかった」


「では、今は?」


 クラリスが尋ねた。


 バルナスは、彼女を見た。


 その目には、怒りではなく、何か別のものがあった。


 諦めに近い疲れ。


「今は、問題だったと思います」


 初めて、彼の言葉が変わった。


 クラリスは静かに頷いた。


「記録します」


 聴取後、顧問室では報告書がまとめられた。


 表題。


 バルナス主任出勤扱い根拠および席在席推定確認報告


 主な内容。


 一、当日第一鐘前の出勤扱いは、本人目視ではなく、席の外套・処理箱による推定。

 二、部署書記セドリックは本人を見ていない。

 三、茶配り係ルシアは第一鐘後、バルナス主任不在を確認。外套の袖向きが普段と異なる記憶あり。

 四、机上の赤鉛筆は旧帳簿保管室系統備品の可能性。旧礼拝堂跡赤鉛筆欠片との照合継続。

 五、バルナス主任は外套が席にあったことを出勤根拠とするが、第一鐘後の不在・南口付近発言との整合未確認。

 六、バルナス主任は、ハーゲンの所持品を確認しなかったことについて、当時は問題と思わなかったが、今は問題だったと認める。

 七、席在席推定は、本人所在確認として不十分。

 八、外套・処理箱・筆記具が人の代わりに扱われる危険あり。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 席に置かれた外套は、人の代わりにならない。


 ミレーヌは、その一文を見て、自分の札にも同じ言葉を書いた。


 イリスが静かに頷く。


「今日は、それを壁に貼りましょう」


「はい」


 クラリスは即答した。


 その札は、顧問室の壁に貼られた。


 国際案件の箱にも、報告書が一枚増える。


 バルナス主任の朝は、まだ完全にはつながらない。


 けれど、割れ目の一つは見えた。


 彼の出勤は、本人の姿ではなく、席に置かれた外套で作られていた。


 誰が置いたのか。

 本人なのか。

 別人なのか。


 まだ分からない。


 だが、少なくとも、外套は人ではない。


 その単純な事実が、財務院の朝を揺らし始めていた。

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