第112話 二着目の灰色外套は、控室の奥にあった
外套は、人ではない。
それは、あまりにも当たり前の言葉だった。
だが、その当たり前を紙に書いて壁に貼らなければならないほど、王宮の実務は時に危うい。
席に外套がある。
机に処理箱がある。
赤鉛筆が置かれている。
椅子が少し引かれている。
それだけで、人がいることになる。
少なくとも、財務院の朝はそう処理されていた。
クラリスは、顧問室の壁に貼られた札を見た。
席に置かれた外套は、人の代わりにならない。
ミレーヌの字だった。
少し硬い。
けれど、よく読める。
「今日は、外套そのものを見直します」
クラリスが言うと、オスカーがすでに資料を広げていた。
「バルナス主任の私物外套、財務院控室の外套掛け、予備外套管理、修繕記録ですね」
「はい」
「外套にまで管理記録があるのですね」
ミレーヌが少し驚いたように言った。
エリオットが苦い顔で答える。
「財務院にはあります。全てが完璧ではありませんが、官給品や備品扱いのものは控えがあります」
「私物外套は?」
「ありません。ただし、控室に預けた場合、紛失防止の札がつくことがあります」
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「外套にも、居場所札があるのですね」
「あるべきですね」
クラリスは答えた。
「今回、それがどこまで機能していたかを確認します」
財務院の控室は、中央棟の廊下脇にあった。
官吏たちが外套を掛け、靴を拭き、帽子を置くための場所である。
壁には長い外套掛けがあり、番号札が並んでいる。
だが、すべてが整然としているわけではなかった。
普段使いの外套。
雨の日用の古い外套。
誰のものか分からない帽子。
袖のほつれた予備外套。
控室の奥には、そうした「一時置き」のものが集まる小さな棚があった。
その棚には、札が一枚だけ下がっている。
未確認外套
クラリスは、その札を見て少し目を細めた。
「また便利な札ですね」
エリオットが、ひどく申し訳なさそうな顔をした。
「はい」
王弟府調査官カレルが、控室管理係の中年女性に尋ねた。
「この未確認外套棚は、どういう運用ですか」
管理係の名はダリア。
財務院で二十年以上、控室や備品の管理をしているという。
彼女は、少し困った顔で答えた。
「落とし物、置き忘れ、持ち主不明の外套を置きます。しばらくして持ち主が名乗れば戻します」
「しばらくとは?」
「……だいたい、数日から数週間です」
「記録は?」
「高価なものは。古いものは、札だけで済ませることも」
「灰色の古い外套は?」
ダリアは、奥の棚を見た。
「何着かあります」
何着か。
その言葉だけで、ミレーヌの手が動いた。
灰色外套は一着とは限らない。
クラリスは頷いた。
「見せてください」
ダリアは棚から三着の外套を出した。
一着目は、ほとんど黒に近い濃灰色。
二着目は、薄い灰色で袖が短い。
三着目は、バルナス主任が普段着ているものによく似た、中間の灰色だった。
ただし、古い。
右裾裏が擦れている。
修繕の跡もある。
ミレーヌは思わず顔を上げた。
「これ……」
カレルが静かに言った。
「触らずに」
ヘレナ修復記録官はいない。
だが、王弟府の手順は同じだった。
まず見る。
次に記録する。
最後に必要なら保全する。
クラリスは外套を見つめた。
昨日確認したバルナス本人の灰色外套に似ている。
だが、同じではない。
襟の縫い目が違う。
右袖の内側に小さなほつれ。
そして、右裾裏の当て布は、旧礼拝堂跡で見つかった布片により近いように見えた。
ただし、これは素人目だ。
断定してはいけない。
「この外套の持ち主は?」
カレルが尋ねる。
ダリアは眉を寄せた。
「分かりません。かなり前からあります」
「いつから?」
「少なくとも……二か月ほど前には」
「記録は?」
「未確認外套棚の簡易控えに」
ダリアは古い控えを出した。
そこには、短く書かれている。
灰外套 古 右裾傷 持主不明
日付は二か月前。
記入者はダリア。
「二か月前からここにあった」
クラリスは確認した。
「はい」
「当日の朝、この外套が棚にあったか覚えていますか」
ダリアは困ったように首を傾げた。
「覚えていません。申し訳ありません。毎朝、全て数えるわけではないので」
「それで構いません」
クラリスは答えた。
「覚えていない、と記録します」
ミレーヌが丁寧に書く。
ダリア証言:問題の灰外套は二か月前から未確認外套棚に記録あり。当日朝の有無は記憶なし。
ここで、茶配り係ルシアも呼ばれた。
昨日、バルナス主任の席に掛けられていた外套の袖向きが普段と違ったと証言した女性である。
彼女は控室に入るなり、三着の外套を見て少し眉を寄せた。
「その真ん中ではありません」
「どれですか」
カレルが尋ねる。
ルシアは迷いながら、三着目を指した。
「席に掛かっていたのは、これに近かったと思います」
「バルナス主任の普段の外套ではなく?」
「遠目には似ています。でも……」
「でも?」
「いつもの外套より、肩が少し落ちていた気がします。椅子に掛かっていた時、だらんとしていました」
ダリアが小さく言った。
「この外套は裏地がへたっているので、そうなります」
クラリスは、視線を二人の間に動かした。
外套は似ている。
だが、肩の落ち方が違う。
袖の向きが違う。
右裾裏の傷がある。
席に置かれていた外套が、バルナス本人のものではなく、控室の未確認外套だった可能性が浮上した。
ただし、まだ証言と見た目だけだ。
「ルシア様」
クラリスは尋ねた。
「当日見た外套が、これだったと断言できますか」
ルシアは首を横に振った。
「できません。似ていた、というだけです」
「そのまま記録します」
ミレーヌが書く。
ルシア証言:当日席にあった外套は未確認棚の灰外套に似る。断言不可。肩の落ち方が普段の外套と違った記憶あり。
次に、セドリック・ノールが呼ばれた。
当日、バルナス主任を出勤扱いにした部署書記だ。
彼は昨日よりもさらに緊張していた。
「この外套に見覚えはありますか」
カレルが尋ねる。
セドリックは三着目を見た。
「……あります」
「どこで?」
「主任の席で見たものに似ています」
「当日ですか」
「はい」
「バルナス主任の私物外套との違いは分かりますか」
セドリックは唇を噛んだ。
「今なら、違う気がします。でも、その時は同じものだと思いました」
「なぜ同じと思いましたか」
「灰色で、古くて、主任がいつもそういう外套を着ていたからです」
クラリスは頷いた。
ここが大事だ。
外套は本人の代わりになった。
それは、本人の外套だったからではない。
本人らしい外套だったからだ。
ミレーヌが、少し震える字で書いた。
本人の物ではなく、本人らしい物で席を作れる。
クラリスは、その一文に目を留めた。
とても重要だった。
人を偽装するには、完全な一致は必要ない。
周囲が「らしい」と思えば、席は作れてしまう。
午後、仕立て場で布の照合が行われた。
エヴァレット夫人とニナが、未確認外套の右裾裏当て布と、旧礼拝堂跡で見つかった布片を確認する。
ニナは、布片を見た瞬間、顔をしかめた。
「かなり近いです」
エヴァレット夫人も頷く。
「同じ時期、同じ種類の裏当て布である可能性があります」
「同じ外套から取れたと言えますか」
クラリスが尋ねると、エヴァレット夫人は首を振った。
「そこまでは言えません。ただ、旧礼拝堂跡の布片は、この外套の右裾裏の傷んだ部分と質・古び方が近い」
ニナが、外套の裾を慎重に見ながら言った。
「ここ、最近さらに裂けています。布片がここからちぎれた可能性はあります。でも、似た外套なら他にもあり得ます」
「可能性」
ミレーヌが確認するように言う。
「はい。可能性です」
ニナは真面目に答えた。
「でも、かなり嫌な似方です」
その言葉を、ミレーヌはそのまま書きかけて、少し迷った。
クラリスが言った。
「針子所感として記録して構いません」
ミレーヌは頷き、書いた。
針子ニナ所感:かなり嫌な似方。ただし一致断定不可。
ニナは少し恥ずかしそうな顔をした。
「そんな言い方でいいんですか」
「人の感覚は、感覚として残します」
クラリスは答えた。
「後で別の確認と合わせます」
仕立て場の確認で、未確認外套は王弟府の保全対象となった。
ただし、それはバルナス主任のものではない。
財務院控室の未確認棚にあったもの。
誰でも手に取れる可能性があったもの。
そして、バルナス主任の外套に似ていたもの。
夕方、バルナス主任への再確認が行われた。
彼は未確認外套を見るなり、顔をしかめた。
「これは私のものではありません」
「知っています」
カレルは答えた。
「財務院控室の未確認外套棚にありました」
「では、なぜ私に?」
「当日あなたの席にあった外套が、これに似ている可能性が出ています」
「馬鹿な」
声が少し荒くなった。
「誰かが私の席に、こんなものを置いたと言うのですか」
「その可能性を確認しています」
「私は知りません」
「記録します」
バルナスは、しばらく外套を見つめていた。
怒りというより、不安に近い表情だった。
「……この外套は、控室に長くあったものですか」
「二か月前から記録があります」
「なら、誰でも取れる」
「はい」
カレルは短く答えた。
「誰でも取れる状態でした」
バルナスは黙った。
その沈黙は、今までのものと少し違った。
自分が疑われる怒りではなく、自分の席が誰かに作られた可能性への恐れ。
少なくとも、クラリスにはそう見えた。
「バルナス主任」
クラリスは静かに尋ねた。
「当日の朝、あなたの私物外套はどこにありましたか」
彼は少し考えた。
「……自宅です」
「財務院には着てきていない?」
「その日は暖かかったので」
「では、席に外套があったなら、それはあなたの私物ではなかった」
「そうなります」
初めて、証言が大きく動いた。
クラリスはすぐに記録する。
バルナス証言:当日、私物外套は自宅。財務院には着用していない可能性。席に外套があったなら本人私物ではない。
カレルの目が少し鋭くなる。
「それをなぜ昨日言わなかったのですか」
「聞かれなかった」
「外套の話はしました」
「自分の外套だと思われているとは……」
バルナスは言葉を切った。
クラリスは、その続きを待った。
「……正直、そこまで覚えていなかった」
「今は思い出した」
「はい」
「きっかけは?」
「その外套を見て。私のものではないと分かったので」
便利にも聞こえる。
だが、人の記憶とはそういうものでもある。
現物を見て思い出すことはある。
問題は、それをどう扱うかだ。
クラリスは言った。
「証言変化として記録します。ただし、現物提示による記憶喚起として扱います」
バルナスは、疲れたように頷いた。
「そうしてください」
その夜、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
財務院未確認外套および席在席推定再確認報告
主な内容。
一、財務院控室の未確認外套棚に、バルナス主任の私物に似た灰色外套あり。
二、同外套は二か月前から「灰外套 古 右裾傷 持主不明」として簡易記録。
三、茶配り係ルシア、部署書記セドリックは、当日席にあった外套が当該未確認外套に似ていると証言。ただし断言不可。
四、仕立て場確認では、旧礼拝堂跡布片と同外套右裾裏当て布は同種・同程度の古び方の可能性。ただし一致断定不可。
五、バルナス主任は、当日の私物外套は自宅にあった可能性を証言。席にあった外套は本人私物ではない可能性。
六、証言変化あり。ただし現物提示による記憶喚起として扱う。
七、本人の物ではなく、本人らしい物で席在席推定が成立していた可能性。
八、未確認外套棚の管理不備が本人所在確認の誤認につながった可能性。
クラリスは最後に一文を書いた。
本人の外套ではなく、本人らしい外套が、人の代わりに席へ置かれていた可能性がある。
ミレーヌは、自分の札に書いた。
本人らしさは、本人ではない。
イリスがそれを見て、静かに頷いた。
「これは大きい札ですね」
「はい」
クラリスは答えた。
「大きすぎるくらいです」
国際案件の箱に、新しい報告書が入った。
バルナス主任の朝は、さらに割れた。
出勤扱いは、本人の目視ではなかった。
席にあった外套は、彼の私物ではなかった可能性が出た。
だが、その外套は彼らしかった。
だから、若い書記は出勤扱いにした。
茶配り係も、少し変だと思いながら、急いでいたのだろうと流した。
外套は人ではない。
まして、本人らしい外套は本人ではない。
誰かが席を作った。
その可能性が、初めてはっきり形を持ち始めていた。




