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第110話 バルナス主任の朝は、二つに割れていた

人の一日は、本人にとっては一本の道だ。


 起きて、服を着て、扉を開け、どこかへ向かう。


 迷っても、戻っても、寄り道をしても、体は一つしかない。


 だから、本来なら同じ朝に、二つの場所へ同時にいることはできない。


 けれど、書類の上では違う。


 ある紙では、財務院にいたことになる。

 別の紙では、南へ向かったように見える。

 さらに別の証言では、病欠の部下から話を聞いたことになる。


 紙が嘘をつくのではない。


 紙に書かれた時刻が、ずれている。


 紙に残った言葉が、足りない。


 紙を出した人間が、都合のいいところだけを切り取っている。


 クラリスは、王宮筆頭実務顧問室の机に並べられた資料を前に、ゆっくり息を吐いた。


「今日は、時刻を見ます」


 オスカーが頷いた。


「バルナス主任の当日の足取りですね」


「はい。ハーゲン補助官の病欠連絡票が出た朝です」


 机の上には、いくつもの紙が並んでいる。


 財務院の出勤控え。

 病欠連絡票。

 勤怠係ネーラの受領控え。

 旧帳簿保管室の閲覧記録。

 茶配り係の巡回控え。

 財務院南口の門番控え。

 辻馬車料金控え。

 旧礼拝堂跡の現地確認報告。


 そして、バルナス主任の前回証言。


 ハーゲン補助官から三日前の朝、財務院の廊下で体調不良を聞いた。


 その一文が、机の中央に置かれていた。


 ミレーヌは、その文をじっと見ている。


「朝、という言葉が広すぎますね」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「朝一番なのか。始業前なのか。始業後なのか。昼前なのか。人によって違います」


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「朝は、都合よく伸び縮みいたします」


「今日はその朝を切ります」


 クラリスが言うと、オスカーがすぐに表を作り始めた。


 バルナス主任 当日足取り時系列表


 一列目は時刻。


 二列目は記録。


 三列目は証言。


 四列目は不一致。


 ミレーヌが小さく呟く。


「時刻表みたいです」


「時刻表です」


 クラリスは答えた。


「ただし、人を運ぶ馬車ではなく、言葉のずれを追うための時刻表です」


 最初に確認したのは、財務院の出勤控えだった。


 財務院では、上級官吏と主任級は毎朝、自署ではなく部署印で出勤確認されることが多い。


 本人が一人ずつ署名するわけではない。


 部署付きの書記が、出勤した者をまとめて記録する。


 便利な制度だ。


 そして、便利だからこそ穴がある。


「バルナス主任は、当日、第一鐘前に出勤扱いになっています」


 オスカーが読み上げる。


「記入者は?」


「部署書記セドリック」


「本人確認?」


「部署内確認、とだけ」


 エリオットが苦い顔で言った。


「財務院では珍しくありません。席に外套や書類があれば、出勤扱いにされることもあります」


「人ではなく、席を見る」


 ミレーヌが言った。


 クラリスは頷いた。


「記録しましょう」


 オスカーが書く。


 出勤控え:本人目視ではなく、席・部署内状況による出勤扱いの可能性。


 次に、勤怠係ネーラの受領控え。


 ハーゲン補助官の病欠連絡票を受け取った時刻は、第二鐘後。


 つまり、始業後しばらく経ってからだった。


「バルナス主任は前回、“三日前の朝にハーゲンから聞いた”と言いました」


 クラリスは言った。


「病欠連絡票を出したのは第二鐘後」


「その間に何をしていたか、ですね」


 ミレーヌが言う。


「はい」


 ここで、茶配り係の巡回控えが役に立った。


 財務院では、朝の第一鐘後、各部署へ茶が配られる。


 茶配り係は、どの部屋に何人いたかを簡単に記録する。


 茶葉の消費量を確認するためだ。


 クラリスはその控えを見て、少しだけ目を細めた。


「港湾記録整理室。第一鐘後、在室者三名。バルナス主任、不在」


 オスカーが読み上げた。


 エリオットが顔を上げる。


「不在?」


「はい。茶配り係ルシアの控えでは、不在になっています」


「出勤控えでは第一鐘前に出勤扱い」


「でも、第一鐘後の茶配り時には不在」


 ミレーヌが記録する。


 出勤扱いと在室記録が不一致。


 短い。


 だが、非常に重い。


 さらに、旧帳簿保管室の閲覧記録。


 バルナス主任の名は、当日の朝にはない。


 だが、前日の夕方に旧港湾雑費箱を閲覧している。


 その翌朝、ハーゲンの病欠連絡票が出た。


 そして同じ日、ハーゲンらしき人物は旧礼拝堂前で辻馬車を降りた可能性がある。


 線はつながりそうで、まだつながらない。


「財務院南口の門番控えは?」


 クラリスが尋ねると、オスカーが別紙を出した。


 財務院南口は、職員が王宮外へ出る小さな通用門である。


 正式な来客用ではない。


 だが、南方面へ出るには近い。


 そこに、当日の朝、気になる記録があった。


 第一鐘前後 灰色外套の主任級職員一名 南口より外出。戻り、第二鐘少し前。


 氏名欄は空白。


 門番は、名を確認していない。


 理由欄には、こうある。


 旧書類確認。


 クラリスは、しばらくその文字を見つめた。


「灰色外套」


 ミレーヌが小さく言った。


「主任級職員」


 エリオットが続ける。


「南口より外出」


 オスカーが書く。


 バルナス主任との関連可能性。ただし氏名未確認。


 カレル調査官は、これをすでに確認していた。


 彼は静かに言った。


「南口門番は、バルナス主任だったかと問うと、“そうかもしれないが断言できない”と答えています」


「なぜ確認しなかったのでしょう」


 ミレーヌが尋ねる。


 エリオットが答えた。


「主任級職員は顔を知られているので、通用門では名を聞かないことがあります」


「つまり、顔見知り扱い」


「はい」


 クラリスは記録する。


 顔見知りによる氏名確認省略。


 便利だ。


 そして、危うい。


 次に、辻馬車の料金控え。


 旧礼拝堂前までの乗客一名、小型鞄一つ、紙包み一つ。


 時刻は、南口外出記録の後。


 ただし、その乗客がバルナスか、ハーゲンか、別人かは分からない。


 前回までは、ハーゲンらしき人物として追っていた。


 だが、ここに来て、バルナス主任の外出記録が重なってきた。


 つまり、朝の時系列はこうなる。


 第一鐘前、バルナス主任は出勤扱い。

 第一鐘後、部署には不在。

 第一鐘前後、灰色外套の主任級職員が南口より外出。

 その後、旧礼拝堂前まで辻馬車で向かった人物がいる。

 第二鐘少し前、灰色外套の主任級職員が南口へ戻る。

 第二鐘後、バルナス主任がハーゲンの病欠連絡票を出した可能性。


 ミレーヌは、時系列表を見ながら言った。


「二つの可能性があります」


 クラリスは妹を見た。


「言ってみてください」


「一つ目。バルナス主任が南口から出て、旧礼拝堂へ行き、戻ってきて病欠連絡票を出した」


「はい」


「二つ目。別の灰色外套の主任級職員が南口から出て、バルナス主任は別の場所にいた」


「はい」


「三つ目もあります」


「どうぞ」


「バルナス主任の席だけが出勤扱いになっていて、本人はもっと前から外にいた」


 部屋が静かになった。


 エリオットが、少し驚いたようにミレーヌを見る。


 クラリスはゆっくり頷いた。


「その可能性もあります」


 ミレーヌは少し不安そうに付け足した。


「でも、まだ分かりません」


「はい。だから、三つとも残します」


 オスカーが表に追記する。


 可能性A:バルナス主任本人の南口外出。

 可能性B:別の灰色外套主任級職員。

 可能性C:出勤扱いのみ先行し、本人はそれ以前から外出。


 カレルが短く言った。


「よい整理です」


 ミレーヌは顔を赤くしたが、嬉しそうにはしなかった。


 今は、嬉しがる場面ではないと分かっているのだろう。


 午後、バルナス主任への再確認が行われた。


 場所は財務院内の小会議室。


 王弟府調査官カレルが主導し、クラリスとエリオットが同席する。


 ミレーヌは、今回は顧問室で待つことになった。


 本人への詰めた確認には、まだ重すぎると判断したためだ。


 バルナスは、前回よりも表情が硬かった。


「私の朝の足取りですか」


「はい」


 カレルは時系列表を机に置いた。


「当日、第一鐘後、港湾記録整理室には不在でした」


「席を外していたのでしょう」


「どこへ?」


「記憶が曖昧です」


「南口から外出しましたか」


「していません」


 返答は早かった。


「財務院南口の門番控えに、灰色外套の主任級職員が南口から外出し、第二鐘前に戻った記録があります」


「私とは限りません」


「その通りです。では、あなたではないと断言しますか」


 バルナスは、少し黙った。


 この問いは、これまで何度も出てきた。


 違うと断言するか。


 限らない、という逃げ道を使うか。


「私は、その朝、外出していないと思います」


「思います?」


「記憶では」


「外出していないと断言は?」


 バルナスは、さらに黙った。


「三日前の朝のことです」


 カレルの声は静かだった。


「ハーゲン補助官の病欠連絡票をあなたが出した朝です。重要な朝です」


 バルナスの指が、机の上で少し動いた。


「……短時間、南口近くへ出たかもしれません」


 クラリスは、表情を変えなかった。


 エリオットは目を伏せた。


 カレルが尋ねる。


「南口近く、とは?」


「外には出ていません。門番と話した程度です」


「門番控えには外出と戻りが記録されています」


「門番の勘違いでしょう」


「旧礼拝堂前へ行きましたか」


「行っていません」


 これは、はっきりしていた。


「辻馬車に乗りましたか」


「乗っていません」


「ハーゲン補助官と、その朝会いましたか」


「会いました」


「どこで?」


「財務院廊下です」


「何時頃?」


「第一鐘後だったと思います」


「その時、あなたは部署に不在と茶配り係に記録されています」


「廊下にいたのでしょう」


「どの廊下ですか」


「……覚えていません」


 覚えていない。


 ここへ来て、また便利な言葉が出た。


 クラリスは静かに口を開いた。


「バルナス主任。あなたの証言では、第一鐘後、財務院内のどこかの廊下でハーゲン補助官から体調不良を聞いた。ですが、同じ時間帯に灰色外套の主任級職員が南口から出た記録があります」


「私ではありません」


「では、あなたは誰かを見ましたか」


「いいえ」


「ハーゲン補助官は、その時、何を持っていましたか」


「……覚えていません」


「書類包みは?」


「覚えていません」


「小型鞄は?」


「覚えていません」


「体調不良の本人が、書類包みを持っていたかどうか、覚えていない?」


 バルナスの顔が少し赤くなった。


「その時は、そこまで重要だとは」


「では、なぜ“訪問不要”と書いたのですか」


 クラリスは声を荒げなかった。


 だが、言葉はまっすぐだった。


「本人の状態をそこまで確認していないなら、なぜ訪問不要と判断しましたか」


 バルナスは黙った。


 長い沈黙だった。


 カレルも何も言わない。


 沈黙も記録になる。


 やがて、バルナスは低く答えた。


「……彼が、そう望んでいるように見えたからです」


「本人発言ではない」


「はい」


「あなたの判断」


「はい」


 クラリスは、オスカーがいない代わりに自分で記録した。


 訪問不要は、本人発言ではなく、バルナス主任の印象判断。


 聴取の最後、カレルが確認した。


「旧礼拝堂跡で見つかった灰色外套片、右踵靴跡、旧バルツァー派私的連絡印の封蝋片について、心当たりは?」


「ありません」


「南施療院未着事件について、改めて確認します。関与は?」


「ありません」


「G経由、雑へ、H処理という余白メモについて」


「知りません」


「黒帳面紙束の重文追記について」


「知りません」


 知らないが並ぶ。


 だが、その知らないの周囲には、時刻のずれが生まれていた。


 聴取後、クラリスは顧問室へ戻った。


 ミレーヌがすぐに立ち上がる。


「どうでしたか」


「バルナス主任は、旧礼拝堂へ行ったことを否定しました」


「南口は?」


「最初は否定。後に、南口近くへ出たかもしれない、と変わりました。ただし外出は否定」


 ミレーヌは顔を曇らせた。


「言葉が変わっています」


「はい」


「証言変化ですね」


「そうです」


 ミレーヌは時系列表の余白に書いた。


 外出していない → 南口近くへ出たかもしれない。証言変化。


 クラリスは、それを見て頷いた。


 報告書の表題はすぐ決まった。


 バルナス主任当日足取り時系列確認報告


 主な内容。


 一、出勤控えでは第一鐘前に出勤扱い。ただし本人目視とは限らない。

 二、茶配り係控えでは第一鐘後に港湾記録整理室不在。

 三、財務院南口門番控えに、灰色外套の主任級職員が外出・戻りの記録。氏名未確認。

 四、旧礼拝堂前行き辻馬車記録と時刻上重なる可能性。

 五、バルナス主任は当初南口外出を否定。後に南口近くへ出た可能性を認めるが、外出は否定。

 六、ハーゲン補助官と第一鐘後に財務院内廊下で会ったと証言。ただし場所・所持品について記憶曖昧。

 七、“訪問不要”は本人発言ではなく、バルナス主任の印象判断と再確認。

 八、可能性A・B・Cを残して継続確認。

 九、証言変化あり。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 バルナス主任の朝は、出勤扱い、部署不在、南口外出記録、病欠連絡票の間で二つに割れている。


 イリスがその文を見て言った。


「割れたものは、無理に貼ると歪みますね」


「ええ」


「では、割れ目を見ましょう」


 ミレーヌが自分の札に書いた。


 割れた時刻は、貼らずに見る。


 国際案件の箱に、新しい報告書が入る。


 バルナス主任が旧礼拝堂にいたとは、まだ言えない。


 だが、彼の朝は一本ではなくなった。


 出勤扱いなのに、不在。


 外出していないと言いながら、南口近くへ出たかもしれない。


 ハーゲンと会ったというのに、所持品は覚えていない。


 訪問不要は、本人の言葉ではなかった。


 紙の上で、朝が割れている。


 次に必要なのは、その割れ目に誰が入り込んだのかを見ることだった。

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