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第109話 財務院の廊下は、右踵の音を覚えていた

財務院の廊下は、よく磨かれている。


 王宮の中でも、財務院の床は特に硬い。


 石と木を組み合わせた床板は、足音をよく響かせる。早足の官吏、書類を抱えた書記、帳簿を運ぶ若い補助官。誰が歩いても、音が残る。


 クラリスは、財務院中央棟の廊下に立ちながら、その音を聞いていた。


 こつ、こつ。


 かつ、こつ。


 こつ、かつ。


 人の歩き方には癖がある。


 普段は誰も気にしない。


 だが、気にして聞けば、同じ革靴でも音が違う。


 急いでいる者。

 疲れている者。

 片足をかばう者。

 踵を強くつく者。


 そして、右足の外側がわずかに削れた靴を履く者。


 王弟府調査官カレルは、財務院の柱の陰に控えていた。目立たない位置だが、廊下全体を見渡せる。


 クラリスの隣には、エリオットがいる。


 彼は普段より顔色が悪かった。


 自分の勤める財務院で、上司筋の人間を観察する。


 その負担は軽くない。


「無理はしないでください」


 クラリスが小声で言うと、エリオットは首を横に振った。


「ここまで来て、目を逸らす方が無理です」


 声は疲れている。


 けれど、逃げてはいなかった。


 少し離れて、ミレーヌも立っている。


 彼女は今日は記録板を抱えず、小さな手帳だけを持っていた。


 財務院の廊下で大きな記録板を構えれば、誰の目にも調査と分かってしまうからだ。


 オスカーはさらに後方で、別の書類を確認しているふりをしていた。


 表向きは、財務院との通常協議の待ち時間。


 実際には、バルナス主任の歩き方を見るための待機だった。


「来ます」


 エリオットが低く言った。


 廊下の奥から、数人の官吏が歩いてくる。


 その中に、バルナス主任がいた。


 髪をきっちり撫でつけ、書類を脇に抱え、いつものように背筋を立てている。


 顔は穏やかだった。


 いや、穏やかに見せている。


 彼はクラリスたちに気づくと、軽く会釈した。


「クラリス顧問。財務院へようこそ」


「お仕事中に失礼いたします」


「いえ。何か確認事項でしょうか」


「後ほど、グレゴール参事官との協議がございますので、その前に資料を拝見しておりました」


 嘘ではない。


 実際に協議はある。


 ただし、今の目的のすべてではない。


 バルナスは丁寧に頷き、そのまま廊下を進んだ。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 右足の時だけ、音がほんの少し外へ逃げる。


 床板をまっすぐ打つ音ではない。


 かすかに、擦る。


 こつ、すっ。


 こつ、すっ。


 ミレーヌが小さく息を吸うのが分かった。


 エリオットは目を伏せる。


 聞き慣れている音なのだろう。


 カレルは表情を変えなかった。


 ただ、視線はバルナスの足元から離れていない。


 バルナスが角を曲がり、姿が見えなくなった後、カレルが静かに言った。


「右足外側に癖があります」


「靴音でも?」


 ミレーヌが尋ねる。


「はい。ただし、靴音だけでは証拠になりません」


「はい」


 彼女は小さな手帳に書いた。


 靴音は補助観察。証拠ではない。


 エリオットが苦い声で言った。


「財務院では、あの音でバルナス主任が来たと分かる者もいます」


「誰に確認できますか」


 クラリスが尋ねる。


「古参の書記官なら。特に帳簿保管室のモーリス殿」


「では、後で聞きます」


 カレルは頷いた。


「靴そのものの確認も必要です」


「本人に気づかれずに?」


「難しいですが、方法はあります」


 その方法は、意外に地味だった。


 財務院では、廊下脇の控室に外套掛けと靴拭き場がある。


 雨や泥の多い日は、官吏たちはそこで靴底を拭いてから執務室に入る。


 今日は雨ではない。


 だが、旧帳簿保管室へ入る者は、埃を持ち込まないために靴底を軽く払う習慣があった。


 バルナス主任は、まさにその旧帳簿保管室へ入っていた。


 カレルは、保管室の前に置かれた靴拭き布と床の擦れ跡を確認した。


 直接靴を取るわけではない。


 靴拭き布に残った跡を見るだけだ。


 それでも、ミレーヌには十分奇妙に見えたようだった。


「靴を見なくても、布に残るのですね」


「残ることがあります」


 カレルは答えた。


「ただし、これも補助です」


「補助観察」


「はい」


 靴拭き布の右側には、少し強い灰色の擦れが残っていた。


 右足外側を引くように拭いた跡。


 旧礼拝堂跡の右踵の偏りと、方向としては似ている。


 だが、似ているだけだ。


 クラリスは、すぐに言った。


「一致とは書かないでください」


 ミレーヌが頷く。


「右足外側の擦れ傾向あり。旧礼拝堂跡の靴跡との関連可能性。断定不可」


「よいです」


 カレルは靴拭き布そのものを保全しなかった。


 財務院内の通常備品であり、多数の者が使っているからだ。


 かわりに、状態を写し取り、位置と時刻を記録した。


 証拠にできるものと、補助観察に留めるものを分ける。


 この事件で何度も繰り返してきた作業だった。


 その後、クラリスたちは帳簿保管室へ向かった。


 老書記官モーリスは、相変わらず静かに帳簿を整理していた。


 彼はクラリスたちを見ると、少しだけ眉を上げた。


「今日は何の箱をお探しで?」


「今日は箱ではありません」


 クラリスは答えた。


「音です」


「音」


 モーリスは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。


「なるほど。財務院の廊下は、口が堅いようでいて、足音にはよく喋ります」


「バルナス主任の歩き方に特徴はありますか」


 カレルが尋ねると、モーリスはすぐには答えなかった。


 しばらく帳簿棚を見つめ、それから静かに言う。


「右足を少し外へ逃がす。踵が片減りしやすい歩き方です」


 エリオットが目を伏せた。


 やはり、財務院内では知られていたのだ。


「いつ頃から?」


「少なくとも五年以上前から。昔、南倉庫で荷札箱につまずいて足を痛めたとかで」


「南倉庫」


 クラリスが反応すると、モーリスは苦笑した。


「何でも南が出てきますな」


「その南倉庫は、南施療院とは関係ありますか」


「直接はありません。財務院の古い物品倉庫です。ただ、旧バルツァー派の時代、港湾雑費の古い箱が一時置かれていた場所ではあります」


 また、線が細く伸びた。


 南倉庫。


 旧バルツァー派。


 港湾雑費の古い箱。


 バルナスの足の怪我。


 もちろん、足を痛めた場所が怪しいという話ではない。


 だが、彼が旧港湾雑費の周辺に長くいたことは、また一つ確認された。


「バルナス主任の外套について、何か覚えはありますか」


 クラリスが尋ねる。


「外套?」


「灰色の古い外套です。右裾裏に擦れが出やすいもの」


 モーリスは少し考えた。


「着ていますな。寒い時期に。表地はまだ持つが、裾裏が傷んで何度か直していたはずです」


「どこで直していましたか」


「財務院付きの仕立て係ではなく、外の小さな仕立て直し屋だったと思います。節約家なので」


「仕立て直し屋の名は?」


「そこまでは」


 モーリスは首を振った。


「ただ、灰色の外套なら見れば分かります。古いが、手入れはされている」


 ミレーヌは慎重に記録した。


 モーリス証言:バルナス主任は右足外側へ逃がす歩行癖あり。灰色の古い外套を着用。裾裏修繕歴あり。ただし旧礼拝堂布片との一致未確認。


 クラリスは、その記録を確認しながら思った。


 線は増えている。


 しかし、まだ決定的ではない。


 右足の癖。

 灰色外套。

 旧バルツァー派の私的連絡印。

 ハーゲンの病欠連絡票。

 南方面。


 バルナス主任の周囲に、いくつもの可能性が集まり始めている。


 だが、可能性はまだ輪だ。


 輪があるだけで、その中心に本人がいるとは限らない。


 午後、王弟府は正式にバルナス主任の外套確認を求めた。


 理由は、旧礼拝堂跡で見つかった布片との照合。


 バルナスは、明らかに不快そうだった。


「私の外套を?」


「はい」


 カレルは淡々と答えた。


「旧礼拝堂跡で見つかった布片と照合します」


「礼拝堂など、私は行っておりません」


「では、確認でそれが明らかになります」


 バルナスは口を閉じた。


 彼は一度クラリスを見た。


 責めているのか、助けを求めているのか、分からない目だった。


 クラリスは何も言わなかった。


 ここで口を挟めば、調査の線が乱れる。


 外套は、財務院の控室から出された。


 灰色。


 古いが、手入れされている。


 右裾裏には、たしかに修繕の跡があった。


 だが、そこには新しい当て布もあり、旧礼拝堂跡で見つかった布片とすぐに合うわけではない。


 カレルが布片の写しと照合する。


 その場で断定はしなかった。


「文書課と仕立て場で確認します」


 バルナスが低く言った。


「まるで私が何か隠したような扱いですね」


「隠したかどうかを確認しています」


 カレルは答えた。


「まだ決めていません」


「靴音まで聞かれていると聞きました」


 その言葉に、クラリスは少しだけ眉を動かした。


 誰かが伝えたのだろう。


 調査は完全には隠せない。


 バルナスの視線が、クラリスへ向く。


「顧問殿。足の癖まで罪になりますか」


「なりません」


 クラリスは即答した。


「外套も、靴音も、それ自体は罪ではありません」


「では、なぜ」


「旧礼拝堂跡に残った痕跡と照合するためです」


「私は行っていません」


「その発言も記録します」


 バルナスは、苦く笑った。


「何でも記録ですな」


「記録しなければ、誰かが勝手に意味を変えます」


 クラリスの声は静かだった。


 バルナスの笑みが消えた。


 少しの間、廊下の向こうから紙を運ぶ音だけが聞こえた。


「……それは、そうでしょうな」


 バルナスは低く言った。


 その声には、疲れが混じっていた。


 罪悪感か。


 苛立ちか。


 ただの疲労か。


 まだ分からない。


 夕方、仕立て場から仮回答が来た。


 旧礼拝堂跡の布片と、バルナスの外套右裾裏の当て布は、同種の布である可能性がある。


 ただし、同じ布から切られたとまでは言えない。


 修繕時期も不明。


 さらに確認が必要。


 ニナの補足が添えられていた。


 布の古び方は似ています。でも、似ている古い布はたくさんあります。急いで決めない方がいいです。


 クラリスはその一文を読み、少しだけ微笑んだ。


 ニナらしい。


 そして、とても正しい。


 ミレーヌも頷いた。


「急いで決めない方がいい」


「はい」


「針子さんも、断定しないのですね」


「よい針子だからです」


 報告書がまとめられた。


 表題。


 財務院内歩行癖およびバルナス主任外套確認報告


 主な内容。


 一、バルナス主任に右足外側へ逃がす歩行癖あり。財務院内複数証言。

 二、靴音・靴拭き布の擦れは旧礼拝堂跡の右踵靴跡と方向性が類似。ただし補助観察。

 三、バルナス主任は灰色の古い外套を所有。右裾裏に修繕跡あり。

 四、旧礼拝堂跡の布片と同種の可能性。ただし一致断定不可。

 五、バルナス主任は旧礼拝堂跡訪問を否定。

 六、足癖・外套・靴音はそれ自体罪ではなく、旧礼拝堂跡痕跡との照合材料として扱う。

 七、財務院内証言により、バルナス主任は旧港湾雑費箱周辺の運用に長く関わっていた可能性。

 八、さらなる照合と本人所在時刻確認が必要。


 クラリスは最後に一文を加えた。


 靴音は罪ではない。だが、同じ癖が別の場所にも残るなら、確認しなければならない。


 ミレーヌは、自分の札に書いた。


 癖は責めるためではなく、場所をつなぐために見る。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「今日は足音がよく働きましたね」


「はい」


「でも、まだ歩いた本人とは限らない」


「その通りです」


 国際案件の箱に報告書を入れる。


 バルナス主任は、まだ旧礼拝堂にいたとは言えない。


 だが、財務院の廊下は、彼の右踵の音を覚えていた。


 旧礼拝堂跡の土も、似た癖を残していた。


 そして、彼の灰色の外套は、司祭館跡の布片に少し近づいた。


 まだ線は細い。


 けれど、もう無関係とは言いにくくなっている。


 次に必要なのは、当日の時刻だ。


 バルナス主任が、ハーゲンの病欠連絡票を書いた朝、どこにいたのか。


 その一日の足取りを追う番だった。

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