第108話 旧礼拝堂で待っていたのは、祈る人ではなかった
旧礼拝堂跡は、地図の上では小さな印にすぎなかった。
南門の外。
南外れ工房街へ向かう道の途中。
今は使われていない礼拝堂。
隣には、崩れかけた司祭館跡。
ただそれだけの場所。
けれど、黒帳面紙束の足跡を追ううちに、その小さな印が急に重くなった。
ハーゲンらしき人物が辻馬車を降りたかもしれない場所。
紙紐と濃紺繊維が残っていた場所。
旧バルツァー派の私的連絡印らしき封蝋片が見つかった場所。
財務院系の赤鉛筆の欠片が落ちていた場所。
そして、古井戸の縁に紙灰が残っていた場所。
クラリスは王弟府の報告書を見ながら、静かに言った。
「ここは、ただの通過点ではありませんね」
レオンハルトが頷いた。
「ああ。誰かが待っていた可能性がある」
王弟府の小会議室には、旧礼拝堂跡の簡易図が広げられていた。
出席しているのは、レオンハルト、カレル調査官、クラリス、オスカー、ミレーヌ、エリオット。
今日はヘレナ修復記録官はいない。
紙の読解ではなく、場所の確認だからだ。
だが、机の上には昨日保全された紙灰の写しと、封蝋片の拡大写しが置かれている。
ミレーヌは、地図をじっと見ていた。
「旧礼拝堂で待っていた人は、祈りに来たわけではないのですよね」
「おそらく」
クラリスは答えた。
「でも、礼拝堂という名前があると、何となく人がいても不自然ではない気がします」
「よい視点です」
クラリスは頷いた。
「場所の名前が、行動を隠すことがあります」
オスカーがすぐに記録した。
場所名による行動の目隠し:礼拝堂、倉庫、臨時棚、王宮指定先など、場所名が自然に見えることで、実際の行動内容が見えにくくなる状態。
ミレーヌは、少しだけ顔を赤くした。
だが、もう慌てて否定はしない。
自分の言葉が記録になることに、少しずつ慣れてきている。
カレルが報告を続けた。
「旧礼拝堂跡の床に、複数の足跡がありました」
「足跡」
レオンハルトが地図を見る。
「雨の後でしたので、完全ではありません。ただ、司祭館跡の入口付近に二種類の靴跡があります」
カレルは写しを置いた。
一つは、細い靴底。
王都の官吏がよく履く、軽い革靴に近い。
もう一つは、やや幅広く、踵の片側が欠けている。
ミレーヌが覗き込み、首を傾げた。
「片方だけ、踵が変ですね」
「右足の外側が減っています」
カレルが言う。
「歩き方の癖か、靴そのものの傷です」
「ハーゲン補助官の靴は?」
「下宿に残っていた靴と比べると、細い靴底の方に近い。ただし、彼が当日履いていた靴が同じかは不明」
「もう一つは?」
「未確認です」
クラリスは写しを見た。
官吏風の靴跡。
右踵が欠けた靴跡。
つまり、旧礼拝堂跡には少なくとも二人いた可能性がある。
ハーゲンらしき人物が一人で紙を処理したのではないかもしれない。
「待っていた人物がいる」
クラリスが言うと、カレルは頷いた。
「その可能性があります」
エリオットが低く言った。
「右踵が欠けた靴……財務院で確認できますか」
「確認中です」
カレルは答えた。
「ただし、靴は替えられます。決定的ではありません」
「はい」
ミレーヌが自分の紙に書いた。
靴跡は足跡。でも本人ではない。
クラリスは小さく頷いた。
よい。
外套と同じだ。
靴跡は重要だが、本人そのものではない。
それを忘れてはいけない。
さらに、司祭館跡の窓枠から、古い布切れが見つかった。
灰色の外套の端切れに近い。
王都の官吏が使う上質な布ではない。
港湾や倉庫の者が着るものとも少し違う。
エリオットがそれを見て眉を寄せた。
「財務院の外套ではありません」
「王弟府でもない」
レオンハルトが言う。
「商会のものか?」
「リーヴェ商会の外套布より粗いです」
クラリスは言った。
「ただ、古い布です。判定には仕立て場の目が必要ですね」
ミレーヌがすぐに反応した。
「ニナさんに見てもらいますか」
「はい。エヴァレット夫人にも」
ミレーヌは少しだけ表情を引き締めた。
仕立て場の手が、また必要になる。
帳簿では分からないことを、布を見る手が教えてくれる。
カレルは次に、近くの住人から取った聞き取りを読み上げた。
旧礼拝堂跡の近くには、古い香草畑を管理する老人が住んでいる。
老人は、朝早くに礼拝堂跡の方から話し声を聞いたという。
声は二つ。
一つは、細く早口。
もう一つは、低く短い。
内容までは聞き取れない。
ただ、低い声の男が一度だけ強く言った。
「表へ戻すな」
クラリスは、その言葉を聞いて目を伏せた。
表へ戻すな。
何を?
書類を。
黒帳面を。
南施療院の件を。
C-3の正規保温布を。
まだ分からない。
だが、方向は分かる。
表に出さないための言葉だ。
「老人の証言は確かですか」
オスカーが尋ねる。
カレルは首を振った。
「耳が遠く、距離もあります。証言としては弱いです。ただし、朝に二人いた可能性とは合います」
ミレーヌは書いた。
老人証言:表へ戻すな。弱証言。二人の存在可能性と合う。
クラリスは、その「弱証言」という言葉に少し驚いた。
けれど、間違っていない。
強い証拠ではない。
しかし、消してはいけない。
弱い証言は、弱いものとして残す。
その扱い方を、ミレーヌは身につけ始めていた。
午後には、仕立て場からエヴァレット夫人とニナが呼ばれた。
灰色の布切れを確認するためだった。
ニナは布を見るなり、眉を寄せた。
「これ、古い外套の裏当てじゃないですか」
「裏当て?」
ミレーヌが尋ねる。
「表地じゃありません。外から見える布じゃなくて、内側に使う布です。安物ではないけど、表にするほどじゃない」
エヴァレット夫人も頷いた。
「王宮官吏の正式外套には使いません。ですが、古い私用外套を仕立て直した時の裏当てとしてならあり得ます」
「商会関係者?」
クラリスが尋ねる。
「中級商人、古い官吏、あるいは退職した役人。新品ではなく、長く着た外套でしょう」
ニナが布の端を見て言った。
「しかも、右側の裾裏です。擦れ方が偏っています。右足を引きずるか、右踵が減った靴の人かも」
部屋が静かになった。
右踵が欠けた靴跡。
右裾裏の擦れた外套。
線が一本、細くつながった。
クラリスは慎重に言った。
「つまり、右踵に癖のある人物が、灰色外套を着ていた可能性」
「可能性です」
エヴァレット夫人が即座に言った。
「布だけでは本人は分かりません」
「はい」
ミレーヌが記録する。
灰色布切れ:古い外套の右裾裏当ての可能性。右側擦れ。右踵靴跡との関連可能性。ただし本人特定不可。
ニナは少しだけ悔しそうな顔をした。
「でも、これを着てた人は、歩き方に癖があると思います」
「それも記録します」
ミレーヌが言うと、ニナは少し驚いた。
「私の感覚でも?」
「はい。針子証言として」
ニナは、少しだけ背筋を伸ばした。
クラリスは、その様子を見て胸の中で頷いた。
現場の手が、また声になっている。
夕方、財務院からエリオットが追加資料を持ってきた。
「右踵が減った靴の件ですが」
彼の声は硬い。
「バルナス主任に、その特徴があります」
部屋の空気が止まった。
クラリスは、すぐには答えなかった。
エリオットは続けた。
「以前から、右足を少し外へ流して歩く癖があります。財務院の廊下でも、靴音で分かる職員がいます」
「靴を確認しましたか」
「まだです。本人に気づかれない形では難しい」
レオンハルトが低く言う。
「王弟府で確認する」
「お願いします」
クラリスは、急がないよう自分に言い聞かせた。
バルナス主任。
ハーゲンの病欠連絡票を書いた可能性が高い人物。
旧財務院の処理をよく知る人物。
そして、右踵に癖がある可能性。
だが、まだ可能性だ。
旧礼拝堂の右踵跡がバルナスのものとは言えない。
灰色外套の布切れが彼のものとも言えない。
だが、確認対象にはなった。
ミレーヌは、苦しそうな顔で書いていた。
バルナス主任に右足歩行癖の可能性。旧礼拝堂跡右踵靴跡との関連確認要。断定不可。
その「断定不可」の字が、少し強かった。
彼女自身が、自分に言い聞かせているようだった。
クラリスは、そっと言った。
「よい記録です」
ミレーヌは小さく頷いた。
その夜、報告書がまとめられた。
表題。
旧礼拝堂跡待機者痕跡確認報告
主な内容。
一、旧礼拝堂跡・司祭館跡に二種類の靴跡を確認。
二、一つは官吏風革靴に近く、ハーゲンの可能性あり。ただし未確定。
三、もう一つは右踵外側に欠けまたは偏りのある靴跡。
四、灰色外套の右裾裏当て布片を確認。仕立て場証言では、右側擦れと右踵癖の関連可能性。
五、近隣老人が朝方に二つの声を聞き、「表へ戻すな」と聞こえたと証言。ただし弱証言。
六、財務院バルナス主任に右足歩行癖の可能性。王弟府で確認予定。
七、旧礼拝堂跡にはハーゲン以外の待機者がいた可能性あり。
八、待機者は紙の分配・処分に関与した可能性がある。
クラリスは、最後に一文を書いた。
旧礼拝堂で待っていたのは、祈る人ではなく、紙を表へ戻さないための人だった可能性がある。
少し迷った。
だが、可能性と明記した上で残した。
ミレーヌは自分の札に書いた。
場所の名前に、行動を隠させない。
イリスがそれを見て、静かに頷いた。
「今日の札ですね」
「はい」
クラリスは国際案件の箱を開いた。
旧礼拝堂跡の報告書を入れる。
箱の中には、南門、古紙商、黒帳面紙束、ハーゲン病欠、財務院余白メモの記録が重なっている。
また一枚、そこへ重なる。
旧礼拝堂で待っていたのは、祈る人ではなかった。
おそらく、紙を待っていた人。
そして、紙を表へ戻さないための人。
その人物の右踵は、地面に小さな癖を残していた。
次は、その靴音を財務院の廊下で確かめる番だった。




