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第107話 辻馬車は、南外れまで行っていなかった

 ハーゲン補助官は、南へ向かった可能性がある。


 その言葉は、まだ弱い。


 下宿の管理人が見たのは、ハーゲンが小型鞄と書類包みを持って、南行きの辻馬車乗り場へ向かった姿だった。


 乗ったところを見たわけではない。


 どの馬車に乗ったかを見たわけでもない。


 行き先を聞いたわけでもない。


 だから、報告書にはこう書かれている。


 南方面へ向かった可能性。


 可能性。


 その言葉は便利だが、逃げ道にもなる。


 可能性だけでは、人は見つからない。


 可能性を足跡に変えるには、次の記録が必要だった。


 王宮筆頭実務顧問室では、南行き辻馬車の料金控えが机に広げられていた。


 辻馬車は、貴族が乗るような正式馬車とは違う。


 乗客の名をいちいち書かないことも多い。


 だが、行き先と料金だけは残ることがある。


 御者があとで精算するためだ。


 どこまで運んだか。

 いくら受け取ったか。

 何人乗せたか。

 荷物があったか。


 人の名前は薄くても、金の記録は残る。


 クラリスはその紙を見つめながら、静かに言った。


「名前がなくても、料金は残るのですね」


 オスカーが頷く。


「財務院的には、非常に自然です」


「少し皮肉ですね」


「否定できません」


 ミレーヌは、辻馬車の料金表を見ていた。


 王都南門まで、銅貨三枚。

 南外れ工房街まで、銅貨六枚。

 旧礼拝堂前まで、銅貨五枚。

 南丘墓地道まで、銅貨七枚。


「旧礼拝堂前?」


 彼女が首を傾げた。


「そのような場所があるのですか」


 エリオットが地図を広げた。


「南門の少し外です。今は使われていない小さな礼拝堂跡があります。周囲に古い倉庫や納屋がいくつか残っていて、雨宿りや荷置きに使われることがあります」


「人目は?」


「南外れ工房街より少ないです」


 その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


 ハーゲンが本当に書類包みを持って南へ向かったなら、目的地は古紙商とは限らない。


 むしろ、人目の少ない場所で誰かと会う可能性もある。


 イリスが茶を置きながら、ぽつりと言った。


「行き先は、終点とは限りませんね」


 クラリスは、その言葉に目を上げた。


「ええ」


「南へ向かう、と聞くと南外れまで行った気になりますが、途中で降りることもございます」


「大事ですね」


 オスカーがすぐに記録する。


 南方面=南外れ到着とは限らない。途中下車地点を確認する必要あり。


 ミレーヌも、自分の札に書いた。


 向かった先と、着いた先は違う。


 その日の午前、王弟府からカレル調査官が来た。


 彼の手には、南行き辻馬車の料金控えの写しがある。


「ハーゲン補助官が下宿を出た時間帯に、該当する可能性のある辻馬車が三台ありました」


 クラリスは席を勧めた。


 出席者は、クラリス、オスカー、ミレーヌ、エリオット、カレル。


 レオンハルトは別件で王弟府内にいるが、必要ならすぐ来られるという。


「一台目。南門まで。乗客二名。荷物なし」


「可能性は低いですね」


「はい。二台目。南外れ工房街まで。乗客一名。大きな袋一つ」


「書類包みではない」


「御者の記憶では、袋は野菜籠に近かったと」


「三台目は?」


 カレルは、三枚目の控えを出した。


「旧礼拝堂前まで。乗客一名。小型鞄一つ、紙包み一つ」


 部屋が静かになる。


 小型鞄。


 紙包み。


 下宿管理人の証言と合う。


「乗客名は?」


「なし」


「特徴は?」


「御者は“財務院の書記風の男”と覚えています」


 エリオットが小さく息を吸った。


「財務院の書記風」


「はい。上着の色、革鞄、紙包みの持ち方からそう思ったと」


「顔は?」


「よく覚えていないそうです。帽子を深くかぶっていた」


「左目の傷は?」


「なし。少なくとも御者は覚えていません」


 クラリスは頷いた。


 左目の傷の男とは別だ。


 ハーゲンらしき男は、旧礼拝堂前で降りた可能性がある。


「旧礼拝堂前で降りた後は?」


「御者は見ていません。すぐ引き返しています」


「料金は?」


「銅貨五枚。料金表通りです」


 ミレーヌが、ふと顔を上げた。


「余分な支払いはありませんか」


 カレルが彼女を見る。


「なぜそう思いましたか」


「急いでいたり、見られたくなかったりするなら、黙っていてほしいという意味で多めに払うかもしれないと思いました」


 カレルは、少しだけ頷いた。


「よい視点です。ただし、この控えでは料金表通りです」


「では、御者にとっては普通の客だった」


「そう見えます」


 クラリスはミレーヌの問いを書き留めた。


 通常料金か追加支払いか。証言圧力・口止め可能性の確認項目。今回控えは通常料金。


 ミレーヌは、少しだけ照れたが、すぐ真剣な顔に戻った。


「旧礼拝堂前には、何がありますか」


 カレルは地図を広げた。


 古い礼拝堂跡。


 その隣に、使われなくなった司祭館。


 少し離れて、古紙商の裏道へ続く細い道。


 さらに南へ行くと、古布再生屋と南外れ工房街。


 別方向には、南丘墓地道。


「旧礼拝堂前で降りれば、古紙商へも行けますし、人目の少ない司祭館跡にも入れます」


 エリオットが言った。


「書類包みを誰かへ渡すには、都合がよさそうですね」


 カレルは頷く。


「王弟府の者が現地確認に向かっています」


 クラリスは、地図上の旧礼拝堂を見た。


 礼拝堂。


 祈る場所だったはずの建物が、今は荷の受け渡しや隠れ場所に使われているかもしれない。


 妙に重い皮肉だった。


 午後、第一報が戻った。


 旧礼拝堂跡には、人がいた痕跡があった。


 最近使われた蝋燭の残り。


 足跡。


 紙紐の切れ端。


 そして、司祭館跡の壊れた棚の下から、小さな封蝋片が見つかった。


 封蝋は、財務院のものではない。


 リーヴェ商会のものでもない。


 古い紋章。


 半分欠けているが、見覚えのある模様だった。


 カレルは、封蝋片の写しを机に置いた。


 エリオットの顔が強張る。


「これは……旧バルツァー派が使っていた私的な連絡印に似ています」


 部屋の空気が変わった。


「私的な連絡印?」


 クラリスが尋ねる。


「公式印ではありません。バルツァー財務卿の側近たちが、非公式な連絡封筒に使っていたものです。直接の署名を残さず、誰の系統の連絡かを示すために」


「正式な印ではない」


「はい」


「しかし、関係者には通じる」


「そうです」


 ミレーヌが小さく言った。


「また、名義ですね」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「今回は印の名義です」


 オスカーが記録する。


 私的連絡印:公式印ではないが、特定派閥・関係者間で連絡系統を示す印。正式責任を残さず、連絡の信用だけを伝える役割。


 カレルは続けた。


「司祭館跡からは、紙そのものは見つかっていません。ただし、紙紐の切れ端に濃紺の繊維が付着しています」


「黒帳面紙束の包み布と同じ?」


「比較中です」


「書類包みは、そこで開かれた可能性がありますね」


「あります」


 クラリスは、地図を見た。


 ハーゲンらしき男が旧礼拝堂前で降りる。


 司祭館跡へ向かう。


 そこで書類包みを開く、あるいは誰かに渡す。


 旧バルツァー派の私的連絡印が残る。


 そこから黒帳面紙束の一部は古紙商へ向かったのか。


 あるいは別の書類がここで分けられたのか。


 まだ分からない。


「ハーゲン本人の痕跡は?」


 エリオットが尋ねる。


「直接のものはまだありません」


 カレルは答えた。


「ただ、司祭館跡の棚裏に、財務院で使う赤鉛筆の欠片がありました」


「赤鉛筆」


「財務院では、差し戻しや確認中の印に使うものです」


 クラリスは、その言葉に引っかかった。


 赤鉛筆。


 ハーゲン担当箱の余白メモにも、赤鉛筆で小さな線が引かれていたものがあった。


「比較できますか」


「王弟府で保全しています。財務院の備品と照合します」


 エリオットが頷いた。


「財務院の赤鉛筆は、部署ごとに芯の色味が少し違います。完全な証拠にはなりませんが、参考にはなります」


 ミレーヌが、少し驚いた顔をした。


「赤鉛筆にも種類があるのですね」


「あります」


 エリオットは苦笑に近い顔で答えた。


「財務院は、そういうところだけ妙に細かいのです」


「大事です」


 クラリスは言った。


「今は、その細かさに助けられます」


 エリオットは、少しだけ目を伏せた。


「はい」


 夕方、現地確認の第二報が入った。


 旧礼拝堂跡近くの古井戸の縁に、紙灰があった。


 燃やされた紙の残りだ。


 ただし、雨で大部分は崩れている。


 王弟府は、残った灰と小さな紙片を保全した。


 読める文字はごく一部。


 ……南……閉……

 ……G……雑……

 ……ハー……


 ミレーヌは、報告を聞いて顔を白くした。


「燃やされたのですか」


「一部は」


 カレルは答えた。


「ただし、黒帳面紙束とは別の書類の可能性もあります」


「ハー……は、ハーゲン?」


「可能性です」


 クラリスはすぐに言った。


「ハーゲンか、ハンスか、別の言葉かもしれません」


「はい」


 ミレーヌは、震えながらも頷いた。


「ハーで決めない」


「そうです」


 彼女は自分の紙に書いた。


 途中の文字は、途中のまま扱う。


 ヘレナがいれば褒めたかもしれない。


 クラリスは代わりに小さく頷いた。


「よいです」


 この時点で、旧礼拝堂跡は重要地点になった。


 ただし、黒帳面紙束が古紙商で見つかった以上、すべての書類がここで燃やされたわけではない。


 むしろ、分けられた可能性がある。


 読ませたくない紙は燃やす。

 処分しやすい紙束は古紙へ回す。

 誰かに渡すべきものは別の場所へ。


 そういう分配が行われた可能性。


 クラリスは白紙に見出しを書いた。


 旧礼拝堂跡 書類分配地点の可能性


 一、ハーゲンらしき人物が旧礼拝堂前で下車した可能性。

 二、司祭館跡に紙紐、濃紺繊維、旧バルツァー派私的連絡印の封蝋片。

 三、財務院系赤鉛筆の欠片。

 四、古井戸付近に焼却紙灰。

 五、紙灰に南、G、雑、ハー等の部分文字。

 六、古紙商で保全された黒帳面紙束とは別に、一部書類が燃やされた可能性。

 七、旧礼拝堂跡が書類の受け渡し・分配・処分地点として使われた可能性。


 オスカーが清書しながら言った。


「分配地点、ですか」


「はい。単なる隠れ場所ではなく、紙の行き先を分けた場所かもしれません」


 ミレーヌが地図を見ながら言った。


「だから、南外れまで行っていないのですね」


「はい」


「旧礼拝堂で、書類だけが別々の道へ行った」


「可能性です」


「でも、南外れへ行ったと思い込んでいたら、見落としていました」


「そうです」


 イリスが、そっと札を置いた。


 終点と思った場所の手前を見る


 クラリスはそれを見て、苦笑した。


「今日の札はそれですね」


「はい」


 夜、報告書がまとめられた。


 表題。


 ハーゲン南方面足跡確認第一報――旧礼拝堂跡関連


 主な内容。


 一、ハーゲンらしき人物は南外れ工房街ではなく、旧礼拝堂前で辻馬車を降りた可能性。

 二、辻馬車控えに小型鞄一つ、紙包み一つの記載あり。

 三、旧礼拝堂跡・司祭館跡に、紙紐、濃紺繊維、旧バルツァー派私的連絡印の封蝋片、財務院系赤鉛筆欠片を確認。

 四、古井戸付近に焼却紙灰を確認。部分文字あり。

 五、旧礼拝堂跡が書類受け渡し・分配・処分地点だった可能性。

 六、南方面と南外れ到着を同一視しないこと。

 七、途中下車地点の確認が重要。


 クラリスは最後に一文を加えた。


 辻馬車は、南外れまで行っていなかった。だが、紙はそこから別々の道へ向かった可能性がある。


 ミレーヌは、自分の札に書いた。


 向かった先ではなく、降りた場所を見る。


 国際案件の箱に、また報告書が入る。


 ハーゲンはまだ見つからない。


 だが、彼が向かったかもしれない場所は、少し絞られた。


 南外れではない。


 旧礼拝堂前。


 人目の少ない司祭館跡。


 そこで、書類包みは開かれたかもしれない。


 分けられたかもしれない。


 燃やされたかもしれない。


 そして、黒帳面紙束は古紙商へ流れた。


 終点だと思った場所の手前に、紙の分かれ道があった。


 次は、その分かれ道で誰が待っていたのかを追うことになる。

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