第106話 病欠連絡票は、本人の手から出ていなかった
ハーゲン補助官は、まだ姿を見せなかった。
病欠。
その一言で、彼は財務院の机から消えている。
けれど、病欠という言葉は、人を透明にするためのものではない。
病なら、いつから具合が悪いのか。
誰に連絡したのか。
医師の診断はあるのか。
本人はどこで休んでいるのか。
緊急時に、誰が連絡を取れるのか。
休むことには、休むための記録がある。
それがなければ、病欠はただの空欄になる。
王宮筆頭実務顧問室の机には、財務院から取り寄せたハーゲン補助官の勤怠関係資料が置かれていた。
正式な診断書は、まだない。
あるのは一枚の病欠連絡票だけだった。
薄い紙。
財務院の内部様式。
日付、職員名、所属、欠勤理由、連絡者、受領者、備考。
そこに書かれている。
ハーゲン・ロウ。港湾記録補助官。体調不良により数日休養。
連絡者欄には、本人ではなく、直属上司の名があった。
バルナス主任。
クラリスは、その名前を見つめた。
「バルナス主任……」
エリオットの顔が硬くなる。
「財務院港湾記録整理室の主任です。ハーゲン補助官の上司に当たります」
「旧バルツァー派との関係は?」
レオンハルトが尋ねる。
ここは王弟府の小会議室だった。
出席者は、クラリス、オスカー、ミレーヌ、エリオット、レオンハルト、カレル調査官。
そして、昨日に続いて文書課のヘレナ修復記録官も同席している。
筆跡確認が必要になる可能性が高かったからだ。
エリオットは、少し迷ってから答えた。
「バルツァー財務卿の時代から、港湾記録の整理に関わっていた人物です。表立って派閥活動をしていたわけではありません。ただ、旧体制の処理方法をよく知っています」
「便利な人材ですね」
クラリスが言うと、エリオットは苦い顔をした。
「はい。かなり」
便利な人材。
それは褒め言葉にもなる。
だが、古い穴を知っている者が、古い穴を塞ぐ側ではなく隠す側に回れば、非常に厄介だった。
ミレーヌは病欠連絡票を見ていた。
「本人からの連絡ではないのですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「上司が代理で出しています」
「それ自体は普通なのですか」
エリオットが答える。
「あり得ます。本人が動けないほど体調が悪い場合、家族や上司が連絡することはあります」
「では、問題はそこではない」
ミレーヌは考えながら言った。
「本人が動けないほど具合が悪いのか、上司がどうやってそれを知ったのか、ですね」
クラリスは少しだけ微笑んだ。
「その通りです」
ミレーヌは、すぐに記録した。
代理病欠連絡はあり得る。ただし、代理者が本人の状態をどう確認したかが必要。
ヘレナが、病欠連絡票を覗き込んだ。
「この文字、本人のものではありませんね」
「連絡者欄がバルナス主任ですから、本人でないこと自体は記録通りです」
オスカーが言うと、ヘレナは首を振った。
「いえ、票全体の記入者です。通常、連絡者が口頭で伝え、受領者が書く場合と、連絡者本人が書く場合があります。この票は、連絡者欄も本文も同じ筆跡です」
「つまり、バルナス主任本人が書いた可能性」
「可能性があります」
カレルがすぐに尋ねた。
「受領者は?」
オスカーが票を見る。
「勤怠係、ネーラ」
「ネーラの筆跡ではない?」
ヘレナは首を振った。
「少なくとも、勤怠係の過去票とは違います」
レオンハルトの目が細くなる。
「上司が自分で書いた病欠連絡票を、勤怠係が受け取った」
「その可能性があります」
クラリスは票の備考欄を見た。
そこには、短くこう書かれている。
本人静養中。訪問不要。
訪問不要。
また、便利な言葉だった。
ミレーヌが眉を寄せる。
「訪問不要、というのは……」
「病人を休ませるためなら自然です」
クラリスは答えた。
「でも、所在確認を避ける言葉にもなります」
「はい」
ミレーヌは少し唇を結んだ。
「病欠なのに、診断書がない。本人からではない。訪問不要。これは……休ませる言葉にも、隠す言葉にもなります」
「よい整理です」
クラリスは頷いた。
オスカーが記録する。
“訪問不要”は病人保護のための記載として自然。ただし、本人所在確認を避ける表現にもなり得る。
カレルは、別の資料を出した。
「ハーゲン補助官の住居を確認しました」
部屋の空気が変わる。
「本人は?」
「不在です」
短い答えだった。
ミレーヌの手が止まる。
「家族は?」
「独身。下宿住まいです。下宿の管理人は、三日前から戻っていないと証言しています」
「三日前」
クラリスは日付を確認した。
「病欠連絡票が出た日と同じですね」
「はい。ただし、管理人によると、ハーゲンはその日の朝にはすでに荷物の一部を持って出ています」
「体調不良で静養中ではなく?」
「少なくとも、下宿では静養していません」
エリオットが低く息を吐いた。
財務院の内部で、病欠として処理された人物が、下宿にはいない。
そして、診断書もない。
病欠は、急速に所在不明へ近づいていた。
「持ち出した荷物は?」
レオンハルトが尋ねる。
「小型鞄一つ。書類包みのようなものを抱えていたと管理人が証言しています」
「どこへ向かったか」
「南門方面へ歩いた可能性があります。管理人の証言では、南行きの辻馬車乗り場へ向かったと」
南門。
また、そこへ戻る。
左目に傷のある男。
古紙商。
黒帳面紙束。
そして、ハーゲン補助官。
線が南へ寄っていく。
「辻馬車記録は?」
カレルは頷いた。
「確認中です。ただ、辻馬車は貸馬車より記録が薄い。乗客名を取らないことが多い」
「でも、行き先は残ることがありますね」
クラリスが言うと、カレルは少しだけ目を細めた。
「あります。料金表の関係で」
ミレーヌは記録した。
辻馬車は乗客名薄いが、行き先・料金で追える可能性。
ヘレナは、病欠連絡票と余白メモを見比べていた。
「バルナス主任の筆跡資料はありますか」
エリオットは持ってきていた。
財務院の回覧票、主任確認欄、内部照会メモ。
ヘレナは一枚ずつ確認し、病欠連絡票と並べる。
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙は、紙が読まれる時間だった。
やがてヘレナは言った。
「病欠連絡票は、バルナス主任の筆跡に近いです」
エリオットの顔がさらに硬くなる。
「確定ですか」
「いいえ。近い、です。ただし、正式署名ではなく内部メモとの類似ですので、比較資料としては有力です」
クラリスは確認する。
「黒帳面の重文追記とは?」
「違います」
ヘレナは答えた。
「黒帳面の“数字を合わせれば通る。布は見ない”に似ているのは、ハーゲン担当箱の余白メモ。病欠連絡票は、バルナス主任の筆跡に近い」
部屋の中に、二つの別の声が現れた。
一つは、黒帳面に重なったハーゲンらしき声。
もう一つは、ハーゲンを病欠として処理したバルナス主任らしき声。
クラリスは白紙を出した。
見出しを書く。
ハーゲン病欠処理 筆跡・所在整理
一、病欠連絡票は本人記入ではない。
二、連絡者は直属上司バルナス主任。
三、票全体はバルナス主任筆跡に類似。
四、正式診断書なし。
五、備考に「本人静養中。訪問不要」。
六、本人は下宿に戻っていない。
七、三日前朝、小型鞄と書類包みを持って出た証言あり。
八、南方面へ向かった可能性。
九、病欠という状態名と、本人所在は一致していない。
ミレーヌが、最後の一文を見て小さく頷いた。
「病欠という状態名と、本人所在は一致していない」
「はい」
「状態名だけでは、人は見えない」
「ええ」
彼女は自分の札に書いた。
病欠でも、どこで休んでいるかを見る。
素直な言葉だった。
けれど、今の事件にはそれが必要だった。
午後、バルナス主任への確認が行われた。
彼は財務院の中年官吏らしい人物だった。
髪をきっちり撫でつけ、机上の書類を角で揃え、話す前に必ず一度喉を整える。
悪人らしい顔ではない。
むしろ、どこにでもいる勤勉な管理職に見える。
それが逆に、クラリスには怖かった。
「ハーゲン補助官の病欠連絡票について確認します」
カレルが言った。
バルナスは頷く。
「彼は体調不良と聞いております」
「誰から?」
「本人からです」
「どのように?」
「口頭で」
「いつ?」
「三日前の朝です」
「どこで?」
バルナスは少しだけ目を動かした。
「財務院の廊下で」
「その時、ハーゲンは出勤していたのですか」
「いえ、出勤前に立ち寄ったようです」
「体調不良で?」
「はい」
「診断書は?」
「後日提出すると」
「連絡先は?」
「自宅で静養すると聞きました」
「下宿には戻っていません」
カレルが淡々と言うと、バルナスは初めてはっきり表情を変えた。
「そうなのですか」
「はい」
「それは……私も知りませんでした」
知らない。
また便利な言葉だった。
クラリスは口を挟んだ。
「バルナス主任。病欠連絡票には、“本人静養中。訪問不要”とあります」
「はい」
「ご本人がそう言ったのですか」
「……そういう趣旨でした」
「正確な言葉は?」
「体調が悪いので、数日休みたい。静かに休ませてほしい、と」
「訪問不要、という言葉は誰の判断ですか」
バルナスは黙った。
短い沈黙。
それから答えた。
「私の判断です。部下を休ませるために」
クラリスは頷いた。
「記録します」
オスカーが書く。
バルナス証言:“訪問不要”は本人発言ではなく、主任判断。
ミレーヌも同じように書いた。
「ハーゲン補助官は、書類包みを持っていたという証言があります」
カレルが続けた。
「見ましたか」
「覚えていません」
「財務院の資料を持ち出す許可は?」
「ありません」
「旧港湾雑費控え、ハーゲン担当箱余白メモ、南施療院関連資料について、彼と話しましたか」
バルナスは、机の上の自分の手を見た。
「少し」
「内容は?」
「古い記録の整理状況です」
「“南の件、蒸し返すな”というメモに心当たりは?」
バルナスの顔がこわばった。
ほんのわずか。
だが、確かに。
「ありません」
「G経由のものは雑へ」
「知りません」
「H処理で閉じる」
「知りません」
三つの知らない。
どれも同じ速さだった。
クラリスは、イリスの分類を思い出した。
未把握。
失念。
秘匿。
確認義務不履行。
どれなのか、まだ分からない。
カレルは最後に尋ねた。
「ハーゲン補助官の現在地に心当たりは?」
「ありません」
「連絡を取れますか」
「取れません」
「病欠連絡を受けた上司として、連絡先を把握していない?」
バルナスは、少しだけ声を硬くした。
「彼は成人した官吏です。数日の休みに、そこまで細かく」
「今回、彼は重要資料に関わっています」
カレルの声は静かだった。
「細かいかどうかは、こちらで判断します」
バルナスは黙った。
聴取が終わった後、クラリスは少し疲れを感じていた。
バルナス主任は、何かを知っているようにも見える。
本当に管理が甘かっただけにも見える。
あるいは、知っていることと知らないことを慎重に分けて話しているようにも見える。
簡単には決められない。
だから、書く。
顧問室へ戻ると、報告書がまとめられた。
表題。
ハーゲン補助官病欠連絡票およびバルナス主任聴取報告
主な内容。
一、病欠連絡票は本人記入ではなく、バルナス主任筆跡に類似。
二、本人から口頭で体調不良を聞いたとバルナス主任は証言。
三、“訪問不要”は本人発言ではなく、主任判断。
四、診断書なし。本人所在未確認。
五、下宿管理人によれば、ハーゲンは三日前朝に小型鞄と書類包みを持って外出し、戻っていない。
六、南方面へ向かった可能性あり。
七、ハーゲン担当箱余白メモについて、バルナス主任は心当たりを否定。
八、病欠という状態名と本人所在が一致していない。
九、病欠処理には、本人発言、代理判断、連絡先、診断書、所在を分けた確認が必要。
クラリスは、最後に一文を書いた。
病欠連絡票は、ハーゲン本人の手から出ていなかった。
ミレーヌは、それを見て少しだけ顔を曇らせた。
「休んでいるのか、隠れているのか、隠されているのか……まだ分かりませんね」
「はい」
「でも、病欠だけでは言えなくなりました」
「そうです」
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「病欠は、寝台の場所まで書いて初めて安心できますね」
「少し厳しいけれど、今回に限ってはそうね」
国際案件の箱に、また一枚の報告書が入った。
黒帳面紙束に重なっていた別の声。
それはハーゲンに近づいた。
だが、そのハーゲン本人は、病欠という言葉の向こうで姿を消していた。
そして、その病欠を紙にしたのは、本人ではなかった。
次に追うべきは、ハーゲンが持ち出したという書類包み。
そして、彼が向かったかもしれない南方面だった。




