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第103話 黒い帳面は、帳面ではなく紙束になって戻ってきた

黒い帳面は、黒い帳面の姿では戻ってこなかった。


 表紙は外されていた。


 綴じ糸も切られていた。


 紙は束にされ、端が少し乱れ、ところどころに水染みがある。


 濃紺の布片が、紙の端にわずかに絡んでいた。おそらく、表紙か包み布の一部だろう。


 王弟府の保全箱に入れられたそれを見た時、ミレーヌは小さく息を飲んだ。


「これが……黒い帳面、だったかもしれないもの」


 言い方が慎重だった。


 クラリスは頷いた。


「はい。まだ“かもしれないもの”です」


 王弟府の小会議室には、いつもより人が多かった。


 レオンハルト。

 カレル調査官。

 クラリス。

 オスカー。

 ミレーヌ。

 財務院からエリオット。

 そして、王宮文書課から呼ばれた修復記録官のヘレナ。


 ヘレナは四十代ほどの女性で、白い手袋をしていた。


 髪をきっちりまとめ、声は低い。


 紙に触れる前に、人を黙らせるような静けさを持っている。


「まず、申し上げます」


 ヘレナは紙束を見下ろしながら言った。


「これはすでに帳面ではありません。順番も完全とは限りません。表紙、綴じ位置、ページ番号の一部が失われています。したがって、内容確認は“帳面の読解”ではなく、“紙片群の復元”として扱うべきです」


 ミレーヌがすぐに書いた。


 帳面ではなく、紙片群。順番未確定。


 クラリスは、その書き方を見て小さく頷いた。


 ここを間違えると、全てが危うくなる。


 紙束になったものを帳面として読めば、ページの順番に意味を与えすぎる危険がある。


 失われたものを、残っているふりで扱ってはいけない。


「紙の状態は?」


 レオンハルトが尋ねる。


「水濡れはありますが、焼損はありません。急いで処分するために表紙を外し、綴じ糸を切り、古紙として混ぜる予定だったように見えます。ただし、まだ溶かされていないため、読める箇所は多いです」


「故意に破棄しようとしたと断定できますか」


 クラリスが確認すると、ヘレナは首を振った。


「断定はできません。古紙化の前処理に見える、という表現が正しいです」


 オスカーが記録する。


 状態所見:表紙除去・綴じ糸切断あり。古紙化前処理の可能性。ただし故意破棄の断定不可。


 ヘレナは、紙束を一枚ずつ広げ始めた。


 ページの端には、小さな穴が並んでいる。


 綴じ糸の跡だ。


 その穴の位置から、おおよその順番が分かるらしい。


 だが、途中で抜けている箇所がある。


「一、二、三……ここで一枚欠けています」


 ヘレナが言った。


「欠けている、と分かるのですか」


 ミレーヌが尋ねる。


「綴じ穴の汚れ方が違います。前後の紙に移ったインク跡も合いません。間に一枚あった可能性が高い」


 ミレーヌは感心したように紙を見た。


「紙にも、隣の記憶があるのですね」


 ヘレナは少しだけ目を細めた。


「よい言い方です」


 ミレーヌは慌てて俯いた。


 クラリスは、その言葉も書き留めた。


 紙にも隣の記憶がある。


 最初に読めたページには、数字が並んでいた。


 日付。

 棚番号。

 略称。

 短い備考。


 帳簿というより、個人の作業控えだった。


 正式な文書ではない。


 しかし、だからこそ生々しい。


 そこには、こう書かれていた。


 南施 八梱 保温→急送 G席 Hgn確認 雑へ


 エリオットの顔が強張った。


「南施……南施療院」


 クラリスは声を落とした。


「可能性があります」


「保温→急送」


 ミレーヌが読み上げる。


「G席、Hgn確認、雑へ」


 レオンハルトは目を細めた。


「G席は、濡れ帆亭のギデオン名義貸し席か」


「可能性があります」


 カレルが答える。


「Hgnはハーゲン。雑へ、は雑費処理かもしれません」


 エリオットの指が紙の端を押さえた。


 押さえすぎないように、すぐヘレナに軽く注意される。


 彼は慌てて手を引いた。


「すみません」


「紙は怒りませんが、破れます」


 ヘレナの言葉は淡々としていた。


 少しだけ、場の緊張が緩んだ。


 次のページには、別の記録があった。


 C-3 一梱 保温正 外へ S前 M渡し


 今度は、誰もすぐには話さなかった。


 C-3。

 一梱。

 保温正。

 外へ。

 S前。

 M渡し。


 これまで追ってきた言葉が、同じ行に並んでいる。


 ミレーヌの手が震えた。


 だが、彼女は書いた。


 C-3、一梱、保温正、外へ、S前、M渡し。意味未確定。


 クラリスは、その最後の「意味未確定」を見て、胸の中で頷いた。


 それでいい。


 言葉が見えたからといって、すぐ意味を決めない。


「保温正、とは正規保温布でしょうか」


 オスカーが尋ねる。


「可能性はあります」


 クラリスは答えた。


「ただし、略語です。書いた本人の意味を確認できるまでは、確定しません」


「M渡しは」


 ミレーヌが少し声を落とした。


「マルティンさんでしょうか」


「可能性があります」


 カレルが言った。


「ただし、Mは他にもいます」


 ミレーヌは頷いた。


「はい。文字は名前にも、印にも、逃げ道にもなる」


 前に自分で書いた札を、彼女は小さく繰り返した。


 レオンハルトが紙束を見つめながら言った。


「S前は、商会主確認前の可能性がある」


「はい」


 クラリスは答えた。


「前回の伝言棚運用と一致します」


「つまり、C-3の正規保温布一梱は、商会主確認前に外へ出された可能性がある」


「可能性です」


 クラリスは強調した。


「でも、かなり重要な可能性です」


 次のページは半分破れていた。


 読めるのは下半分だけ。


 ……外套低 代入 NVT-S-007 札残 封そのまま


 エリオットが低く息を吐いた。


「NVT-S-007」


 現物不一致の梱包番号。


 低等級布が入っていた、あの一梱。


 ミレーヌは、あの日の仕立て場を思い出したのだろう。


 顔が少し白くなる。


 ニナが言った言葉。


 この布じゃ、病床の子は寒いです。


 それが、部屋の中に聞こえた気がした。


「外套低、代入」


 オスカーが言う。


「通常外套用の低等級布を代わりに入れた、という意味に見えます」


「見えます」


 クラリスは答えた。


「ただし、半分破れています。前後の文脈が必要です」


 ヘレナが次の紙を探した。


「この破れたページの前後は、一部欠落しています」


「つまり、意図を書いた部分が抜けている可能性がある」


「あります」


 レオンハルトが静かに言った。


「都合の悪いページだけ抜いた可能性は?」


「あります。ただし、自然に抜けた可能性も残ります」


 ヘレナは即答した。


「綴じ糸を切った時に、端が破れたページだけ外れた可能性もある。意図的な抜き取りと断定するには、欠落箇所の形を見る必要があります」


「見てください」


「そのために来ています」


 ヘレナはそう言うと、淡々と紙を裏返した。


 彼女は強い。


 紙の前では、王弟も顧問も関係ないらしい。


 クラリスは、少しだけ感心した。


 さらに読み進めると、短い名前がいくつも出てきた。


 G。

 Hgn。

 M。

 S前。

 L。


 Lは倉庫長ロイドかもしれない。


 しかし、リーヴェ商会の略印ではLは倉庫長確認を示す。


 人名なのか、役割なのか、印なのか。


 また分けなければならない。


 ミレーヌが小さく唸った。


「一文字が多すぎます」


「だから、対応表を作ります」


 クラリスは言った。


「帳面内略称対応表。確定、可能性高、未確定に分けます」


 オスカーがすぐに表を作り始める。


 G――ギデオン・マースまたはG席。未確定。

 Hgn――ハーゲン補助官の略称可能性高。

 M――マルティン・ケイルまたはM印。未確定。

 S前――商会主確認前またはS印確認前。可能性高、ただし未確定。

 L――ロイドまたは倉庫長確認印。未確定。


 エリオットが、Hgnの欄で口を開いた。


「Hgnについては、財務院の旧港湾雑費控えの略字と一致します」


「筆跡は?」


「似ていますが、まだ正式比較はしていません」


「では、“可能性高”に留めます」


 エリオットは頷いた。


 彼の顔は苦しそうだった。


 財務院の人間として、ハーゲンの略称が何度も出ることは重いのだろう。


 だが、彼は逃げなかった。


 ページの後半に、最も重い一文があった。


 それは、走り書きではなく、少し丁寧な字だった。


 南の時と同じ。数字を合わせれば通る。布は見ない。


 部屋が静まり返った。


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 南の時と同じ。


 南施療院未着事件。


 数字を合わせれば通る。


 布は見ない。


 その一文は、これまでクラリスたちが追ってきた構造を、あまりに短く言い切っていた。


 数字が合えば、帳簿は通る。


 しかし、布は違う。


 布を見なければ、寒い布が暖かい布のふりをして届く。


 クラリスは、ゆっくり息を吸った。


「この一文は、非常に重要です」


「はい」


 カレルが頷いた。


「ただし、誰の手による文か確認が必要です」


 ヘレナが紙を覗き込む。


「この字は、前の数字記録と筆圧が違います。別人の追記か、同一人物が落ち着いた状態で書いたものか、判断が必要です」


 レオンハルトが言った。


「筆跡比較へ回せ」


「はい」


 ミレーヌは、手を震わせながらも、その一文を写した。


 そして、余白に小さく書いた。


 数字が合っても、布は寒いことがある。


 クラリスは、その言葉を見て胸が詰まった。


 それはニナの言葉にもつながる。


 現場の手が知っていたことを、紙束がようやく証言している。


 読解は夕方まで続いた。


 すべてを読み切れたわけではない。


 抜けたページもある。


 水染みで読めない箇所もある。


 略称の意味がまだ分からないものも多い。


 だが、分かったことは大きかった。


 一、紙束はハンス・ベルトの黒い作業帳面である可能性が高い。

 二、南施療院未着事件とC-3現物不一致が、同じ略称群の中に記録されている。

 三、NVT-S-007に低等級外套布を代入した可能性を示す記述がある。

 四、正規保温布がS確認前に外へ出された可能性を示す記述がある。

 五、G、Hgn、M、Lなどの略称は、既出人物・役割・印と重なるが、未確定。

 六、「数字を合わせれば通る。布は見ない」という記述があり、数量帳簿と現物確認の分離が意識されていた可能性がある。


 クラリスは、それらを整理しながら、深く疲労を感じていた。


 紙束は語った。


 けれど、語りすぎた。


 読む側が急げば、都合よく意味をつなげてしまう。


 それだけは避けなければならない。


「今日の報告名はどうしますか」


 オスカーが尋ねた。


 クラリスは少し考えた。


「黒帳面紙束第一次読解報告」


「第一次」


「はい。まだ一回目の読解です。確定ではありません」


 ヘレナが頷いた。


「よいと思います。紙片群の復元には時間がかかります」


 レオンハルトも同意した。


「王弟府は、これをもとにハーゲン、ロイド、マルティン、サムエル、ギデオン名義の関係を再整理する」


「はい」


 クラリスは答えた。


「顧問室では、数量一致と現物不一致の制度上の問題を整理します」


 ミレーヌが顔を上げた。


「数字が合っても、布が違う問題ですね」


「ええ」


「名前をつけますか」


「つけます」


 クラリスは、白紙に書いた。


 数量一致による現物不一致の隠蔽


 定義。


 数量上は納品・搬出・受領が一致しているため帳簿上問題なしと処理されるが、実際の現物の等級・用途・品質が一致していない状態。現物確認者、等級確認、端印確認、用途確認がなければ発見困難。


 ミレーヌは、それをじっと見ていた。


「長いですね」


「長いです」


「でも、短くすると危ないですね」


「はい」


 彼女は頷き、自分の札に書いた。


 数が合っても、中身を見る。


 それは、今日の全てだった。


 夜、顧問室に戻ったクラリスは、報告書をまとめた。


 表題。


 黒帳面紙束第一次読解報告


 主な内容は、王弟府で整理した通り。


 ただし、最後にクラリスは一文を加えた。


 黒い帳面は、帳面ではなく紙束になって戻ってきた。それでも、数字の下で寒くなった布の声を残していた。


 オスカーがその文を見て、少しだけ黙った。


「報告書には、少し強いかもしれません」


「そうですね」


 クラリスは頷き、実務文に直した。


 当該紙束は、数量一致処理の陰で現物等級が変更された可能性を示す重要資料である。


 削った言葉は、ミレーヌが自分の札へ写していた。


 数字の下で、布の声が消える。


 イリスはそれを見て、静かに言った。


「その札は、残しましょう」


 ミレーヌは頷いた。


 国際案件の箱に、新しい報告書が入った。


 黒い帳面は、完全には戻ってこなかった。


 だが、紙束として戻ってきた。


 そこには、C-3と南施療院が同じ紙面に並んでいた。


 NVT-S-007もあった。


 外套低、代入。


 数字を合わせれば通る。布は見ない。


 誰が書いたのかは、まだ確認が必要だ。


 だが、もう見えないとは言えなかった。


 数字だけで通してきた道の下に、寒い布の声が残っていた。

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