第104話 その一文は、ハンスの字ではなかった
紙束は、一晩置いても紙束のままだった。
当たり前のことだ。
表紙が戻るわけでもない。
綴じ糸が勝手に結ばれるわけでもない。
抜けたページが机の上に現れるわけでもない。
それでも翌朝、クラリスが王弟府の小会議室に入った時、昨日よりも少しだけ輪郭が見えているように感じた。
保全箱の中に収められた紙束。
黒い帳面だったかもしれないもの。
そこには、C-3、南施療院、NVT-S-007、外套低、代入、G席、Hgn確認、雑へ――これまで別々の箱に入っていた言葉が、同じ紙面に残っていた。
だが、まだ足りない。
その言葉を誰が書いたのか。
そこを見なければならない。
「筆跡確認を始めます」
王宮文書課の修復記録官ヘレナは、白い手袋をはめ直しながら言った。
今日の出席者は、レオンハルト、カレル調査官、クラリス、オスカー、ミレーヌ、エリオット。
そしてヘレナ。
机の上には、比較用の写しも並んでいる。
ハンス・ベルトが家に残した紙片。
リーヴェ商会の伝言棚から出た紙片。
旧港湾雑費控えのHgn略字。
マルティン・ケイルの署名。
サビナ・ロウの帳場文字。
シモン・グレンの搬出控え。
どれも、完全な証拠ではない。
けれど、比較しなければ始まらない。
ヘレナは最初に、黒帳面紙束の中でもっとも多い筆跡を示した。
「主筆跡は、おそらく同一人物です。数字の書き方、棚番号の記し方、略語の癖が一貫しています」
彼女は細い棒で、数字の三を示した。
「三の下が少し開く。七は斜め線を入れない。Cの後に小さく点を打つ癖がある。これは、ハンス・ベルト氏が家に残した紙片の字と似ています」
ミレーヌが、すぐに書いた。
主筆跡はハンスの可能性。確定ではない。
ヘレナは少しだけ頷いた。
「その書き方でよいです。まだ可能性です」
クラリスは紙束を見つめた。
主筆跡がハンスのものなら、この紙束は少なくとも彼の作業控えだった可能性が高い。
彼は何かを記録していた。
自分のためか。
身を守るためか。
いつか誰かに渡すためか。
それはまだ分からない。
「次に、別筆跡があります」
ヘレナは別のページを示した。
昨日、全員を黙らせた一文。
南の時と同じ。数字を合わせれば通る。布は見ない。
ミレーヌの手が、わずかに止まった。
クラリスも、背筋を伸ばした。
「これは主筆跡ではありません」
ヘレナは、はっきり言った。
部屋の空気が変わる。
エリオットが小さく息を吸った。
「ハンスの字ではない、ということですか」
「現時点では、そう見ます」
ヘレナは慎重に言った。
「主筆跡よりも筆圧が強い。横線が長く、文字の間隔が狭い。特に“数”と“布”の字に、別の癖があります」
クラリスは、その一文を見た。
昨日は、内容の重さにばかり目が行った。
だが、今日は違う。
誰が書いたのか。
その一点だけを見ようとすると、文字が別の顔を見せる。
「比較対象はありますか」
レオンハルトが尋ねた。
ヘレナは、旧港湾雑費控えの写しを横へ置いた。
そこには、Hgnと略字が残っている。
さらに、財務院から出されたハーゲン補助官の過去の処理メモ。
短い走り書きだが、正式な筆跡比較には十分ではないにせよ、特徴を見ることはできる。
「この一文は、ハーゲン補助官の筆跡と似た特徴があります」
エリオットの顔色が明らかに変わった。
クラリスはすぐに言った。
「似た特徴、ですね」
「はい」
ヘレナは頷いた。
「一致とは言いません。現時点では、筆跡類似です。正式な比較には、本人の長文筆跡が必要です」
「ハーゲン補助官は病欠中」
カレルが低く言う。
「診断書未提出。所在確認は継続しています」
レオンハルトが目を細めた。
「病欠のまま、長いな」
「はい」
その短いやり取りだけで、部屋の温度が下がった気がした。
ハーゲン。
旧バルツァー派に近い財務院港湾記録補助官。
旧港湾雑費控えに略字を残していた人物。
そして今、黒帳面紙束の最も重い一文に筆跡類似が出た。
まだ断定ではない。
だが、偶然という言葉では片づけにくくなっている。
ミレーヌは、震えないように注意しながら記録した。
“南の時と同じ。数字を合わせれば通る。布は見ない。”は主筆跡と異なる。ハーゲン補助官筆跡との類似可能性。ただし正式比較未了。
クラリスは、その書き方を見て頷いた。
重い内容を、重いまま、でも確定にしない。
それができている。
「他にも別筆跡があります」
ヘレナは続けた。
次に示されたのは、破れたページだった。
……外套低 代入 NVT-S-007 札残 封そのまま
「これは主筆跡にかなり近いです。ハンス氏が書いた可能性が高い。ただし、急いでいたのか、文字が崩れています」
「つまり、NVT-S-007に関する具体的な記録は、ハンス本人の控えである可能性がある」
クラリスが確認する。
「はい。可能性としては」
「では、ハンスさんは、NVT-S-007に低等級外套布が代入されたことを見ていたか、少なくとも聞いていた」
「その可能性があります」
ミレーヌが顔を強張らせた。
「だから、“C-3は俺じゃない”と家に残したのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
クラリスは、静かに言う。
「そうかもしれません。ただし、紙片の意図は本人に確認しなければ確定しません」
「はい」
ミレーヌは頷いた。
「でも、ハンスさんは、自分が全部悪いことにされると思ったのかもしれません」
「その可能性はあります」
レオンハルトが低く言った。
「だから消えたのか、消されたのか。そこがまだ分からない」
部屋の中に、ハンスの不在が重く落ちた。
次に確認されたのは、C-3 一梱 保温正 外へ S前 M渡しのページだった。
ヘレナは、ここで少し眉を寄せた。
「この行は、主筆跡ですが、最後の“M渡し”だけ筆圧が違います」
オスカーが身を乗り出す。
「同じ人が後から書き足した可能性は?」
「あります。あるいは、別の人物が追記した可能性もあります」
「M渡しだけが?」
「はい。文字の大きさが少し小さい。行の流れに対して後から押し込んだように見えます」
クラリスは、その箇所を見た。
確かに、M渡しだけが少し窮屈だ。
最初から書かれていたなら、もう少し余白があるはずだった。
「Mがマルティン様を指す可能性は?」
ミレーヌが尋ねる。
カレルが答える。
「あります。ただし、M印、M名義、別のM人物の可能性も残ります」
「はい」
ミレーヌは記録する。
“M渡し”は後筆可能性あり。Mの意味未確定。
「よいです」
クラリスは小さく言った。
ミレーヌは少しだけ顔を赤くしたが、すぐ真剣な表情に戻った。
この紙束は、ハンス一人の帳面ではない。
少なくとも、ハンスらしき主筆跡の上に、別の者が何かを書き加えている。
それは、ハンスが誰かの言葉を書き写したのかもしれない。
誰かがハンスの帳面へ直接書いたのかもしれない。
あるいは、ハンスの記録に後から別人が追記したのかもしれない。
まだ分からない。
しかし、一つ見えた。
「この紙束は、一人の声ではありませんね」
クラリスが言うと、ヘレナは頷いた。
「はい。少なくとも複数の筆跡が混じっています」
ミレーヌは、自分の紙に書いた。
帳面は、一人の声ではない。
その言葉を見たエリオットが、ぽつりと言った。
「財務院の帳簿も同じです」
彼の声は少し苦かった。
「一冊の帳簿のように見えて、書いた者、確認した者、後で直した者、写した者がいる。なのに表紙には一つの部署名しか残らない」
クラリスは頷いた。
「では、今回も分けます」
白紙に見出しを書く。
黒帳面紙束 筆跡層分類
一、主筆跡――ハンス・ベルトの可能性。
二、重文追記――“南の時と同じ。数字を合わせれば通る。布は見ない。”。ハーゲン筆跡類似の可能性。
三、後筆可能性――“M渡し”等、一部追記の疑い。
四、欠落箇所――前後文脈不明。
五、水濡れ・破損による読解不能箇所。
「層、ですか」
ミレーヌが言った。
「はい。紙にも層があります。誰の声がどこに重なったのかを分けます」
ヘレナが少しだけ満足そうに言った。
「よい整理です」
文書課の修復記録官に褒められると、なぜか王宮の誰に褒められるより重みがあった。
読解はさらに進んだ。
途中で、別の短い一文が見つかった。
ハンス名で通せ。倉は黙る。
これも主筆跡ではなかった。
むしろ、重文追記に近い。
エリオットの顔がさらに青くなる。
「倉は黙る、とは」
オスカーが低く言う。
「倉庫側は黙る、という意味でしょうか」
「可能性です」
クラリスは答えた。
誰も、倉という一字をすぐロイドに結びつけなかった。
結びつけてはいけない。
倉庫長ロイドかもしれない。
倉庫全体かもしれない。
第三北方倉庫かもしれない。
商会倉庫かもしれない。
略語は、また逃げ道にもなる。
ミレーヌは、慎重に書いた。
“倉”の意味未確定。倉庫長、倉庫部署、倉庫側の可能性。断定不可。
レオンハルトがその記録を見て、少しだけ頷いた。
声には出さなかったが、悪くないという顔だった。
その後、ヘレナは紙束の欠落箇所を整理した。
欠けている可能性が高いページは、少なくとも三枚。
一枚は、南施療院関連記録の直後。
一枚は、C-3関連記録の直前。
一枚は、NVT-S-007代入記録の後。
都合の悪い箇所ばかりに見える。
だが、紙束を乱暴に切れば、端の弱いページから抜けることもある。
ヘレナは断定しなかった。
クラリスも断定させなかった。
ただし、欠落位置は極めて重要として記録された。
夕方、第一次筆跡確認が終わった。
全員が疲れていた。
特にエリオットは、しばらく言葉を発しなかった。
部屋を出る前、クラリスは彼に声をかけた。
「エリオット様」
「はい」
「大丈夫ですか」
彼は一瞬、いつものように「大丈夫です」と言いかけた。
だが、言わなかった。
「大丈夫ではありません」
正直な返事だった。
「ハーゲンの字に似ているものが出た。財務院の人間として、きついです」
「はい」
「でも、見ます」
エリオットは、紙束の保全箱を見た。
「見なかったことにしたら、また同じことになります」
クラリスは静かに頷いた。
「お願いします」
顧問室へ戻ると、報告書が作られた。
表題。
黒帳面紙束筆跡確認第一報
主な内容。
一、紙束の主筆跡はハンス・ベルトの可能性。
二、紙束は一人の筆跡ではなく、複数筆跡が混在。
三、“南の時と同じ。数字を合わせれば通る。布は見ない。”は主筆跡と異なり、ハーゲン補助官筆跡との類似可能性。ただし正式比較未了。
四、NVT-S-007関連記述は主筆跡に近い。
五、“M渡し”は後筆可能性あり。Mの意味未確定。
六、“ハンス名で通せ。倉は黙る。”の別筆跡記述あり。倉の意味未確定。
七、欠落可能性の高いページが少なくとも三枚。欠落箇所は重要記録の前後に集中。
八、紙束は一人の証言ではなく、複数の声が重なった資料として扱う必要あり。
クラリスは最後に一文を加えた。
黒帳面紙束は、ハンスの記録である可能性が高いが、ハンス一人の声ではない。
ミレーヌは、それを見て頷いた。
「今日の一文ですね」
「はい」
彼女は自分の札に書いた。
一冊に見えても、声は一つとは限らない。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「人も帳面も、単純ではございませんね」
「本当に」
クラリスは、深く息を吐いた。
国際案件の箱へ、新しい報告書を入れる。
箱はまた重くなる。
だが、今日の重さは少し違った。
黒帳面紙束は、ハンスをただの犯人にはしなかった。
むしろ、彼の記録の上に、別の声が重なっていることを示した。
数字を合わせれば通る。布は見ない。
その一文は、ハンスの字ではなかった。
ならば、ハンスが消えた理由も、ただ逃げたからではないかもしれない。
次に探すべきは、紙束に重なった別の声だった。




