表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/176

第102話 左目の傷は、南門の通行控えに残っていた

左目の下に傷のある、馬車引き風の男。


 その特徴は、これまで出てきたどの言葉よりも生々しかった。


 ギデオン名義。

 G席。

 黒控え。

 C-3。

 南。

 王宮指定先急送。

 臨時棚。

 確認中。


 どれも、紙の上で形を変える言葉だった。


 けれど、左目の下の傷は違う。


 役割名ではない。

 名義でもない。

 借りた外套でもない。

 誰かの体に残った痕だ。


 もちろん、傷だけで人を断定することはできない。


 似た傷の者はいるかもしれない。


 見間違いかもしれない。


 だが、外套や名義よりは借りにくい。


 クラリスは、王弟府から届いた短い報告を見つめていた。


 南門通行控え確認予定。対象:左目下に傷のある馬車引き風の男。


「ようやく、人の形が出てきましたね」


 ミレーヌが言った。


 彼女は机の上の図を見ている。


 伝言棚から左手で取られた紙。

 マルティンの手に渡った黒い帳面らしき包み。

 南門。

 左目の下に傷のある男。


 線はまだ細い。


 だが、今までよりも具体的だった。


「そうですね」


 クラリスは頷いた。


「ただし、傷も証言です。まだ現物確認ではありません」


「はい」


 ミレーヌは、すぐに紙へ書いた。


 傷も証言。本人確認ではない。


 その書き方に、クラリスは少しだけ安心した。


 妹は、もう簡単に飛びつかない。


 疑いを持ちながら、断定を避ける。


 それは地味だが、とても難しい仕事だった。


 王弟府の調査は、南門から始まった。


 南門は、王都の中でも商業区と外縁をつなぐ門である。


 貴族の馬車が通る正門とは違い、荷馬車、行商人、職人、夜明け前の搬出車、夕暮れの帰り荷が多い。


 通行控えも、正門ほど整ってはいない。


 だが、その雑さの中に、人の目が残っていることがある。


 その日の午後、クラリスは王弟府の小会議室で報告を受けた。


 同席しているのは、レオンハルト、カレル調査官、オスカー、ミレーヌ。


 財務院からはエリオットも来ている。


 彼は最近、疲れている。


 だが、目は逃げていない。


「南門の通行控えに、該当し得る記録がありました」


 カレルは淡々と言った。


 机の上に、写しが置かれる。


 日付は、黒い帳面が濡れ帆亭から消えた朝。


 時刻は夜明け前。


 区分。


 小型荷馬車一台。


 通行者名。


 ラウル


 荷。


 古布袋二つ。道具箱一つ。


 備考。


 左目下に古傷。馬車引き組合札なし。臨時通行。南外れ工房行き。


 ミレーヌが小さく息を吸った。


「左目下に古傷……」


「はい」


 カレルが頷く。


「南門の若い門番が、組合札がないことを気にして備考に書いていました」


 クラリスは、その一文をじっと見た。


 左目下に古傷。


 馬車引き組合札なし。


 臨時通行。


 つまり、その男は馬車引き風に見えたが、正規の馬車引きではなかった。


 また同じ構造だ。


 外見は馬車引き。


 記録上は臨時通行。


 実態は不明。


「馬車は?」


 レオンハルトが尋ねた。


「馬車そのものは貸馬車です。南門近くの小さな貸馬車屋から借りられていました」


「借主はラウル?」


「はい。ただし、姓はなし」


「住所は?」


「南外れ工房、とだけ」


 便利な言葉だった。


 南外れ工房。


 具体的な工房名がない。


 南門外には、小さな工房や納屋、修理小屋がいくつもある。


 そのどれかと言われれば、追いにくい。


「貸馬車屋の記録は?」


 クラリスが尋ねる。


 カレルは次の紙を出した。


 貸出記録。


 借主、ラウル。


 保証金、銀貨二枚。


 貸出品、小型荷馬車、荷覆い布。


 返却、同日昼。


 返却者、別人。


 クラリスは顔を上げた。


「別人」


「はい」


「誰ですか」


「名は記録されていません。貸馬車屋の老人は、“顔を見ない男”だったと証言しています」


「顔を見ない?」


 ミレーヌが聞き返す。


「帽子を深くかぶり、荷覆い布の汚れを気にしていたため、顔がよく見えなかったそうです。ただ、左目の傷はなかったと」


 レオンハルトの表情が少し硬くなる。


「借りた者と返した者が違う」


「はい」


「馬車は戻った」


「戻りました」


「荷は?」


「返却時には空でした」


 部屋が静かになった。


 黒い帳面らしき包みは、濡れ帆亭から南門へ、左目に傷のある男へ渡った可能性がある。


 その男はラウルと名乗り、小型荷馬車で南門を出た。


 荷は古布袋二つと道具箱一つ。


 そして馬車は昼に戻ったが、返したのは別人。


 荷は空。


 黒い帳面は、どこかで降ろされた。


「古布袋二つ」


 クラリスは呟いた。


「その中に帳面が入っていた可能性がありますね」


「あります」


 カレルは答えた。


「ただし、門番は中を見ていません」


「道具箱は?」


「中身不明」


 オスカーが記録する。


 南門通行控え:黒帳面の可能性ある荷は古布袋または道具箱。中身未確認。


 ミレーヌは、自分の紙へ慎重に書いた。


 傷は見えた。中身は見えていない。


 クラリスはその言葉に目を留めた。


 よい。


 外側と中身を分けている。


 今回の事件そのものだった。


 布もそうだった。

 札は合っていたが、中身が違った。

 馬車引き風の外套もそうだった。

 外側は馬車引きだが、馬車引きではなかった。

 そして今、古布袋も中身が分からない。


「南外れ工房とは?」


 エリオットが尋ねた。


 カレルは地図を広げた。


 南門外の簡易地図。


 小さな工房がいくつも並んでいる。


 馬具修理屋。

 桶屋。

 古布再生屋。

 紙漉き場。

 使い古しの帳簿紙を買い取る古紙商。


 最後の言葉に、クラリスは目を止めた。


「古紙商」


 カレルが頷く。


「あります」


「帳面を処分するなら」


「可能性があります」


 レオンハルトが低く言った。


「燃やすより、古紙として混ぜる方が追いにくい」


 ミレーヌの顔が青ざめた。


「黒い帳面を、紙に戻してしまうということですか」


「そういう処分方法もあります」


 カレルは淡々と答えた。


「ただし、まだ処分されたとは限りません」


「はい」


 ミレーヌは小さく頷き、自分の紙に書いた。


 紙は、紙に戻ると読めなくなる。


 クラリスは胸の奥に嫌な重さを覚えた。


 黒い帳面が古紙に混ぜられていたら。


 C-3も、南施療院も、ギデオンも、ハーゲンも、その中にあったかもしれない記録は失われる。


 けれど、焦ってはいけない。


 まだ可能性だ。


「南外れ工房を一つずつ確認しますか」


 クラリスが尋ねると、レオンハルトは首を振った。


「一つずつでは遅い。まず貸馬車の轍を追う」


「轍?」


「南門外は昨夜雨が降った。小型荷馬車の轍が残っている場所がある」


 カレルが補足する。


「門番の記録では、ラウルの馬車は右後輪に少し歪みがありました。通行時に音がしたと」


「若い門番がそこまで?」


「気にする性格のようです」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


 若い門番。


 組合札がないことを書き、左目の傷を書き、右後輪の音を覚えている。


 現場の観察が、ここでも足跡になる。


「その門番の名は?」


「トビアス・レン。南門見習い門番です」


「記録に残してください」


「はい」


 カレルは頷いた。


 ミレーヌが小さく言った。


「見習いでも、見ていたのですね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「肩書きより、見たことが大事です」


 王弟府の者たちは、すでに南門外へ向かっていた。


 右後輪に歪みのある小型荷馬車。


 その轍は、南門からまっすぐ古布再生屋の方へ向かっていた。


 ただ、途中で二つに分かれる。


 一つは古布再生屋。

 もう一つは古紙商の裏手へ。


 どちらも怪しい。


 古布袋なら古布再生屋。


 帳面なら古紙商。


 そして道具箱なら、どちらにも持ち込める。


 レオンハルトは、しばらく地図を見ていた。


「二手に分ける」


「はい」


 カレルが答える。


「古布再生屋と古紙商、同時に確認します」


「ラウルの名で聞くな」


「承知しています」


「左目の傷だけでも聞くな。先に朝の荷を確認しろ」


 クラリスは、レオンハルトの指示を聞きながら、王弟府の調査の順番に感心していた。


 先に特徴を言えば、相手は答えを合わせるかもしれない。


 まず朝の荷。


 次に馬車。


 次に人。


 そして最後に傷。


 誘導しない。


 それは、顧問室の記録にも通じる。


 夕方近く、第一報が戻った。


 古布再生屋では、ラウルの名は出なかった。


 ただし、夜明け後に古布袋二つが持ち込まれていた。


 持ち込んだのは、左目下に傷のある男ではない。


 顔を隠した別の男。


 古布袋の中身は、本当に古布だった。


 帳面はなし。


 一方、古紙商では。


 古い帳面らしき紙束が一つ、朝のうちに持ち込まれていた。


 表紙は外されていた。


 黒い帳面かどうかは不明。


 だが、紙束の一部に、濃紺の布片が付着していた。


 クラリスは、報告を聞いて机に手を置いた。


「残っていますか」


 カレルは頷いた。


「古紙商がまだ溶かしていませんでした。王弟府が保全しました」


 ミレーヌが、思わず立ち上がりかけた。


「帳面が?」


「帳面そのものではありません」


 カレルは慎重に言った。


「表紙は外され、綴じ糸も切られています。紙束です。内容も一部抜かれている可能性があります」


「でも、残っている」


「はい」


 クラリスは、ゆっくり息を吐いた。


 完全ではない。


 だが、失われていない。


「内容は?」


 レオンハルトが尋ねる。


「まだ確認中です。ただ、最初に見えたページに、C-3と南施療院の文字があります」


 部屋の空気が止まった。


 ミレーヌの目に、涙に近いものが浮かぶ。


 けれど、泣かなかった。


 彼女は記録板を握り、震える字で書いた。


 古紙商より紙束保全。黒帳面の可能性。表紙なし。内容一部欠落可能性。C-3、南施療院の文字確認。


 クラリスは、その字を見て静かに頷いた。


 黒い帳面は、消えかけていた。


 しかし、完全には消えていなかった。


 南門の通行控え。


 右後輪の歪み。


 見習い門番の備考。


 古紙商の手元。


 それらが、ぎりぎりで帳面の紙束を引き止めた。


「トビアス見習い門番の備考がなければ、追えませんでしたね」


 オスカーが言った。


「はい」


 クラリスは答えた。


「それも記録します」


 報告書には、すぐに見出しが立てられた。


 南門通行控えおよび古紙商紙束保全報告


 主な内容。


 一、南門通行控えに、左目下に古傷のあるラウル名義の臨時通行記録あり。

 二、馬車引き組合札なし。馬車引き風の外見だが正規馬車引き未確認。

 三、荷は古布袋二つ、道具箱一つ。中身未確認。

 四、貸馬車は同日昼に別人が返却。返却時空荷。

 五、右後輪の歪みを南門見習い門番トビアスが記憶。轍追跡に有用。

 六、古布再生屋に古布袋二つが持ち込まれるも帳面なし。

 七、古紙商に表紙を外した古い帳面紙束が持ち込まれ、王弟府が保全。

 八、紙束には濃紺布片付着。黒帳面との関連可能性。

 九、紙束の一部にC-3、南施療院の文字確認。

 十、内容確認は継続。


 クラリスは、最後に一文を書いた。


 外見は借りられても、歪んだ車輪は同じ跡を残す。


 ミレーヌが、それを見て小さく息を吸った。


「かっこいいです」


「報告書には少し文学的すぎるかしら」


「でも、分かります」


 イリスが横から静かに言った。


「報告書には、“右後輪の歪みにより轍追跡可能”とし、札には今の一文を残されては?」


「イリス、あなた最近編集者みたいね」


「恐れ入ります」


 結局、報告書には実務的な一文を入れた。


 そして、顧問室の札として小さく書かれた。


 外見は借りられても、跡は残る


 ミレーヌは自分の札に別の言葉を書いた。


 傷は証言。轍は足跡。紙束は声。


 クラリスは、それを見て何も言わなかった。


 少し、胸に来る言葉だった。


 夜、国際案件の箱へ新しい報告書が入った。


 黒い帳面は、まだ完全な形ではない。


 表紙は外され、綴じ糸は切られ、紙束になっていた。


 それでも、残っていた。


 C-3。

 南施療院。


 消されかけた言葉が、古紙になる寸前で戻ってきた。


 次は、その紙束を読む番だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ