第101話 伝言棚から紙を取った手は、左手だった
伝言棚は、何も言わない。
紙を置かれても、取られても、黙っている。
誰の声がそこに置かれたのか。
誰の手がそれを取ったのか。
どこへ運ばれたのか。
棚そのものは、何も覚えていない。
だが、何も残さないわけではなかった。
リーヴェ商会の帳場と倉庫棟の間に置かれた伝言棚は、小さな木製の棚だった。
三段に分かれている。
上段、商会主確認。
中段、倉庫長確認。
下段、帳場回収。
昨日までなら、その説明だけで終わっていただろう。
けれど、今は違う。
上段には、黒い帳面に関わる可能性のある紙片が置かれていた。
サビナ・ロウが右上にS印を押した可能性がある。
しかし、その紙片は商会主確認前に消えた。
つまり、次に追うべきは印を押した手ではない。
棚から紙を取った手だ。
「この棚が、現場なのですね」
ミレーヌが小さく言った。
彼女は伝言棚の前に立ち、少し緊張した顔をしている。
王宮の会議室でもなく、仕立て場の長机でもなく、港の倉庫でもない。
ただの棚。
けれど、この棚を通って、黒い帳面の足跡は薄くなった。
クラリスは頷いた。
「ええ。小さな現場です」
同行しているのは、クラリス、オスカー、ミレーヌ、王弟府調査官カレル。
商会側からは、倉庫長ロイド・カーマン、帳場係サビナ・ロウ、代理人マルティン・ケイル。
サムエル・リーヴェ商会主は、少し離れたところで腕を組んでいた。
彼は今日も「知らない」という顔をしている。
ただし、前よりも慎重だった。
知らない、という言葉が分けられることを、もう理解しているのだろう。
カレルが、伝言棚の上段を確認した。
「棚の掃除は、いつ行いますか」
ロイドが答える。
「週に一度です」
「昨日は?」
「していません」
「一昨日は?」
「していません」
「では、問題紙片が置かれた前後の埃は、残っている可能性がありますね」
ロイドは少し顔をしかめた。
「埃まで見るのですか」
「見ます」
カレルの返事は短かった。
クラリスは、何も言わずに棚へ目を向ける。
上段の奥には、薄い埃が残っていた。
紙が置かれていたらしい四角い跡がある。
そして、その左端だけが少し乱れている。
誰かが紙を取る時、指を差し入れたような跡。
カレルは小さな木片で、棚の縁を示した。
「右手で取る場合、通常は右手前の埃が乱れます」
ロイドが不快そうに言う。
「必ずではないでしょう」
「必ずではありません」
カレルは認めた。
「ですが、この棚の位置を見てください」
伝言棚は、壁の右側に寄せて置かれている。
正面から立つと、右側は帳場机に近く、少し狭い。
左側には通路がある。
「左側から手を入れた方が取りやすい」
ミレーヌが言った。
「はい」
カレルが頷く。
「さらに、紙跡の左端にインクの擦れがあります」
「インク?」
クラリスが見ると、確かに薄い濃紺の跡があった。
黒ではない。
S印に使われていた、あの濃紺のインクに近い。
ただし、印そのものではない。
指についたインクが、棚に触れたような跡だった。
サビナが青ざめた。
「私……ではないと思います」
声が震えている。
クラリスはすぐに言った。
「まだ誰とも決めていません」
「でも、私はS印を」
「印を押した手と、紙を取った手は同じとは限りません」
昨日、顧問室の札になった言葉だった。
サビナは、それを聞いて少しだけ息を吸った。
泣きそうな顔ではある。
だが、崩れなかった。
カレルは続ける。
「サビナ様。あなたは右手で印を押しますか」
「はい」
「紙を棚から取る時は?」
「右手です。私は左手だと、うまく紙をつかめません」
「分かりました」
それだけ聞いて、カレルは引いた。
責めない。
だが、記録する。
ミレーヌは丁寧に書いた。
サビナ証言:右手で押印。左手で紙を取る習慣なし。棚上段の左側擦れとは一致しにくい。断定不可。
クラリスは、その書き方を見て小さく頷いた。
サビナを守る書き方ではない。
事実を分ける書き方だ。
結果として、それが彼女を守る。
「この棚から紙を取る習慣がある者は?」
カレルが尋ねる。
ロイドは答えた。
「倉庫長、代理人、帳場係、搬出係。急ぎの時は、近くにいた者が取ることもあります」
「搬出係とは?」
「シモン・グレンです」
前回のS該当者一覧にもあった名だ。
シモン。
Sで始まる正式商会員の一人。
クラリスは一覧を思い出した。
搬出係。
荷を動かす者。
紙を棚から取り、実際の搬出へつなぐ立場。
「シモン様を呼んでください」
カレルが言うと、ロイドは少し間を置いた。
「今、外回りに」
「どこへ」
「港の搬出確認へ」
「呼び戻せますか」
「急ぎなら」
「急ぎです」
ロイドは、渋々使いを出した。
待つ間、クラリスたちは伝言棚の周辺を見た。
棚の左下には、擦れた跡がある。
そこに立つ者は、左足を少し前に出す癖があったのかもしれない。
床の木板も、そこだけ少し靴底の跡が濃い。
ボルクがいれば、港の足跡にも何か言ったかもしれない。
今日はいない。
だが、カレルは淡々と記録した。
証拠ではなく、補助観察として。
クラリスは、棚の高さを見た。
背の低い者には取りにくい。
ミレーヌなら、少し背伸びが必要だ。
サビナも同じくらいだろう。
背の高い者なら、自然に取れる。
「シモン様の身長は?」
クラリスが尋ねると、ロイドは答えた。
「高い方です」
ほどなくして、シモン・グレンが呼び戻された。
二十代後半の男だった。
背は高く、肩幅もある。
港や倉庫を行き来する搬出係らしく、上着の袖口には擦れがある。
そして、左手の指に濃紺のインク跡がついていた。
ミレーヌの視線が、そこへ落ちる。
シモンもそれに気づき、手を後ろへ回しかけた。
カレルが静かに言った。
「そのままで」
シモンの動きが止まった。
「シモン・グレン様ですね」
「はい」
「伝言棚から紙を取ることはありますか」
「あります」
「どの段から?」
「全部です。搬出に関係するものなら」
「商会主確認棚からも?」
「急ぎの時は」
ロイドが横で顔をしかめた。
サムエルの目も細くなる。
だが、シモンは止まらなかった。
緊張はしているが、隠すのがうまい男ではなさそうだった。
「誰に言われて取りますか」
カレルが尋ねる。
「倉庫長か代理人です」
「商会主から直接は?」
「ほとんどありません」
「この紙片に覚えは?」
カレルが問題紙片の写しを見せた。
G席より黒控え。S確認前。C-3と南。
シモンの喉が動いた。
見覚えがある。
その反応だった。
「覚えは?」
「……似たような紙は見ました」
「いつ」
「現物不一致が騒ぎになる前です」
「どこで」
「この棚で」
「取ったのですか」
シモンは黙った。
その沈黙が、先に答えていた。
カレルは急かさない。
クラリスも黙っている。
倉庫の外で、荷車の音がした。
それが遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
やがて、シモンは低く言った。
「取ったと思います」
「誰の指示で」
「マルティンさんです」
マルティンの顔が強張った。
「私は――」
「発言は後で」
カレルが遮った。
静かな声なのに、場が止まる。
シモンは続けた。
「マルティンさんが、ギデオンの席から来た黒い控えは、上に回す前に搬出確認へ回せと言いました」
「上とは?」
「商会主確認です」
「なぜ上げる前に?」
「急ぎだから、と」
「あなたは中身を見ましたか」
「見ていません」
「C-3と南という文字は?」
「それは見ました。だから、変だと思いました」
「なぜ変だと?」
「南施療院の名前は、前に揉めたことがあるから」
クラリスの背筋が冷たくなった。
「前に揉めた」
「はい。詳しくは知りません。でも、古い急送の件で、南施療院の荷がどうとか、ギデオンの名前を出すなとか、ロイドさんが怒っていたのを聞いたことがあります」
ロイドが、明らかに顔色を変えた。
「シモン、お前」
「黙らせないでください」
クラリスが言った。
今度は、はっきりと。
ロイドは唇を噛んだ。
カレルはシモンへ向き直る。
「紙を取った後、どこへ?」
「搬出控え箱へ」
「その箱はどこに?」
シモンは倉庫の奥を指した。
「今は……たぶん、ありません」
「ない?」
「急ぎ処理が終わったら、帳場へ戻すことになっています。でも、あの紙は戻していません」
「なぜ」
「マルティンさんが、黒い帳面と一緒に外へ出すと言ったから」
「黒い帳面を見たのですか」
「包みは見ました」
「誰が持っていた」
「マルティンさんです」
マルティンは、顔面蒼白になっていた。
前回、彼は黒い帳面を受け取ったことを一部認めている。
だが、伝言棚から紙を取るよう指示したことはまだ認めていなかった。
ここで、シモンの証言が重なる。
カレルは、声を変えずに尋ねた。
「あなたは左手で紙を取りましたか」
シモンは少し驚いた顔をした。
「左利きなので」
ミレーヌの筆が止まった。
すぐに動き出す。
シモン証言:左利き。伝言棚上段から紙片を取った可能性を認める。指示者はマルティン。
「左手にインクがついていますね」
カレルが言う。
シモンは自分の指を見る。
「ああ……搬出印を押す時に」
「S印では?」
「S印は押していません。搬出係の印です」
「今日のものですか」
「たぶん」
「たぶん、ではなく」
シモンは少し俯いた。
「朝、急ぎで何枚か押しました」
彼は嘘をついているようには見えない。
だが、曖昧だ。
現場の者は、いちいち全部を覚えていない。
それが現実だった。
クラリスは、シモンの左手を見た。
インク跡。
棚の左端の擦れ。
左側から取った紙。
すべてが、同じ方向を向き始めている。
ただし、これで彼が黒い帳面を消したとは言えない。
言ってはいけない。
「シモン様」
クラリスは静かに言った。
「あなたが紙を取ったことと、黒い帳面を消したことは別です」
シモンは顔を上げた。
「……別なんですか」
「別です」
「でも、紙を取ったのは俺です」
「はい。それは記録します」
「じゃあ、俺が悪いって」
「紙を取った理由、誰の指示か、どこへ渡したか。それを分けます」
シモンは、少しだけ呼吸を整えた。
「マルティンさんに言われました。黒い控えは外で処理する、商会主に上げると話が大きくなるから、と」
サムエルが初めて声を荒げた。
「私はそんな指示をしていない!」
倉庫内が静まり返った。
サムエル自身も、自分の声に驚いたようだった。
クラリスは彼を見た。
「今の発言も記録します」
サムエルは、息を整えた。
「……してください。私は、黒い控えを外で処理しろなどと指示していません」
「承知しました」
カレルはマルティンへ向き直る。
「マルティン・ケイル。シモンに伝言棚から紙を取るよう指示しましたか」
マルティンは、しばらく何も言わなかった。
だが、沈黙で逃げ切れる段階ではなかった。
やがて、かすれた声で答えた。
「……指示しました」
「誰の指示で」
「ギデオン名義の伝言です」
「またギデオン名義」
「本当に、そう来たんです」
「誰から?」
「分かりません。濡れ帆亭の席に置かれていた伝言で」
「その伝言は?」
「捨てました」
カレルの目が、少しだけ鋭くなった。
「なぜ」
「そうするように書いてあったから」
部屋が重く沈む。
伝言が伝言を消す。
名義が名義を動かす。
紙が棚から棚へ、手から手へ渡り、最後に捨てられる。
クラリスは、胸の奥に冷たい怒りを感じた。
だが、今は怒る場ではない。
書く場だ。
「確認します」
クラリスは言った。
「マルティン様は、ギデオン名義の伝言を受けた。その伝言に従い、シモン様へ、黒い控えを商会主確認前に取らせた。黒い帳面らしき包みと共に外へ出した。伝言そのものは破棄した。以上でよろしいですか」
マルティンは、うなだれたまま頷いた。
「はい」
「黒い帳面は誰へ渡しましたか」
カレルが尋ねる。
マルティンは震える声で答えた。
「南門の馬車引き風の男です」
「名は」
「知らない」
「特徴は」
「左目の下に傷がありました」
新しい足跡だった。
左目の下の傷。
外見名義ではなく、身体の特徴。
ようやく、借り物ではない特徴が出た。
ミレーヌは、急いで書いた。
南門の馬車引き風の男。左目下に傷。名不明。黒い帳面らしき包み受領。
カレルは短く頷いた。
「王弟府で追います」
その日の確認は、そこで打ち切られた。
マルティンは王弟府の追加聴取対象となった。
シモンは任意協力者として、当面商会外への移動を控えるよう求められた。
ロイドは、商会内の伝言棚管理責任者として再聴取。
サムエルは、商会主としての管理責任について、後日正式確認。
リーヴェ商会は、完全に静まり返っていた。
帰りの馬車の中で、ミレーヌはずっと自分の手を見ていた。
「どうしましたか」
クラリスが尋ねると、彼女は少し迷ってから答えた。
「シモンさん、紙を取ったことを言う時、怖そうでした」
「ええ」
「サビナさんと似ています」
「はい」
「二人とも、紙や印に触っただけなのに、全部悪いことにされるかもしれない」
「そうです」
「でも、触ったことも事実」
「はい」
クラリスは頷いた。
「だから、触ったことと、消したことを分ける。指示したことと、指示されたことを分ける」
ミレーヌは、自分の札に書いた。
触った手と、消した手を分ける。
それは昨日の札に似ている。
だが、今日の彼女自身の言葉だった。
顧問室へ戻ると、報告書がまとめられた。
表題。
伝言棚紙片取得者およびマルティン追加証言報告
主な内容。
一、伝言棚上段の紙跡左端にインク擦れあり。
二、シモン・グレンは左利きで、伝言棚上段から紙片を取った可能性を認めた。
三、指示者はマルティン・ケイル。
四、シモンはC-3、黒い控え、南の文字を見た可能性あり。
五、黒い控えは商会主確認前に取られた。
六、マルティンは、ギデオン名義の伝言に従い、シモンへ紙片取得を指示したことを認めた。
七、黒い帳面らしき包みは、南門の馬車引き風の男へ渡したと証言。
八、その男は左目下に傷がある。名不明。
九、マルティンは伝言そのものを破棄したと証言。
十、シモンの紙片取得行為と、黒い帳面の最終消失行為は分けて扱う必要あり。
クラリスは、最後に一文を書いた。
伝言棚から紙を取った手は見えた。だが、黒い帳面を消した手は、まだ先にある。
イリスがそれを読んで、静かに頷いた。
「少し進みましたね」
「はい」
「でも、まだ先がある」
「ええ」
国際案件の箱に、新しい報告書が入った。
伝言棚から紙を取った手は、左手だった。
その手は、シモン・グレンのものかもしれない。
けれど、彼は指示されて紙を取っただけかもしれない。
黒い帳面は、さらに別の手へ渡っていた。
左目の下に傷のある、馬車引き風の男へ。
次は、その男を探す番だった。




