見えない同居人
「ただいま」
店内には誰もいない。まだ、ほのかに温かいベビーカステラの袋をテーブルに置くと、何処からか小走りに走る足音が近付いて来て、ドーナツの袋は二階に消えた。
それとほぼ同時に、カタカタという音がする。
その音は、空耳かと思う程小さいけど、私には「おかえり」と応えてくれてるのだと勝手に思ってる。そう思うと、心がほんわかと幸せで温かくなるんだよね。
私は着ていたコートを脱いで、椅子の背に掛ける。そして、手を洗いに洗面所に向かった。
いつも、店内は暖かくて明るい。
手洗いとうがいを済ませて戻ると、いつの間にか、コートがハンガーに掛けられているし、鞄は隅の定位置に置かれている。私が椅子に座ると、脇から淹れたてのコーヒーが出てくる。お菓子付きで。
(ほんと、至れり尽くせりだよ)
この同居人さんは、他の同居人さん達とは少し毛色が違う。やけに、人間っぽいんだよね。それに、とても気が利く。店内には私以外、誰も居ないんだけどね。
でも、居るの。
ただ、見えないだけ。
普通の人間なら、この時点で叫んでるか、腰を抜かして震えてる。或いは、這って外に逃げ出してるわね。
コートの所でアウトだよ。
私はもう慣れたけど。元々下地があったからね。まだ、マジだったと思う。よくいう、小さい頃から見える子だったから。
昔は、こんな力を持った自分が嫌いだった。憎んでいたって言った方がいいかもしれない。でも……この力があったおかげで、私は神楽書店に来る事が出来た。居場所が出来た。今は、この力を受け入れてる。愛せるまでは言えないけどね。
でもね、時々、想像する事があるの。
もし、私にこの力がなかったらって。考えても仕方ないのにね。ほんと、馬鹿だわ。
私が神楽書店に来た経緯は追々話すとして、目の前の非常識な光景が、この本屋の、私のいつもの光景なの。
「ありがとう」
お礼を言ってから、コーヒーを飲もうとカップの持ち手に指を絡めた時だった。ソーサーの下に、四つ折りにされた紙が挟んであるのに気付く。
私はそれを、慣れた手付きで広げる。
【佑樹さん、寒い中お疲れ様です。明日二時、古書の鑑定をして欲しいと、沢木さんから連絡がありました】
紙にはそう書かれていた。
「して欲しいね……これって、決定だよね」
私が溜め息混じりに溢すと、またスーと一枚の紙が横から差し出される。
【そうですね。お断りしますか?】
「別にいいよ。仕事、終わったばかりだし」
【分かりました】
短い文面だけど、見えない同居人さんが微笑んでいるように思えた。
見えない同居人さんは、要件の前に、必ず私を気遣う一文が添えられてるの。角張った字だけど、丁寧に書かれていて、綺麗で読み易い。字から想像すると、見えない同居人さんは男性かなって勝手に想像してるの。
なんせ、私は見えない同居人さんの声を聞いた事がないし、姿を見た事もない。見える子だけど、見えない同居人さんの姿を見る事は出来なかった。
なので、当然、見えない同居人さんの名前も知らないわ。敢えて、訊かない。知ってしまったら、呼んでしまいそうになるから。絶対に呼ばない自信なんてないもの。だから、始めから訊かない。知らなければ、呼べないからね。
とはいえ、見えない同居人さんの正体を知る方法はあるわ。
あるけど、私がしないだけ。どうしても、したくないの。心地良い今を、自分の手で壊してしまいそうで。私の我儘だって分かってるわ。皆にも呆れられてる。
それでも、出来ないでいるの……
見えない同居人さんに対して、酷い事をしているって自覚はあるわよ。今の状態が彼にとって中途半端なのも理解してる。いつまでも、この状態が続ける訳にはいかない事も、頭では理解しているの。
なのに、心がどうしても拒んでしまう。
酷い事をしているのに、それでも見えない同居人さんはここに居てくれる。
神楽さんが出て行ってからも、何かと私の世話をしてくれた。精神的にも助けて貰ってばっかり。
見えない同居人さんとの静かな会話は、私の心をいつも和ませてくれるの。緊張を溶かしてくれる。仕事に自信がない時や失敗した時は、慰めてくれるわ。
私はずっと、見えない同居人さんの善意に甘えてるだけ。
とても大切で感謝しているのに、何故かこの頃、ほんの少しだけと心が波立つ。罪悪感かな……
小さな小さな波。
私はそれに気付かない振りをする。
(弱いからなんて、ズルいよね)
思わず出そうになる苦笑を封じ込め、私は会話を進める。
「明日二時ね、分かった。あいつからの紹介となると……やっぱり、そっち方面だよね」
面倒くさそうに、私はボヤく。
【おそらく、そうだと思います。くれぐれも、気を付けて下さい】
そう書かれた紙が、スッと差し出される。
「ありがとう」
気配だけする見えない相手に向かって、私はにっこりと微笑む。
人ではない相手と交わす、何気ないその時間が、私は何よりも大切だった。




