小さな手
皆が寝静まった深夜、私は一人紺に会いに行った。
絵本を胸に抱いたまま、冷たい床の上に座る。春になったとはいえ、深夜はとても肌寒い。持って来ていた膝掛けとダウンで暖を取りながら、私は敢えて素手で絵本を優しく撫でた。
「……紺、ごめんね。本当は、一人で居たいのに。私は紺を一人にさせたくないの」
何故か、一人にしたらいけないって思ったの。
勘に近いものだよ。正解かどうかも分からない。でも、そう思ったの。日中は皆と一緒だから、夜中こっそり、話したくて会いに来たの。
『…………』
眠り続けている紺が、返事をしてくれるなんて期待してないわ。聞いていないかもしれない。それでもよかった。私は勝手に話を始めた。
「怒ってるよね、私に……そして、高橋様にも。でも、一番許せないのは自分自身じゃないかな。……紺は最後まで一緒に居たかったんだよね。……紺が目を覚まさないのも、人形にならないのも、怒っているからだって、私は考えてる。もし間違っていたら、ごめんね」
私は絵本の表紙を、紺を撫で続ける。
『…………』
「私がそうだったから……紺もそうかなって思ったの。……少し、私の事を少し話していい?」
返事はない。それでも、私は話を続ける。
『私も紺と同じ。すっごく大切で大好きな人に、三年前、ここに連れて来られたの。ここなら、普通じゃない私でも暮らしていけれるからね。安心出来るから預けられたの。誰も私を傷付けないし、利用しないから』
『…………』
「連れて来たのは父よ。父は私を心から愛してくれた。愛していたから、離れて行ったの。私を置いて行ったの。置いていかないで、最後まで一緒に居たいって、もう我が儘言わないから、手を離さないからって叫びたかった。てもね……顔を見たら、何も言えなくなったの。言えない自分に、置いて行った父に、私は凄く腹が立った、今もね」
話してて、胸が苦しくなる。目頭が熱くなる。鼻の奥が痛くなった。
(ここで泣けたら、楽なのに……)
最後に泣いたあの日から、私は泣けなくなった。
私が最後に泣いたのは、父に会いに行ったあの日――
会うのを拒否されたけど、チラリとカーテンの隙間から室内が垣間見えた。
一瞬だけ見えた父の姿。
たった一瞬だったけど、記憶に焼き付いているわ。父の最後の姿が頭に浮かぶ。
別れて一か月も経っていないのに、痩せこけ、頬もげっそりとこけ、昔の面影が全くなくなっていた。私は父が病気だとは知らなかったの。
それでも父は、苦しそうだけど、目元に手を当て泣きながら笑っていたわ……泣きながらね。
その時の表情が頭を過り離れない。
(……駄目……これ以上は無理)
私は記憶に蓋をするように、強く目を瞑った。中々消えない。
『…………』
「長々と話してごめんね。話を聞いてくれてありがとうね、紺」
最後にそう声を掛けてから、私は元の場所に絵本を戻し部屋を出た。
冷え切った身体を温めるために、そして一人になりたくて、私は風呂場に向かった。湯船に浸かり身体は温まったけど、心は簡単には温まらない。
一度冷え切った心を、父が必死で温めてくれた。でも、その父を失って、私の心の芯は冷え切ったままだ。
暖かい場所、気の良い仲間、気になる人もいる。かなり恵まれた環境だって、自分自身よく分かってるわ。
父を裏切ったあの時から、半ば諦めていた温かさだ。その温かさは、今、常に私の傍にある。
あるのに……芯は冷えたまま。
ふと、思う。
心の一部が麻痺している私だから、この仕事を続けられてるのかもしれない。人の感情に感化されない。流されない、冷めた自分だから。
そこまで考えて止めた。
(いつまでも浸っていると、身体に障るよね)
風呂から上がると、ドライヤーで髪を乾かしてから、蒼と陸が眠っているベッドに滑り込んだ。
色々考えすぎて、眠れないのかもと心配したけど、横になると、直ぐに睡魔が襲って来た。
眠りに落ちそうになった時だった。
(……あれ? 誰かが、私の頭を撫でてる?)
ふと感じる、温かみ。
誰が撫でているのか確かめようとしたが、瞼が重過ぎて少しも開かない。
でもね……とても気持ち良かったの。気持ちよくて、自然と笑みが浮かぶぐらいにね。睡魔に勝てなくて確かめられなかったけど、感触で小さな手だと分かった。




