重なる後ろ姿
高橋様と話していると、大事な仕事中なのに、過去の記憶が呼び起こされる。
(ほんと、よく似ているわ)
顔とか背丈とか体型じゃない。生き様というか、根本的な考え方が近いのだと思う。あの人は、柔らかそうに見えるのに、芯は一本通っていて、懐がとても大きかった。高橋様もそうだ。だから、纏う雰囲気がとても似ているの。重なって見えてしまう程にね。
私には二人恩人がいる。あの人と神楽さんだ。
あの人は私を悪夢の日々から救い出し、開放してくれた。お金のなる木でしか見ていなかった人達の中で、唯一私を、人として扱って保護してくれた人だ。私にとって、血は繋がらないけど、父親と呼べる存在だった。
それなのに、私は父親に対して、とても酷い事をしたの。なのに、再度、私に手を伸ばしてくれた。躊躇っている私の手を、握って引き寄せてくれた。とでも温かくて、優しくて、懐か大きく深かったの。
だけど、三年前、父親は私を神楽書店に置いて姿を消した――
今度は、父親が私の手を離したの。今も、その理由は分からない。
「……どうかしたかね?」
黙り込んでしまった私を不審に思い、高橋様は声を掛ける。
その声に、私はハッと意識を現実に戻した。慌てて、高橋様に謝罪した。
「いえ、申し訳ありません。仕事の途中なのに、考え事をしてしまって……あまりにも、高橋様が、私の知っている人によく似ていたので……」
そう私が答えた時、カタリて何かが倒れる音がした。一瞬、音がした方に神経が向くが、直ぐに高橋様に戻す。
「……そうですか」
特に気を悪く、高橋様は優しい笑みを浮かべる。その笑みを見て、また父親を思い出し、ズキッと鋭い痛みが胸に走った。
別れる間際、父親も高橋様と同じ笑みを浮かべていたからだ。
全てを包み込み、諦め、飲み込んだような、寂しくて悲しい、澄んだ笑み。
苦しくなった私は、視線を外してしまう。
「……温かくて、とても優しい人でした。そして、自分より他人を優先するような人でした」
無意識に、私は高橋様に想いを吐露していた。
「貴女は、その人を恨んでいるのかな?」
そう訊かれ、私は高橋様に視線を戻す。彼は、何かを確かめるような目をしていた。遠慮なく踏み込んで来る、あまりにも強い視線に、再び私は手元に視線を落とす。
「いいえ……彼にとって、只の同情か自己満足だったかもしれません。だけど、私は救われました。あの悪夢の日々の中で壊れなかったのは、彼と共に暮らした思い出と、彼が傍に居てくれたからです。私は心から、あの人を、いえ、父を愛しています。父が下した決断が間違っているとは思えません。でも……」
理由を知りたかった。その台詞は呑み込む。嘘偽りのない本心だった。
血は繋がってはいない。でも私にとって、彼は間違いなく父だった。それ以上の存在だったの。
父親と別れた後、自分の気持ちが整理出来るまで時間がかなり掛かった。今も納得はしていない。
それでも、父親がそれが最善だと判断した事は理解出来た。頭で理解していても、心が追い付かない。でも、何とか折り合いを付ける事が出来たの。
「今、店主は幸せかな?」
その問い掛けに、私は心から笑みを浮かべる。
(幸せ? そんなの決まってる)
「ええ。とても幸せです。でも、父に会いたいと思う気持ちは、一生消えないと思います」
神楽さんとの共同生活も落ち着いて、募るのは、父に会いたいという気持ちだった。どうしても会いたくなって、一度だけ会いに行った事があるの。神楽さんに付き添われてね。
だけど、父は会ってはくれなかった。
言葉も掛けてはくれなかった。
帰り際、無言のバスの中で、隣に座っていた神楽さんが目を合わせずに言ったの。「明日から、自分の足で歩く方法を教えるわ。あいつが貴女に与えたチャンスをどうするか、それは貴女次第よ」と。
それからよ、神楽さんが私に色々神楽書店の事を教えてくれるようになったのは。まぁ、自分のためもあったと思うけどね。
普通の人が思い描くような幸せとは、かなり掛け離れたものかもしれない。だけど、「幸せか」と訊かれたら、間髪入れずに「幸せだ」と笑って断言出来る。
だって、本当に幸せなのだから。
父は、普通に生きれないだろう私の幸せを願って、神楽さんに預けた。
そんな私が出来る事って、精一杯生きて、笑う事でしょ。
父は私に会ってはくれない。
これから先も、父の気持ちが変わらず、現世では二度と会えないのかもしれない。
でも――何処かで、私を見ていてくれてるかもしれない。
父親が与えてくれたチャンスを、恥じないよう、私は生きて行く。精一杯、自分を愛し生きようと誓ったの。
だからあの日から、私は下を向く事も、後ろを振り返る事も止めた。
「そうですか……」
そう呟くと、高橋様は寂しそうに微笑み黙り込んだ。
(まだ、葛藤してるようね)
本心では、自分の人生が終わる瞬間まで、ずっと手元に置いておきたいと願っているでしょうね。長い時を、それこそ、苦しい時も楽しい時も、共に一緒に過ごして来たのだから、葛藤しててもおかしくないわ。
しかし、高橋様は自分の願望よりも、この子の未来を優先した。
愛しい存在だからこその決断だと、今の私は素直にそう思える。
そしてそれは、とても勇気がいる決断だという事もね。高橋様は正しい決断をした。
(それでも、残される方は……)
複雑だよね。遣る瀬無さが残るだけ。それは一生、心の處りとなって燻り続ける。消化する事はないのだから。私もそう。
「神谷さん、どうか、この子の事を宜しくお願い致します。貴女なら、この子を託せる」
高橋様は若輩者の私に深々と頭を下げる。私はその覚悟に答えるだけ。
「畏まりました。お任せ下さい。返って来た家族を、皆で温かく迎えます」
高橋様にとって、何よりも大切な存在だからこそ、私は心から安心出来るよう、テーブルに置かれた絵本を紫布ごと抱き締めた。微かに、絵本が震えた気がする。
「ありがとうございます」
その言葉と一礼を最後に、高橋様はこの子がいない世界へと帰って行った。
もう二度と、彼は生きてここを訪れる事はない。
私でも分かる。高橋様自身も薄々気付いていると思うわ。自分の命がもうすぐ尽きようとしている事を。気付いているからこそ、彼は、再度神楽書店を訪れる事を決めた。
一番必要な時に、その手を離した。
神楽書店を出た高橋様は、一度も振り返らなかった。
私はそんな高橋様の小さな背中を、彼が愛した絵本を胸に抱き締めながら、彼が陽炎のように消えるまで見送った。
遠ざかる高橋様の後ろ姿は、どうしても、父親の後ろ姿に重なって見えた。




