第9話 風が変わる
風が北から西に変わった。
半日で雪になる。
関所の石壁に背を預けて、アルノーは山のほうを見ていた。雲はまだ稜線にかかっていない。雲より先に風が変わる。長く国境に立てば、身体がそう覚える。今朝の風は湿っていた。西の山から降りてくる空気に、雪の匂いが混じっている。
指先が冷たかった。秋の終わりは、まず指に来る。次に耳、次に鼻。顔が冷えるころには、関所の石壁にも霜が降りている。今朝はまだ指だけだった。
「辺境伯様、南の商人が通関を求めております」
部下が通関帳を抱えて門から出てきた。息が白い。
「荷は」
「塩が二台と干し肉が一台です。峠を越えたいと急いでおります」
「目録は」
「こちらに」
紙を受け取った。品目と数量と送り先。塩は北の町への卸、干し肉は国境を越えた先の駐屯地。数字に不審はなかった。
「検めは」
「済ませました。数量は目録どおりです」
「通行税は」
「塩が二台で十グルデン、干し肉が一台で四グルデン。計十四です」
「先払いだ。商人に伝えろ」
「承知しました」
門の桟が外された。荷車が石橋を渡っていく。車輪が石の継ぎ目を越えるたびに、荷台の塩袋が揺れた。古い橋だった。欄干の石が一箇所欠けている。苔が隙間に食いついたまま、冬を迎えようとしていた。
商人が銭袋を提げて関所に来た。四十がらみの男で、外套に土埃が付いていた。
「十四グルデンでございますね」
「そうだ」
「干し肉は先月、三グルデンだったかと存じますが」
「今月から四に上がった。冬支度で北への荷が増える」
「……承知しました」
「通関証を持っていけ。帰りもここを通るなら使える」
「ありがとうございます。風が冷たくなりましたな」
「ああ。半日で雪になる。急いだほうがいい」
「では、お言葉に甘えまして」
商人は通関証を懐に入れて、足早に橋を渡っていった。
「辺境伯様」
別の部下が橋のたもとから声を上げた。
「何だ」
「欄干の南側、三番目の柱のそばです。石がまた浮いています」
「冬は越せるか」
「越せます。ただ春には手を入れないと——」
「台帳に入れておけ」
「はい」
「風が変わりましたね」
「ああ。荷の覆いを張れ。雪が来てからでは遅い」
「門は閉めますか」
「閉めない」
「北の巡回は」
「朝一番で出しました。クラウスとヨハンです」
「昼までに戻らなければ伝令を出せ。この風だ」
「承知しました」
部下たちが覆いを張りに散った。別の一人が通関帳を抱えてきた。
「昨日の閉門後の分です。夜中に三名通っております」
「身分は確かめたか」
「二名は旅の者です。一名が手荷物の申告を」
「通行税は」
「翌朝精算ということで預かっております」
「朝のうちに済ませておけ。閉門中の分を溜めるな」
「はい」
通関帳を受け取り、今朝の記録と合わせて書き入れた。アルノーの字は短い。品目と数量と日付。それだけで一行が済む。帳面の前の頁をめくると、空欄がいくつか並んでいた。書くべきものが書かれていない行。いつからかは覚えていない。
関所の壁から身を起こして、南を見た。ハルデンの町が石橋の向こうに広がっている。市場の屋根、番人の詰所、その先に並ぶ古い家並み。三年前から空いていた家が一軒ある。男爵家の屋敷だ。屋根は持っているはずだが、中はどうか。三年も人が入っていなければ、薪も水もない。
関所の仕事に戻った。次の荷が来るまでに、通行税の台帳を閉じなければならなかった。
「辺境伯様、巡回の二名が戻りました」
「何かあったか」
「街道に倒木が一本。除けてあります。ほかに変わりはありません」
「山道の状態は」
「凍ってはおりません。ただ、今日の風だと明日には——」
「明日の巡回は三名で出せ」
「承知しました」
昼前に、町の番人から使いが来た。
「辺境伯様」
通関帳から顔を上げた。
「何だ」
「町の番人からの知らせです。南から女がひとり、町に入りました」
「いつだ」
「昨日の夕方です。街道を歩いてきたそうで」
「……歩いて」
「はい。鞄ひとつです。馬車はなしです」
徒歩で、鞄ひとつ。馬車ではなかった。
「どこに入った」
「ヴァイデン男爵家の屋敷です。三年ほど空いていた家ですが、鍵は持っていたようで」
「近所の者は何か言ったか」
「声をかけた者がおりまして。名前を聞いたと」
「名は」
「リーゼル・ヴァイデン、と名乗ったそうです」
風がやんだ。吹き返す前の空白。次の風が来るまでの、半拍。
ヴァイデン。ファルケではなく。
「……そうか」
「旧姓でございますか」
「そうだ」
使いの者がまだ立っていた。
「お指図は」
「ない」
「門番を増やしますか。女ひとりですと——」
「要らない」
「しかし——」
「国境の門は、来る者に開ける。それだけだ」
使いの者は頭を下げて引き下がった。
門の脇で部下が待っていた。
「次の荷が来ております。南から毛皮が一台」
「検めは」
「済んでおります。通行税は五グルデンです」
「通せ」
風が戻った。西から吹いている。朝は北だった風が、昼前に西に変わった。風向きが変わった日に、この知らせが来た。
天気の話だ。天気が変わっただけだ。
「そろそろ日が傾きます」
「門番を入れ替えろ。日没で閉める」
「承知しました」
通関帳を閉じた。石壁に手をついて立ち上がった。壁の石は冷たかった。冷たいのは風のせいだ。朝からずっと、冷たい。
——六年前の、春のことだった。
アルノーは二十三だった。ヴェスト辺境伯家の次男。兄がまだ当主で、国境勤務を命じられていた。任地に発つ前の最後の春だった。
一通の手紙を書いた。ヴァイデン男爵の一人娘に宛てた求婚状だった。
文は短かった。一枚の紙に用件だけ書いた。長い手紙は書けない。書いたところで、長いほうが伝わるとは思えなかった。必要なことだけ書いた。一行で済むなら一行で済ませる。帳面の書き方と同じだった。
河港で一緒に育った。母が商家の出で、ヴァイデン商会の帳場に出入りしていた。帳場の小さな机に並んで座って、数字の書き方を覚えた。インクの匂いと、河の水の匂いが混ざった場所だった。
彼女は帳面の空欄を見つけるのが早かった。見つけると何も言わずに埋めた。こちらは空欄を残したまま帳面を閉じた。そのころから、ずっとそうだった。埋める人間と、閉じる人間。同じ帳面を使って、やることが違った。
一度だけ聞いたことがある。空欄を見つけると気になるのか、と。彼女は手を止めずに言った。空いているのが見えるから。見えたら埋める。それだけだ、と。それだけだ、という言い方がこちらと同じだった。
出立の朝、従者に手紙を預けた。
「男爵のお手元にお届けいたします。お返事はお待ちになりますか」
「来たら俺に届けてくれ。任地の住所は置いてある」
「お返事が間に合わぬ場合は」
「届いた時に読む」
「……お急ぎにはなりませんか」
「急いでどうなる」
従者が何か言いたそうな顔をした。言わなかった。言わなくてよかった。言われても答えは変わらない。
返事を待たずに北へ発った。間が悪いとは思った。ただ、間の良い時期というものが分からなかった。春を逃せば次に帰れるのは秋。秋を逃せば翌年の春。翌年の春に、彼女がまだ誰のものでもないという保証はなかった。待つあいだに、別の縁談が来るかもしれない。待たなかったから来たのかもしれない。どちらも同じだった。分からなかった。
だから春のうちに出した。出して、発った。北へ向かう馬の背で、一度だけ振り返った。河港の町が小さくなっていた。商会の帳場の窓がどこにあるかは、もう見えなかった。
任地に着いた。夏が来た。秋が来た。返事は来なかった。
その秋に、南からの便りでヴァイデン男爵がファルケ伯爵家との縁談をまとめたと知った。持参金三万グルデン。傾いた伯爵家を立て直すための金だった。
求婚状の返事は、来なかった。
二年後に兄が死んだ。当主として南に戻ったとき、彼女は嫁いで二年目だった。
書斎に戻った。
辺境伯邸と呼ぶには小さい屋敷の二階に、書斎はあった。机がひとつ。窓がひとつ。帳簿が積まれている。関税の帳簿、通関の台帳、領内の支出記録。どの帳簿にも空欄が多い。帳面を埋める人間が足りなかった。この手は関所に立つための手で、帳面の空欄を丁寧に埋める手ではなかった。
番頭が扉を叩いた。
「辺境伯様。今月末のローゼン商会への送金の準備ですが」
「いつもどおりだ」
「額は春の分と同じでよろしいですか」
「変わったか」
「いいえ。同額です」
「ならそれでいい」
「承知しました。確認に使った春の分の受取証は、こちらに」
「引き出しに戻しておけ」
「はい。——それから、今朝方、町に——」
「聞いた」
「……左様でございますか」
「何もするな」
「承知いたしました」
番頭が扉に手をかけた。
「待て」
番頭が振り返った。
「ヴァイデンの屋敷は三年空いていたな」
「はい。左様でございます」
「薪と水を届けておけ」
「……辺境伯様がお指図なさるのですか」
「町に来た者への配慮だ」
「いつもは、このような——」
「今日から始めろ」
「……承知いたしました」
番頭が出ていった。
椅子に座って引き出しを開けた。番頭が戻した受取証が、何枚かの紙の上に重なっていた。
ローゼン商会への送金。隣領への為替手形を、半年ごとに書いている。
六年前、国境の任地から為替手形を出し始めた。伯爵家の利子が滞ると聞いた翌月だった。当主でもない次男の個人の金だった。
頼まれたわけではない。頼まれるまで手を出さないと決めていた。国境の関税を検め、通行税を数え、帳面に書く。それが辺境伯の仕事だ。隣領の台所に手を入れるのは仕事ではない。
それでも手を出した。三月滞れば橋の通行税が差し押さえられる。差し押さえられれば、あの家の帳面を締めている人間が矢面に立つ。
受取証を数えるつもりはなかった。何枚あるかは知っている。引き出しを閉めた。六年で、一枚目だけ黄ばんでいた。
窓の外で風が鳴っていた。雪はまだ降っていない。だが匂いはもう来ている。半日と言った。あと数刻だろう。
机の上の帳簿は閉じたままだった。空欄だらけの帳簿だ。開いても、この手では空欄は埋まらない。河港の帳場でもそうだった。彼女は空欄を埋め、こちらは空欄のまま閉じた。
ヴァイデンの名で来たということは、もうファルケ夫人ではないということだ。六年。ファルケ夫人だった人が、旧姓に戻って、この町に来た。
門は閉めなかった。それだけだ。
帳簿が、閉じたまま机の上にあった。風が窓の隙間から入って、帳簿の角をかすかに持ち上げた。すぐに戻った。
——同じ日、彼女は父の遺した家の窓を開け、六年ぶんの埃を払っていた。




