第10話 為替手形
風が止んでいた。
四年前の冬のことだった。
雪が三日続いていた。国境の関所は白く埋まり、石壁の上にも門の桟にも雪が残っていた。風が止んだ翌朝は、もう一日降る。アルノーは通行税の台帳を閉じた。雪が詰まると商人が減る。今月は荷が七件しか通っていなかった。空欄ばかりの台帳を棚に戻して、石壁の前に立った。窓の外は白い。山の稜線も見えなかった。
指先の感覚がなくなった朝に、早馬が来た。
「辺境伯の弟君。南から早馬でございます」
部下が封書を持ってきた。蝋印はヴェスト家の紋だった。南からの便りは珍しくない。だがこの季節に馬を走らせるのは、急ぎの知らせだった。
開けた。番頭の字だった。
兄が死んだ。五日前、熱が引かなかった。三十一だった。末尾に一行だけ添えてあった。当主を継ぐ者はお前しかいない、と。
封書を畳み直した。蝋印は割れていなかった。番頭が自分で封をして、誰にも見せずに馬に渡したのだろう。
「帰る」
「いつですか」
「今日だ」
「この雪では——」
「街道が凍る前に越える。馬一頭でいい」
「お供は」
「要らない」
「関所は」
「引き継ぎの台帳は副官に渡してある。来月の頭まで副官の判断でいい」
外套を取った。石壁に手をついた。冷たかった。風が止んでいるのに、石だけが冷え続けている。雪はまだ降っていた。
馬を引かせた。鐙に足をかけたとき、門の石が指に残る冷たさだけがまだ消えていなかった。
三日かけて辺境伯邸に着いた。
南に降りるにつれ雪は減ったが、空気の冷たさは変わらなかった。指先の感覚は二日目の朝に戻った。三日目の夕方、街道の向こうに屋敷の屋根が見えた。門の両側に白い布が下がっていた。喪だった。
屋敷の門の前に番頭が立っていた。外套に雪はない。南の冬は乾いている。
「お帰りなさいませ」
「葬儀は」
「七日前に済ませました。お間に合いにはなりませんでしたが」
「遺言は」
「書斎の机にございます」
「先に帳簿を見る。領の収支と借金の台帳を全部出せ」
「……承知しました」
書斎に入った。兄の机が残っていた。椅子に座ると、背もたれが低かった。兄は背が低かった。窓は一つ。その窓から入る隙間風で、いつも首の後ろが冷えると兄が言っていたのを覚えている。机の上の書類は片づけてあったが、引き出しの中は乱雑だった。未開封の封書が三通入っていた。どれも催促のようだった。
帳簿が六冊積んであった。開いた。空欄が多かった。関税の台帳にも、領内の支出記録にも、書かれるべき行が書かれていなかった。兄は帳面を締めるのが得意ではなかった。この机に座って帳面を開き、空欄の前で止まっていたのだろう。二冊目は昨年の歳入だった。通行税の記録が半年で途切れている。三冊目は支出。家令の字で使用人の給金が並んでいたが、金額の横に確認の署名がなかった。兄は帳簿を人に任せて、見もしなかったらしい。
番頭が帳簿を二冊、追加で持ってきた。
「こちらがファルケ家の借金の控え、こちらが南の取引先でございます」
借金の控えを開いた。ローゼン商会からの借入が三万グルデン。ファルケ家の先代が橋の再建で作った借金だ。元本は動いていない。半期ごとの利子だけが支払い済みの印を押されていた。匿名の為替手形にて受領、と台帳の端に番頭の字で添えてある。
「ローゼン商会への利子はどうなっている」
「はい。半年ごとに、匿名の為替手形で届いておりまして——」
「それは俺が出していた」
番頭が一瞬止まった。
「……左様でございましたか」
「二年前から個人の金で出している。兄には言っていない」
「先代もご存じなかったのですか」
「知らなくていい。俺の金だった」
番頭が黙った。帳簿の上に手を置いたまま動かなかった。
「今日から切り替える。領の金庫から出す。個人ではなく辺境伯としての送金にする。ただし、一つ変えない」
「何でございますか」
「名前だ。為替手形にヴェスト辺境伯の名を入れるな」
「……領の金を使うのでしたら帳簿には——」
「帳簿には載せる。だが為替手形の差出には入れない。仲介の商会を一つ立てろ。国境の荷を扱っていて、南にも店がある所だ」
「ハルデンのベッカー商会が適当かと存じますが」
「それでいい。仲介の手数料は領で持つ」
番頭がまだ立っていた。
「お尋ねしてよろしいですか」
「何だ」
「なぜ名前を伏せるのですか」
アルノーは帳簿から目を上げた。
「名前を出せば、あの領に対する債権になる」
「……」
「債権には催促が来る。催促の書状は、帳面を締めている者の机に届く」
「ファルケ家の帳簿を締めておられるのは——」
「伯爵夫人だ」
番頭が何も言わなかった。窓から入る隙間風が帳簿の端を揺らした。
「名前がなければ、ただの匿名の送金だ。どこの誰から来ているか分からない金は、催促のしようがない。帳面に載る行を一行増やさずに済む」
「……承知いたしました」
番頭が下がった。扉が閉まると、書斎の中は兄がいた頃と同じ静けさに戻った。窓の隙間風だけが変わらない。
翌月、ローゼン商会の取引員が来た。
年に一度、北の取引先を回る男だった。四十がらみで、外套の襟に泥がこびりついたまま書斎の扉の前に立った。番頭が通した。
「このたびはご愁傷様でございます。先代にはお目にかかれず残念でございました」
「用件を」
「ファルケ伯爵領の利子の件でございます。匿名の為替手形は今年も届いておりまして、弊社で滞りなく処理しております」
「差出は伝えているか」
「いいえ。先方には『今期の利子は受領した』とだけ通知しております」
「それでいい」
「一件ございます。先方から差出の照会がございました」
「誰からだ」
「奥方様です。『送金元のお名前をお教えいただけますか』という書状をいただきまして」
窓の外を見た。雪は降っていなかった。空だけが白かった。
「答えるな」
「はい。お答えしておりません」
「今後も来るかもしれないが、答えるな。それだけだ」
「承知いたしました」
取引員が懐から帳面を出した。
「もう一件よろしいですか」
「何だ」
「橋のことでございます。ファルケ橋の修繕が続いておりまして、石工の親方が毎年入っております。今年も欄干と護岸の修繕費が出ているようでございます」
「修繕費はどこから出ている」
「詳しくは存じませんが、奥方様のお持ちだした金から出しておられると聞いております。弊社の帳簿員が申しますには、先方の帳面はたいへん丁寧で、修繕の内訳が石ひとつの単位まで記されていると」
持参金だ。三万グルデンのうちから、毎年橋の修繕費を出している。利子を払っているのが自分なら、橋を直しているのはあの人だった。
「……そうか」
「弊社の規定では利子が三月滞りますと、橋の通行税を——」
「止まらない。次の半期も届く」
「ありがとうございます」
「今日のうちに峠を越えろ。明日から風が出る」
「はい。では失礼いたします」
取引員が出ていった。扉が閉まると、外の冷気だけが残った。
夕方、書斎に戻った。
引き出しを開けた。受取証が四枚入っていた。二年ぶんだ。最初の一枚は、国境の任地にいたとき、個人の金で出した為替手形の控えだった。端がわずかに黄ばんでいる。紙の手触りが他の書類とは違う。商会の受取証は薄い紙で、二年もすると指に乾いた感触が残る。二枚目は半年後のもの。同じ額、同じ宛先、同じ空白の差出欄。そのあとも半年ごとに一枚。次の支払いから、領の金に切り替えた五枚目になる。五枚目からは差出の欄に仲介の商会の名が入る。自分の名は入らない。
頼まれたわけではなかった。
頼まれるまで手を出さないと決めていた。風を読み、通行税を数え、帳面に書く。それが国境に立つ者の仕事だ。隣の領の借金の利子を肩代わりするのは、仕事ではない。
彼女が帳面を締めていると知ったのは、嫁いだ翌年の秋だった。南からの便りに一行あった。伯爵夫人が帳簿を見ている、と。持参金の出し入れも、橋の修繕費も、全部あの人の机を通っている、と。帳面を締めるということは、入ってくる金も出ていく金も全部数えるということだ。催促の書状が来れば、それも数える。
利子が三月滞れば、通行税は差し押さえられる。差し押さえの書状は、帳面を締めている者の机に届く。あの人が帳面を開いたとき、そこに催促の行があってはならない。
だから払い続けた。頼まれてもいないのに。
兄が死んで、当主になった。領の金庫を開ける権限ができた。個人の金ではなく領の金で払える。額は変わらない。名前は出さない。出さないまま、払い続ける。いつまでとも決めない。
払ったものを返してもらうつもりはなかった。返してもらう気がないなら、名前は要らない。
今日、彼女がローゼン商会に名前を問い合わせたと知った。あの人は帳面の上で、匿名の金の出所を探している。空欄を見つけたら埋める。昔からそうだった。河港の帳場で隣に座っていたころから。あの人の帳面には空欄がなかった。数字が合わなければ、合うまで消さなかった。
取引員が言っていた。先方の帳面は丁寧だと。修繕の内訳が石ひとつの単位まで書いてあると。あの人は今も帳面を締めている。橋を直しながら。
机の上に為替手形の用紙を広げた。仲介先の名と金額と日付を書き入れた。差出の欄だけが白いまま、墨は乾いた。
窓の外で風が鳴り始めていた。
——同じ冬、彼女は伯爵家の帳簿に、離れの女の最初の請求書を記帳していた。




