第11話 保留
三年前の冬だった。
河港の風は、ぬるい。国境の山を越えてくる空気は、この町に届くころには力を落としている。外套の裾が揺れなかった。この町の冬は、いつもそうだ。
関所から南へ三日。街道を降りるにつれて雪が雨に変わり、雨が曇りに変わった。河港の町に着いたとき、空はただ灰色で、冷たくも暖かくもなかった。冬は、はっきりしているほうがいい。
ヴァイデン男爵の葬儀は、商会の裏手の墓地で行われた。棺に飾りが少ない。貴族の葬列ではなく、商人の手で送られていた。男爵は貴族だったが、最後は商会の墓に入ることを望んだらしい。
参列者は三十人ほどだった。商会の男たちが黒い上着で立っている。取引先の商人が何人か、河港の荷揚げの親方が一人。貴族の姿はほとんどなかった。河の匂いと紙の匂いが混じっている。子供の頃、この商会の帳場で帳面を広げていた。隣の机にはいつもあの人がいた。匂いだけが変わっていない。
「ヴェスト辺境伯様。遠くからお運びいただきまして」
番頭が頭を下げた。ヴァイデン商会の番頭で、二十年以上帳簿を締めてきた男だ。指にインクの染みが残っている。
「穏やかな日だ」
「はい。風もなく、旦那様にはよい日でございます」
「最後まで商会に出ていたと聞いた」
「はい。亡くなる十日前まで。帳簿を開いて数字をご覧になって、指が動かなくなってからは、わたくしが代わりに書きました」
「署名は」
「最後の帳簿まで、ご自分で入れておられます」
棺が墓の前に下ろされた。列が動いた。土が被せられていく。白い幕が垂れたまま、一度も揺れなかった。
男爵は商人だった。指の腹が硬かった。荷を数えてきた手だ。その手で娘に帳簿の読み方を教え、契約書の読み方を教えた。子供の頃、帳場に来るたびにあの手を見ていた。帳面の数字を指でなぞるとき、荷を検める指が丁寧に動いた。あの手は、帳面を閉じずに死んだ。最後の署名だけは、自分で入れた。
参列者が散った。墓の前に残った。商会の男たちが門を出ていく。荷揚げの親方が最後に振り向いて、帽子を脱いで戻した。静かな見送りだった。
外套の内側から石をひとつ取り出して、墓の縁に置いた。関所の壁から剥がれた石だ。北の石で、河港には無い色をしている。他に持ってくるものがなかった。
「辺境伯様。少しお時間をいただけますか」
番頭が戻ってきた。何か言いかけて、一度口を閉じてから続けた。
「旦那様のお机を片づけております。お嬢様のお許しは以前にいただいたのですが、引き出しの奥から一通、辺境伯様宛てのものが出てまいりました」
「……俺宛て」
「はい」
懐から封書を取り出した。蝋印を見た。割れていない。六年前に自分が押した蝋だった。
「引き出しの一番奥に入っておりました。未開封のままでございます」
受け取った。紙一枚ぶんの軽さ。六年前に書いた求婚状だ。任地を発つ朝に書いた。一枚の紙に、名前と、求婚の意と、返事を待つ住所だけ。飾りの言葉は書かなかった。書いたところで、伝わるものが増えるとは思わなかった。中身は覚えている。
「男爵は、これを知っていたのか」
「存在はご存じでした。わたくしにも一度だけ、仰いました」
「何と」
「辺境は遠い——と。それだけでございます」
風がなかった。河港の湿った空気が、首の後ろに貼りついている。国境の乾いた冷たさが遠かった。
「返事は」
「お出しになっておりません。保留されたまま、引き出しに」
「お嬢様には」
「お伝えになっておりません。わたくしも、旦那様がご存命の間は何も申し上げませんでした」
「つまり、保留したまま、何もしなかった」
「……左様でございます」
封書を見た。蝋印が六年前のまま残っている。男爵がこれを受け取り、読まずに引き出しの奥に入れた。返事を書かなかった。娘にも見せなかった。
そのまま三年が過ぎ、男爵が死に、番頭が机を片づけた。
六年前の春だった。任地へ発つ前に従者に預けた。男爵の手元に届けろ、返事は任地に送れ、と。返事が来なかった。夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬に雪が降った。来なかったのではなく、ここにあった。この男の引き出しの奥に。
「……そうか」
「申し訳ございません」
「番頭が詫びることではない」
「辺境伯様——」
「辺境は遠い。間違っていない。俺が出した時期が悪かった」
「……」
「男爵は判断をした。返事が来なかったのは手紙の出し方が悪かったのだと、三年、そう思っていた。引き出しにあったと分かった。それだけだ」
番頭が口を閉じた。墓の前の土は乾き始めていた。風がないから乾くのも早い。
「商会はどうしている」
「わたくしが預かっております。帳簿は締められます。ただ——」
「ただ」
「商会長の署名でございます。番頭には入れられません。帳簿の一行だけが、毎月空欄のまま残ります」
「お嬢様に頼めないのか」
「伯爵家におられますので。お忙しいのは承知しております」
「忙しい」
「はい。伯爵家の帳簿を一手にお引き受けになっていると聞いております。橋の修繕費も、お持ちだした金からお出しになっているそうで」
あの人は、自分の家の帳簿に空欄を残したまま、他の家の空欄を埋め続けている。空いている行を見つけたら埋める。昔からそうだった。自分の家の一行だけ空けたまま、戻ってこない。
「客筋は変わっていないか」
「河港の荷は変わりございません。旦那様が直にお話しになっていた取引先が三つほど、後任のご挨拶が済んでおりませんが、わたくしが回ります」
「ハルデンの家はどうなっている」
「国境の小さなお屋敷でございますか。鍵はこちらで預かっております」
「そのまま預かっておけ。使う者が来るかもしれん」
「どなたか——」
「分からん。来たら鍵を渡せ。それだけだ」
「……承知いたしました」
番頭が不思議そうな顔をした。辺境伯が他人の家の鍵を気にかけるのは、確かに奇妙なことだろう。気にかけているのではない。門は来る者に開ける。鍵もそうだ。
「もうひとつ聞く。縁談を決めたあと、男爵は何かしたか」
「何か、と申しますと」
「何でもいい」
「……婚姻契約書を、ご自分でお書きになりました。弁護士にも番頭にも任せず、条項をひとつずつ、ご自分の手で」
「そうか」
「それだけでございます」
「……ああ。それだけだろうな」
封書を外套の内側にしまった。蝋印の冷たさが、しばらく指に残った。
番頭が頭を下げて商会へ戻った。墓地に一人になった。河の匂いが近い。風のない日は、匂いが低い所に溜まる。
墓の前を離れた。河港の町を出て街道に上がると、少し風が出てきた。山のほうから降りてくる風だった。冷たい。この冷たさが、いつもの冬だ。
あの日から三年が過ぎた。
封書は書斎の引き出しにある。開けていない。中身は自分が書いたものだ。開ける理由がなかった。
昨日、彼女がこの町に来たと聞いた。ヴァイデンの名で、鞄ひとつで。ファルケ夫人ではなく。
あの家を出たということだ。帳簿を締めていた机を離れた。六年、あの家の利子を名前も出さずに払い続けた。あの人があの机で帳面を開いたとき、催促の行が一行も載らないようにするためだった。あの人がいなくなった家の帳面に、催促が載ろうが載るまいが、もう関わりがない。
あの人がいる限り、払い続けるつもりだった。いつまでとも決めていなかった。あの人がいなくなれば止める。それも決めていなかった。決めていなかったが、今日決まった。あの家を支える理由が、あの人と一緒に出ていった。
番頭を呼んだ。
「ローゼン商会への送金を止めろ」
「……今月からですか」
「今月からだ」
「帳簿には何と書きますか」
「書かなくていい。払っていた理由を書かなかったんだ。止める理由も要らない」
「……承知いたしました」
番頭が出ていった。窓の外で風が鳴っていた。西から東に変わり始めている。明日は晴れる。
引き出しを開けた。封書の隣に、受取証が重なっている。最初の一枚だけ黄ばんでいた。六年前、国境の任地から個人の金で出した為替手形の控えだ。指で触ると、紙が乾いている。二枚目からは白い。半年に一枚ずつ増えた。
何枚あるかは、数えなかった。
引き出しを閉めた。未開封の封書と、数えていない受取証が、暗い中にそのまま残った。
——同じ日、彼女は父の商会の帳簿を開き、三年ぶんの空欄を数えていた。




