第12話 金庫の底
朝の食堂で、給仕が皿を二枚並べた。半月前まで三枚だった。三枚目がどこへ行ったかは知っている。三枚目がどんな音を立てていたかは、思い出せない。
食事のあと、帳簿部屋へ向かった。金庫の鍵は、昨夜ベルントから借りた。どこにあるのかと聞いたら、一拍置いて「お預かりしております」と答えた。僕は六年、この金庫の鍵がどこにあるかを知らなかった。
金庫を開けたとき、音がしなかった。
鉄の扉が枠から離れる。蝶番がきしんだ。それだけだった。硬貨が擦れ合う響きがない。帳簿を持ち上げれば下の袋がずれるはずの、あの鈍い音がしない。
底が見えていた。灰色の鉄板。その上に帳簿が積まれている。帳簿の隣にあったはずの袋がない。いつからないのかは分からなかった。この金庫を自分で開けたのは、今日が初めてだった。
静かだった。
「旦那様」
ベルントが帳簿部屋に入ってきた。灰色の上着にインク壺。いつもの姿だ。ただ、隣の机に誰もいない。一月前からあの机は空いている。ペンの音がしない。机の上にインク壺とペン立てと紙挟みが残っている。持ち主だけが出ていって、道具がそのまま置いてある。
廊下を通るたび、何かの音がしていた気がする。何の音だったかは思い出せない。今はただ、静かだった。
「旦那様。こちらをご覧いただきたく」
帳簿を一冊差し出した。表紙に『ヴァイデン持参金出納帳』と書いてある。
「これは」
「奥様がおつけになっていた帳簿でございます。持参金の出入りを六年ぶん」
「いつから」
「嫁がれた翌月からでございます」
「僕は見たことがないな」
「……お求めがございませんでしたので」
開いた。最初の頁に三万グルデンとある。持参金の総額だ。その下から支出の行が始まっていた。
橋の修繕費——百二十グルデン。百五十。百八十。二百。年ごとに増えている。領の収入の不足分。離れの家具の新調。馬車の購入。使用人の冬の衣服。蝋燭。花代。
整った字だった。崩れのない楷書で、一行ずつ書いてある。支出のたびに、誰のための出費かが冒頭に入っている。
頁をめくった。
『食堂改修 千二百グルデン』。食堂の壁を塗り替えたのは四年前だ。あれも持参金だったのか。
『領主主催 秋の宴 七百グルデン』。あの宴は僕が開いた。近隣の貴族を招いて、マリカを紹介した夜だ。あの宴の費用を、彼女が持参金から出していた。帳簿にそう書いてある。
『使用人冬季被服 八十グルデン』。使用人の冬服は毎年支給されている。当然のことだと思っていた。当然のことに金が要ることを、帳簿に書かれるまで考えたことがなかった。
「これは全部、持参金から」
「左様でございます。通行税の収入だけでは賄えず、日々の運営は持参金が支えておりました」
「離れの支出も」
「すべて記帳されております。月ごとに」
『寵姫様の馬車の塗り替え代 四百グルデン』
その行で指が止まった。寵姫様、と書いてある。彼女の字で。
馬車の紋を塗り替えたいとマリカが言った日のことは覚えている。君なら気にしないだろう——そう言った。彼女は何も言わなかった。何も言わずに、帳簿に一行書いた。そのとき何を思っていたのかは聞かなかった。聞くことでもないと思っていた。妻の仕事だ。
さらに頁をめくった。六年ぶんの数字が並んでいる。毎月、空欄がなかった。一行も抜けずに、支出と残高が律儀に続いている。月に一度この帳簿を開き、数字を入れ、金庫に戻していた人がいた。病んだ日も、宴の日も、マリカが離れに来た日も、この帳簿に数字が入っている。一行も抜けずに、六年通した。
「ベルント。この金庫は」
「奥様が毎月お開けになっておりました」
「毎月」
「はい。帳簿を出し入れし、残金を確かめておられました」
「残高は」
「最後の頁をご覧ください」
最後の頁を開いた。二百四十グルデン。三万グルデンのうちの、残りだった。
「返還は」
「第十二条に基づく離縁でございますので、全額返還でございます」
「全額。三万を」
「左様でございます」
「二百四十で三万を返す方法は」
「……ございません」
「では」
「領の収入から積み立てるか、あるいは——」
ベルントが言葉を切った。あるいは何があるのか、僕には分からなかった。
帳簿を閉じかけて、やめた。表紙の文字を見ている。この帳簿を六年つけた人は、もうこの家にいない。六年で七十二冊の帳簿を締め、七十二回の月末にこの金庫を開けた人がいない。
僕は一度も、見せてくれとは言わなかった。家のことは回っていた。回っていたのだから、言う必要がなかった。
昼過ぎ、門番が来客を告げた。
「石工の親方が参っております」
ハンスが中庭に立っていた。石粉で白くなった前掛けのまま来ている。白い髪。左手の指が二本短い。先代の橋の工事で失った指だ。
「ハンス。どうした」
「橋の修繕の件で参りました。今年の支払いが来ておりません」
「支払い」
「毎年この時期に奥様からいただいておりました。帳簿を見せてもらって、どこを直すか決めて、金額を出して。六年、ずっとそうしておりました」
「今年の見積もりは」
「二百六十。護岸と欄干を合わせてだ」
「去年は」
「二百。奥様に伝えた」
「奥様にだけ」
「ええ。毎年、奥様と話をつけていた」
「あの橋は、修繕を止めると五年で使えなくなる。先代の工事で、川の水に弱い石を使っている。毎年手当てしないともたない」
「それも奥様に」
「言ってある。伯爵様には——」
「聞いていない」
ハンスの小さな目がこちらを見ていた。橋を見るときの目だ。
「奥様が出してた。伯爵様は知らなかったのか」
「……知らなかった」
「そうか」
ハンスが石粉のついた手を前掛けで拭いた。
「職人が二十人いる。橋が止まると、二十人の食い扶持が止まる」
「……確認する。少し待ってくれ」
「待つ。ただ、石は待たない。冬までに欄干を手当てしないと、春の雪解けで崩れる」
「分かった」
「奥様は石の種類を毎年聞いてきた。どの石を使うか、なぜその石がいいのか。帳簿に書くときに間違えたくないと言っていた」
「……」
「奥様は毎年、春と秋に橋を見に来ていた。石の割れを指で触って確かめていた。今年の秋は、来ていない」
ハンスは頭を下げ、門を出るとき橋のほうを一度だけ見て帰った。
窓の外が静かだった。毎年この時期、石を叩く音がしていたはずだ。修繕の音。今年はしていない。あの音がしている日は窓を閉めていた。うるさいと思ったことがある。今年は閉める必要がない。
橋が使えなくなったら、河港の通行税は入らない。通行税は領の収入の六割だと、以前ベルントが言っていた。額は覚えていない。どの帳簿の何頁に載っているかも知らない。彼女は知っていた。
夕方、ローゼン商会の使者が来た。
帳簿部屋に通された男は、商会の紋の入った外套を着ていた。
「ファルケ伯爵様。ヴェスト辺境伯領からの利子の支払いが、先月末の期日を過ぎても届いておりません。ご確認をお願いいたします」
「利子の支払い」
「六年前より半年ごとに、辺境伯領からの為替手形で受領しておりましたが、今期は届いておりません」
「為替手形の差出人は」
「名はございませんでした。匿名の手形でございます」
「ベルント」
ベルントが使者の後ろから一歩出た。
「隣領が利子を払っていたのか」
「はい。六年前から。ローゼン商会から受領の知らせが届いておりました」
「なぜ報告しなかった」
「ご報告いたしました。三年前の冬と、昨年の春に」
「僕は何と言った」
「……後で読む、と仰いました」
六年前から匿名で利子を払っていた者がいた。その者が止めた。なぜ払っていたのかも、なぜ止めたのかも、分からなかった。
使者が姿勢を正した。
「ご返答はいかがいたしましょう」
「……確認して連絡する」
「利子の滞納が三月を超えますと、契約に基づき橋の通行税の差し押さえとなります。念のためお伝え申し上げます」
「三月」
「左様でございます。支払期から半月が過ぎております」
「承知した」
使者が出ていった。門の閉まる音がして、静かになった。
「ベルント。あと何月だ」
「二月半でございます」
通行税が差し押さえられたら、領の運営も止まる。その先はどうなるか——契約書に書いてあるはずだ。読んでいない。先代も読まなかった。
「旦那様」
「何だ」
「今後の帳簿は、わたくしがお締めいたします」
「……頼む」
ベルントが一礼して出ていった。溜息が聞こえた気がした。いや、聞こえていない。溜息は六年前から毎日していたはずだ。署名を渡すたびに一つ。数えたことがなかった。今まで聞こえなかっただけだ。
帳簿部屋に音がなかった。ペンの音も、硬貨を数える音も。食堂の朝の皿が一枚減って、半月になる。何の音が減ったのかは、しばらく分からなかった。
金庫の扉が開いたままだった。灰色の底が見えている。出納帳が机の上に残っている。端正な楷書。六年ぶんの数字が、この一冊に収まっていた。
——同じ夕方、彼女は国境の町で、冬支度の帳面をつけていた。
仕事の途中に声をかけられると、返事をした瞬間に、考えていたことがどこかへ行ってしまうことがありますね。
「今どこまでやったっけ」と戻りかけたところへ、次の用件。
そのたびにきちんと応じるベルントさんを見ていると、扉に「ただいま休憩中」の札をかけたくなります。
ただし、札を作る仕事までご本人に頼まないように。
お茶を届けるなら、置いたあとに長話をしないところまで気をつけなくてはいけませんね。




