第13話 代
音のしない朝が、一月余り続いていた。
帳簿部屋の扉をベルントが開けたとき、紙擦れの音だけが入ってきた。書類を二通、胸に抱えている。一通は薄い。もう一通は端が黄ばんで、綴じ紐が擦り切れかけていた。
「旦那様。お目通しをいただきたく」
「何だ」
「婚姻契約書の写しでございます。金庫にございましたものを」
新しいほうの書類を机の上に置いた。表紙に『ファルケ家・ヴァイデン家 婚姻契約書 写』。六年前の日付だ。
「なぜ今見せるのだ」
「……ご覧いただくべき時が来たと存じます」
「中身は聞いている。彼女が読み上げた」
「承知しております。署名の欄を、ご覧いただきたく」
「署名」
「はい。最後の頁でございます」
開いた。頁をめくった。第一条。婚姻の成立。第二条。持参金の額と引き渡しの手順。第三条。帳簿の管理。条項が並んでいる。整った字だった。崩れのない楷書で、一条ずつ丁寧に書いてある。出納帳の数字と同じ手だ。あの帳簿を六年つけた人の父親が、同じ字で全条項を書いている。
最後の頁。署名欄が二つ並んでいる。右に『リーゼル・ヴァイデン』。一画ずつ止めてあった。
左に『ユリアン・ファルケ』。
自分の名前だが、自分の字ではなかった。名前の横に小さな文字がひとつある。
「『代』」
「はい」
「これは君の字か」
「私の字でございます」
ベルントが一歩前に出た。
「私が、代わりに署名いたしました」
「いつだ」
「九月十三日、お式の三十日前でございます。前日に委任状をいただき、ご署名をお済ませくださいと二度お伝えいたしましたが——」
「後で読むと言ったのか」
「……左様でございます」
後で読む。利子の報告にも、帳簿の決算にも、橋の修繕の報告にも、同じ言葉を返していた。いくつ溜まったのかは知らない。後で、は一度も来なかった。六年ぶんの後で、がこの署名欄の隣に積んである。
「僕はこの契約書を、見せてくれと頼んだことがあるか」
「……ございません」
「六年、一度も」
「はい」
「男爵がこれを書いたとベルントは言ったな」
「はい。全十二条、ご自分の手でお書きになりました」
「彼女の署名は」
「ご自分で入れておられます」
「つまり、書いた人も、その娘も、全条項を読んで自分の名を書いた」
「左様でございます」
「僕だけが読んでいない」
「……」
ベルントは答えなかった。
二つの署名が並んでいる。右は本人の字。左は補佐官の字。書いた人と読んだ人が右にいて、読まなかった人の名前だけが左にある。六年前からこの紙の上に、並んでいた。
第十二条を読み直した。六年、嫡子なき場合。持参金の全額。夫の同意を要しない。あの朝、彼女が食卓で読み上げた言葉が、ここに書いてある。彼女の声で聞いた。だが文字で見たのは、今日が初めてだった。
ベルントがもう一通を取り上げた。
黄ばんだ紙。綴じ紐が擦れている。婚姻契約書より薄く、頁が少なかった。
「もう一通は何だ」
「先代の橋の再建契約でございます」
「父上の」
「はい。十二年前のものでございます」
婚姻契約書の隣に並べた。二通の書類が、同じ机の上に置かれている。
「なぜこれを持ってきた」
「お見せすべきものと存じましたので」
「……開けるか」
「お願いいたします」
開いた。工費の額が最初の頁にある。桁が多かった。条項は七つ。工期、資材、支払いの方法。婚姻契約書より短い。
「工費はいくらだ」
「一万二千グルデンの予定でございました。実際は三万六千になりました」
「三倍」
「はい」
「最後の頁を」
署名欄。施工者の名前と印。その隣に『ヴィルヘルム・ファルケ』。
横に、小さな文字。
「……『代』」
「はい。こちらも、私が書きました」
同じ字だった。婚姻契約書の『代』と、橋の契約書の『代』。筆圧も大きさもほとんど変わらない。六年の間を置いて書かれた二つの字が、同じ人の手で、同じ形をしている。
「先代も署名を任せていたのか」
「はい。先代の頃から、契約書の署名は私が務めておりました」
「なぜ読まなかったのだ」
「……先代も仰いました。ベルントが見ている、と」
「僕もそう言っていたか」
「……はい」
「この契約書を読んだのか。先代は」
「先代も、お読みになりませんでした」
聞こえた。
ベルントの声は毎日この部屋にあった。帳簿の数字を読み上げ、利子の報告をし、署名の要否を伝えた。どれも同じ音だった。耳には届いていた。ただ、意味になる前に通り過ぎていた。
今のは、通り過ぎなかった。
「……先代も」
「はい」
「読まなかったから工費が三倍になったのか」
「第四条に、資材の変更には双方の書面による合意が要ると記してございます。先代はご存じなく、施工者が資材を二度替えた際に異議を出されませんでした」
「三万グルデン」
「借金の総額でございます」
「その借金を返すために持参金が要った」
「はい」
「持参金の契約書も読まなかった」
「……左様でございます」
「父も読まなかった。僕も読まなかった」
「……」
「同じことを、二度やったのか」
「……左様でございます」
二通の書類が並んでいる。十二年前の橋の契約と、六年前の婚姻の契約。読まなかったから借金ができた。読まなかったから去られた。どちらの署名欄にも同じ人の字がある。どちらの当主も、読まなかった。
父の顔を思い出そうとした。書斎の机に座って、何かの書類を広げていた姿がある。広げてはいた。読んでいたかどうかは分からなかった。
「ベルント」
「はい」
「この家で、契約書を読んだ者はいるか」
「奥様が読んでおられました」
「彼女だけか」
「……左様でございます」
「君は両方とも読んでいたのか」
ベルントが口を閉じた。一拍。それから答えた。
「読んでおりました」
「読んでいて、何も言わなかった」
「主の署名は主のものでございます。中身は——主がお読みになるものと」
「読まなかったのは僕だ」
「……」
「君に読ませたのも僕だ」
ベルントが何も答えなかった。
インク壺を持った手が、わずかに下がった。あの手で、二十六年、帳簿を書いてきた。利子の額を書き、持参金の残高を書き、橋の修繕費を書いた。そして契約書に、主の名前の横に『代』と書いた。主が読まない紙に、自分の字を入れ続けた。
夕方、門番が来客を告げた。
「ローゼン商会の方が参っております」
帳簿部屋に通された男は、前回と同じ外套を着ていた。商会の紋が襟にある。
「ファルケ伯爵様。催告状をお持ちいたしました」
封書を差し出した。封を切った。
『先月末の支払期を過ぎても、辺境伯領からの利子の支払いが届いておりません。三月の滞納をもって契約に基づき橋の通行税を差し押さえます。至急のご対応をお願い申し上げます』
「前回のご連絡に対しまして、ご回答をいただいておりません」
「……承知している」
「残りは二月余りでございます」
「ベルント」
ベルントが使者の後ろから一歩出た。
「差し押さえの条件はどの契約書に書いてある」
「先代がローゼン商会と結ばれた契約書の第七条でございます」
「その契約書を読んだか。僕は」
「……読んではおられません」
使者が姿勢を正した。
「いかがいたしましょう」
「……二月以内に回答する」
「承知いたしました」
使者が頭を下げて出ていった。門の閉まる音がした。
「隣領が六年払い続けた利子を止めた」
「はい」
「なぜ止めたのだ」
「……分かりかねます」
「匿名の為替手形だと言っていた」
「左様でございます」
「名も知らない者が六年払い、理由も知らせず止めた」
「……」
「ベルント。金庫から出してくれ。ローゼンとの契約書を」
「……旦那様」
「読む」
ベルントが小さく頭を下げた。金庫のほうへ歩いていく。鍵を開ける音がした。あの人が毎月開けていた金庫だ。同じ音なのかどうかは分からなかった。
薄い書類を持って戻ってきた。
「こちらでございます」
受け取った。三通目だった。今日、三通の契約書を手に取った。六年で一通も開かなかった手が、一日で三通を開いている。
条項が並んでいる。利子の利率。支払いの期日。延滞の場合の措置。文字が小さかった。
「第七条はどこだ」
「三枚目の中ほどでございます」
第七条。
『利子の滞納が三月を超えた場合、貸し手は通行税収入を差し押さえる権利を有する』
「……書いてある」
「はい」
「十二年前から書いてある」
「左様でございます」
「通行税が止まったら、領は」
「収入の六割を失います」
窓の外で、荷馬車が橋を渡る音だけがしていた。車輪が石の上を転がり、板の継ぎ目で跳ねる。石を叩く修繕の音はしない。通行税を払って渡る音が、まだ聞こえている。
あの音がいつまで続くかは、あと二月余りで決まる。
机の上に書類が広がっていた。婚姻契約書と橋の再建契約が、開いたまま並んでいる。どちらも最後の頁で止まっている。どちらの署名の横にも、小さな『代』の字があった。同じ筆で、同じ大きさで書かれた字だ。十二年前と六年前。二つの字の間に、ベルントの二十六年がある。
催告状が、封を切られたままその横に置いてある。三通の紙が同じ机の上に広がっていた。
——同じ日、彼女は国境の町で、父の帳簿に自分の名を書き入れていた。




