第14話 四百グルデン
マリカが昼過ぎに食堂へ来たのは、四年で初めてのことだった。
いつもは離れで過ごし、食堂に姿を見せるのは朝の給仕が皿を下げた後だけだった。今日は皿が並んだままの時間に、扉を押して入ってきた。先月と同じドレスだった。先月より前は、毎月替えていた。
「ユリアン様」
「マリカ。どうした」
「衣の注文を出したら、今月は支払いが難しいと言われたの」
声が甘くなかった。四年のあいだ、この人の声にはいつも柔らかさがあった。何かを頼むときも、機嫌のいいときも。今日はそれがない。
「誰に言われた」
「家令に」
「……そうか」
「お金が無いの? 本当に」
「足りてはいない」
「来月も?」
「……分からない」
「宴も開けないの」
「しばらくは難しい」
マリカが黙った。薄い青の目がこちらを見ている。潤んではいなかった。四年で初めて、乾いた目だった。
「お金が無いなら、わたしがここにいる意味がないじゃない」
声が食堂に落ちた。天井にも壁にも当たらず、そのまま落ちた。
マリカは答えを待たなかった。ドレスの裾を返して、離れのほうへ歩いていった。靴の音が遠ざかった。
食堂に一人残されていた。皿がまだ並んでいる。二枚。一月前まで三枚だった。三枚目がいなくなって、二枚目もいなくなろうとしている。
右の椅子が目に入った。女主人の席だ。一月半前まで誰かが座っていた。今は寄せてある。その隣にマリカが座っていたことは、六年で一度もない。
——意味。
その一言を繰り返していた。意味がない。金が無ければ。返す言葉はなかった。返す言葉を探す前に、あの一言がどこかで正しいことに気づいてしまった。
帳簿部屋は一月半前から静かだった。
「ベルント」
「はい、旦那様」
「帳簿を出してくれ。彼女がつけていた帳簿を、全部」
「……全部でございますか」
「六年分だ」
ベルントが金庫と棚のあいだを往復した。灰色の表紙の帳簿を一冊ずつ机の上に積んでいく。二段。三段。同じ大きさの帳簿が重なっていった。
「何冊ある」
「七十二冊でございます」
「月に一冊か」
「はい。六年で七十二」
灰色の表紙が机を埋めていた。一冊目から七十二冊目まで、厚さはほとんど変わらない。毎月同じ大きさの帳簿を一冊ずつ書き続けた人がいた。六年。
「読む」
一冊目を開いた。最初の頁に日付がある。六年前の秋。婚姻の翌月だ。
数字が並んでいた。整った楷書で、項目と金額が交互に書いてある。厨房の食材費。蝋燭代。使用人の被服修繕。
「嫁いだ翌月から書いていたのか」
「はい。初日に帳簿の棚を確かめられました」
「初日に」
「先代の頃の帳簿が三冊、空欄のまま残っておりまして。その空欄を先に埋めてから、ご自分の帳簿を始められました」
「他人の空欄を、嫁いだ初日に」
「はい」
二冊目を開いた。三冊目。冬の暖房費。窓の修繕。年末の贈答。金額の横に、どの部屋の、何のための出費かが一行ずつ添えてある。支出のたびに誰のためかが書いてある。父の商会で教わった帳簿のつけ方だとベルントが以前言っていた。
「これは全部、彼女が書いたのか」
「すべて奥様の手でございます」
「一度も間違えていないのか」
「月末の照らし合わせで、差額が出たことは六年で一度もございません」
「六年で一度も」
「はい」
頁をめくった。花代が毎月載っていた。
「この花代は」
「食堂と帳簿部屋の花でございます。奥様が花屋と値を確かめておられました」
「花の値を」
「一輪ずつ見て、割高なものは替えておいででした」
三グルデン。五グルデン。四グルデン。花の値段を毎月確かめていた人がいた。
別の頁に、橋の修繕費の明細があった。石の種類が書いてある。
「この石種確認代は」
「ハンスの工房から石の見本を取り寄せた費用でございます。奥様がどの石を使うか確かめてから発注しておいででした」
「石の種類まで」
「毎年でございます」
三グルデン。石の見本の取り寄せに三グルデン。花と同じ額だった。石の種類を確かめてから頼む。花の値段を一輪ずつ確かめてから買う。三グルデンを惜しんだのではない。三グルデンの使い方に嘘がないかを、毎回確かめていた。
四冊目に入った。二年目の秋。項目が増えていた。
離れ 調度品搬入 三百五十グルデン。
「マリカが入った月か」
「はい。翌月の帳簿でございます」
離れ 寝台飾り板張替 百二十グルデン。窓掛け新調 九十グルデン。衣装代。花代。髪飾り。
二年目から毎月、離れの項目が並んでいた。橋の修繕費と同じ字で、使用人の冬服と同じ字で、一つずつ丁寧に書いてある。誰のための出費であっても、字が変わらなかった。
「この離れの支出は、全部彼女がつけていたのか」
「はい。離れの請求書も、奥様が確かめて帳簿に入れておられました」
「離れの支出は年間でいくらだ」
「三年目以降は千五百から二千グルデンでございます」
「六年で」
「合算いたしますと、八千グルデンほどかと」
「持参金の四分の一以上か」
「……左様でございます」
頁をめくり続けた。三年目。四年目。五年目。字が変わらなかった。離れの支出が増える月も、橋の修繕費が跳ね上がる年も、筆圧も行の幅も崩れていない。
「ベルント。五年目の冬の帳簿を見せてくれ」
「こちらでございます」
開いた。離れの支出が並んでいる。衣装代三着ぶん。花代。馬の維持費。その月は合計で二百三十グルデンを超えていた。通行税の六割をこの離れが食っている。彼女はそれを毎月数えて、毎月帳簿に入れていた。
月に一度この帳簿を開き、数字を入れ、金庫に戻した。それを七十二回繰り返した人がいた。
隣の机を見た。彼女がこの部屋で使っていた机だ。一月半前から空いている。ペンとインク壺と紙挟みがそのまま残っている。道具だけが残って、使う人がいなくなった机だった。
あの机で帳簿を開いていた。七十二冊を、あの机で。この部屋に通うたび、廊下の先からペンの音がしていたはずだ。僕は一度もこの部屋に入って帳簿を見せてくれと言わなかった。
「ベルント」
「はい」
「彼女は帳簿をつけるとき、何か言っていたか」
「何も仰いませんでした」
「何も」
「……一度だけ」
「何を言った」
「——帳簿に嘘は書きません、と」
五年目の帳簿の中ほどで、手が止まった。
寵姫様の馬車の塗り替え代 四百グルデン。
前の行に橋修繕費 護岸第三工区 二百グルデンがある。次の行に使用人 冬季被服 八十グルデンがある。橋と使用人の冬服のあいだに、寵姫の馬車がある。
「この行を覚えているか」
「……はい」
「あの日、僕は何と言った」
「……」
「妻の仕事だと。礼を言うことじゃないと」
「……左様でございます」
出納帳で見たときは金額だった。持参金がまた四百減った。それだけだった。四百グルデン。職人の月給二十人ぶんだ。大きな額だと思った。だが出納帳では、大きな額が減ったという以上の意味を読めなかった。
帳簿のなかでは違っていた。橋の石を直した記録の隣に、使用人の冬服を数えた記録があり、その次にこの行がある。石の見本に三グルデンを使い、花の値を一輪ずつ確かめていた人が、同じ日に四百グルデンの行を書いた。同じペンで。同じ字で。三グルデンを確かめていた手が、四百グルデンを書いている。
——君なら気にしないだろう。
あの日、そう言った。彼女は何も言わなかった。僕が出ていったあと、ペンを取り、項目欄にこう書いた。寵姫様の馬車の塗り替え代。嫌味ではない。正しい記帳だ。支出には誰のためかを書く。父の商会で教わった帳簿のつけ方だ。
あの日のことを覚えている。僕が帳簿部屋を出るとき、彼女は机に残っていた。自分の靴音だけが廊下に響いた。そのあとの音は覚えていない。ペンを取って、この行を書き始めた音。聞こうとしなかった。
——その正しさが、聞こえた。
帳簿の数字が音を持ったのは、初めてだった。六年、帳簿部屋の前の廊下を通っていた。ペンが紙を走る音がしていたはずだ。一度も聞こえなかった。聞こうとしなかった。
今、七十二冊のなかの数字が一行ずつ鳴っている。百二十グルデン。九十グルデン。二百グルデン。四百グルデン。修繕費。花代。蝋燭代。寵姫様の馬車の塗り替え代。
帳簿を読み上げる彼女の声を、一度も聞いたことがない。なのに聞こえた。
「ベルント」
「はい」
「彼女のペンの音を聞いていたか。六年」
「……毎日でございます」
「どんな音だった」
ベルントは答えなかった。答える代わりに、隣の机を見た。ペンとインク壺と紙挟みが残っている。座る人だけがいない。
怒りが来なかった。
怒りたかった。誰かに向かって声を上げたかった。マリカは「意味がない」と言った。あの一言に怒ればいいのか。違う。金が無ければ意味がない——それは正しい。
では僕に怒ればいいのか。読まなかった僕に。聞かなかった僕に。「妻の仕事だ」と言って六年分の帳簿を一言で消した僕に。
怒ればいい。だが怒りの形をしていなかった。誰かを責めれば済むものではなかった。七十二冊のなかに答えはずっとあった。読まなかっただけだ。聞こうとしなかっただけだ。
彼女は六年のあいだ、毎月この帳簿に数字を入れていた。離れの支出を書くときも、橋の修繕費を書くときも、同じ字で書いていた。怒りも嘆きも書かなかった。帳簿に書いたのは数字だけだった。数字だけで、全部書いてあった。
帳簿を閉じた。表紙に彼女の字で年月が書いてある。
夕方、食堂へ行った。
長い食卓に椅子が並んでいる。主人の席。その右に女主人の席。六年、ここに座っていた人がいた。朝ごとに皿の数を数え、来ない人の分を数え、余った一枚を下げさせた。そのあとで帳簿部屋に入り、今日の支出を書いた。
椅子はテーブルの縁にきちんと寄せてあった。引かれていない。座面に埃は積もっていなかった。座る人がいなくなっても、誰かが拭いている。
座らなかった。椅子の前に立って、座面を見ていた。ここに座っていた人は、朝ごとにこの角度で食卓を見ていた。皿の数を数え、来ない人の分を数え、余った分を下げさせた。それから席を立って帳簿部屋へ行き、今日の支出を書いた。毎朝。六年。
窓の外から荷馬車が橋を渡る音がかすかに聞こえた。車輪が石の上を転がっている。あの音がいつまで続くかは、あと二月ほどで決まる。
昼過ぎ、マリカは「意味がない」と言った。この椅子に座っていた人は、意味について何も言わなかった。帳簿には意味も感情も書かない。金額と日付と項目だけを書く。六年。七十二冊。四百グルデン。
あの行は帳簿のなかにまだある。十年後にこの帳簿を開く人がいたら、あの一行で全部分かる。誰の馬車に、誰の紋を、いくらで描いたか。そしてその行を書いた人がどれだけ丁寧に帳簿をつけていたかも。
椅子は空いていた。
——同じ日、彼女は国境の町の市場で、冬の塩の値を一割引かせていた。




