第15話 一割
粗塩の山に、去年の粒が混じっていた。
国境の町ハルデンの市場は小さい。伯爵領の市場の三分の一もない。通りに二列、冬支度の店が並んでいるだけだ。塩と干し肉と、毛織物が少し。北からの風が荷馬車の帆を鳴らし、塩の山が朝日を浴びて白く光っている。
リーゼルは塩の前で足を止めた。粒の揃い方が違う。今年の粗塩は角が立っている。去年の残りは湿気を吸って丸くなる。山の底のほうに丸い粒が混じっていた。
「冬の粗塩、十キロ。いくらですか」
「八グルデンだ、奥さん」
「七と十二クロイツァーで」
「……は?」
「去年の残りが混じっています。底のほうの粒を見てください。丸い」
売り手が塩の山に手を入れた。底の粒を指先に載せ、眉を寄せた。
「……細かいな、あんた」
「混ぜ物の分だけ引いています。明日までに売らないと、今年の分まで湿りますよ」
「七と二十四でどうだ」
「七と十二。一割です」
売り手が秤を引き寄せた。溜息混じりに塩を載せ始める。
(一割。お父様に教わった値引き幅だ。多く引けば相手の生計を食う。少なく引けば正直者が損をする。一割は、正しい幅。売り手の溜息が出たところで止める。それ以上引いたら次から別の値をつけてくる)
「奥さん、この辺の人じゃないだろう」
「一月前から」
「どこから来た」
「南のほうから」
それ以上は聞かなかった。売り手は塩を量り終えると、袋に紐を結んで寄越した。ずしりと重い。十キロの正直な重さだ。
(お父様の商会では当たり前のことだった。六年ぶんの帳簿を締めても、指先が覚えている勘定は同じだ。伯爵家の帳簿部屋で花代を一輪ずつ確かめていた手が、今度は塩の粒を確かめている。場所が変わっただけで、やっていることは変わらない)
代金を渡して、隣の干し肉の店に移った。吊るされた肉の列を見上げる。端の二本だけ色が薄い。
「この二本、塩の入りが少ないわ」
「……入荷が遅れた分だ」
「では正しい値をお願いします」
「六グルデンだ」
「五と二十四で。一割」
「あんたも一割か。さっきの塩屋から溜息が聞こえたぞ」
「正しい分だけ引いています」
「分かった分かった。五と二十四だ」
(値切りすぎたことは一度もない。——値段を見ると計算せずにいられない。弱点だ。お父様の血だ)
塩の袋を肩にかけ、干し肉を手に持って市場を歩いた。毛織物の店の前で足が止まった。棚に並んだ織物の端が風に揺れている。三枚のうち一枚だけ織りが粗い。糸の太さが揃っていない。
「この一枚、糸が揃っていないわ」
「……値はまだつけていない」
「十八で出すなら合う。他の二枚は二十でいい」
「買うのか」
「見ただけ。ごめんなさい」
「あんた、さっきの塩と肉の人か」
「……一割の人です」
(値をつけるなら、と思っただけなのに口に出していた。弱点だ)
棚と棚のあいだに隙間がある。伯爵領の市場なら、あの隙間に別の店が入る。棚の端に空いた場所が目に入る。ものを売る人がいない跡だ。この町の市場は小さい。空いた場所が多い。
(空いた場所を数えてしまう。やめなさい。この町まで持ってこない。ここには帳簿部屋も金庫もない。空欄を埋める机もない。——それでいい。それでいいのだと、一月かけて覚えているところだ)
市場の外れを抜けると、関所の石橋が見えた。
古い橋だった。欄干の石がひとつ欠けている。手を置く高さの少し下——石工なら最初に直す場所だ。ファルケ橋の欄干を思い出しかけて、やめた。あの橋にはハンスの印があった。この橋には誰の印もない。欄干の欠けた場所のそばに、雑草が石の隙間から伸びている。修繕の手が入っていない橋だ。
関所の番小屋の前を通りかかったとき、台帳が目に入った。通行記録だ。開いたまま木の台に載っている。数字の行のあいだに空欄がある。三行ぶん、荷の品目が書かれていない。数量だけ入って種類が空だ。
(空欄が三つ。——見なかった。見なかった。頼まれていない)
足を速めたとき、橋の向こうから蹄の音がした。
黒い外套の男が馬を降りた。飾りのない外套だ。北の国境を歩く人間の、実用だけの装い。背が高い。猫背にならない。濃い灰色の目が番小屋のほうを見て、こちらに移った。
右の眉に古い傷がある。六年前と同じ場所にある。
六年ぶりだった。
「ファルケ夫人」
短い声だった。風が止まる前の空気のように、低くて乾いている。
「もう違います」
塩と干し肉の袋を持ったまま答えた。声は揺れなかった。一月半前に届を出した。受理されている。わたしはもうファルケ夫人ではない。事実を言っただけだ。
「……そうか」
アルノー・ヴェスト。ヴェスト辺境伯。幼い頃、河港の波止場で一緒に荷を数えた。六年のあいだ、こちらは「辺境伯様」、向こうは「ファルケ夫人」と呼んだ。子供の頃の名前は、呼び方の裏に隠れたままだった。
六年前、この人が国境の任地へ発つ前に一度だけ会った。河港で。荷の番号を二人で数えたのが最後だった。何を話したか覚えていない。話さなかった気もする。この人とは、話さなくても隣にいた。
「アルノー」
辺境伯様、とは言わなかった。こちらが先に外した。六年ぶんの敬称が落ちた。指輪を外した朝と似ていた。軽い。
アルノーの右眉がわずかに動いた。傷が動く。笑うと動く傷だ。笑ってはいなかった。
「……いつからここに」
「一月前。父の家がある」
「知っている」
「鞄ひとつだった」
「ええ」
「帳簿は」
「全部置いてきた。七十二冊」
「七十二」
(数を繰り返す。この人はいつもそうだ。聞いて、繰り返して、黙る。わたしが鞄ひとつで歩いて来たのも、一月前に見ていたのだろう。何も言わなかった。見ていて、言わない)
「父の家、雨漏りはないか」
「ない。屋根は父が直したまま」
「石垣の下の水はけが悪い。春に水が出る」
(家のことまで知っている。この人の目は関所の荷馬車だけでなく、通りの家の石垣まで届いている。——なのに、自分の台帳の空欄には気づいていないのだろうか。気づいていて、埋められないのか)
「市場の帰りか」
「ええ。冬の支度」
アルノーが塩の袋に目をやった。
「重いな」
「十キロ。一割引かせた」
「一割」
「粗塩に去年の残りが混じっていたの。正しい値引きよ」
アルノーの口元がかすかに動いた。眉の傷も動いた。
「商人だな」
「男爵の娘よ。商人もするけれど」
「塩を担いで坂を上がるのか」
「十キロくらい、上がれるわ」
「馬を出す」
「いらない。自分の買い物は自分で持つの」
「……そうか」
「この町は変わったか。六年で」
「市場が小さくなった。棚が三つ減っている」
「数えたのか」
「見れば分かるわ。棚の跡が残っている」
「……棚の数まで覚えていたのか」
「人の顔は覚えないけれど、棚の数と値段は覚える」
「それは強い」
「弱点よ」
(この人の前だと口が軽くなる。六年のあいだ口を閉じていた。この人の前でだけ、数の話をしてしまう)
アルノーが番小屋の台帳にちらりと目を向けた。空欄のある台帳だ。見て、何も言わなかった。
(あなたの関所の台帳、品目が三行空いている。——言わない。頼まれていない)
「橋の欄干、石がひとつ欠けている」
「知っている。去年の冬に割れた」
「直さないの」
「石工がいない。この辺りには」
「いつから欠けている」
「一年」
「一年も」
「払える石工がいない。ここは伯爵領じゃない」
(ファルケ橋なら、ハンスが翌朝には直す。この橋にはいない。空いた欄干の石。空いた台帳の品目。この町の空欄は、埋める人がそもそもいない)
「風が変わる。半日で冷える」
アルノーが空を見上げた。雲を追う目だった。雲より先に風を読む人だ。天気の言葉で、別のことを言う。
「ありがとう。急いで帰るわ」
「君」
足が止まった。
「塩は乾いた場所に。この町の冬は湿る」
「……知っているわ」
「来週も市場に来るか」
「毎朝来ているわ」
「毎朝」
「やることが少ないの」
(「君」と呼んだ。ファルケ夫人という呼び方は、六年のあいだ指輪と同じように嵌まっていた。外れると軽くなる。冷たい風だ。冷たいのに、今の一言は冷たくなかった)
振り返らずに歩いた。塩の袋が肩に食い込んでいる。十キロの重さだ。干し肉の袋が歩くたびに揺れる。関所の番小屋が背中のほうに遠くなっていく。蹄の音は聞こえなかった。あの人はまだそこに立っているのかもしれない。振り返らなかった。
通りを歩いた。途中、井戸端に女たちが三人いた。目が合った。会釈をした。名前は知らない。一月いて、まだ誰の名前も知らない。
父の家の扉を押した。
暖炉の前に椅子がひとつ。台所の棚に皿が三枚。父が使っていた皿だ。一月前にここへ来て、最初に数えたのは皿の枚数だった。三枚。それだけだ。一枚多いことも、一枚足りないこともない。数えなくていい。
書斎に父の万年筆が一本残っている。インクが乾いている。この筆で父は婚姻契約書の写しを作った。第十二条も、余白の一行も、この筆で書いた。筆は机に置かれたまま、主人を待っている。使う人はいない。商会の帳簿は番頭が預かっている。父の署名欄だけが空欄のまま、三年分の月末を越えた。
父の家に越して一月になる。朝は市場で買い物をし、昼は父の書斎を片づけ、夕方に暖炉に火を入れる。帳簿を締める仕事はない。空欄を埋める仕事もない。やることが少ない。少ないことに、まだ慣れていない。
塩を棚の上段に置いた。乾いた場所に。
干し肉を壁の釘に吊るした。四本。
窓から関所のほうを見た。石橋の上を荷馬車が渡っていく。橋の欄干に石が一つ欠けている。番小屋の台帳に空欄が三つある。あの橋の修繕が要る。あの台帳の品目を埋める人が要る。石工がいない、とあの人は言った。
(頼まれていない。誰の空欄でも埋めてしまう癖を、ここまで持ってきてはいけない。わたしはここで暮らす。買い物をして、暖炉を焚いて、皿を三枚使って、一日を終える。空欄は空欄のまま置いておく。それができるようになるために、ここへ来た)
棚の上の粗塩が、窓からの秋の光を受けて白く光っていた。
買い物に付き添ってもらうなら、値切るのが上手な人も頼もしいですが、「それ、家にありませんか」と止めてくれる人も必要かもしれません。
安いと分かると、買う理由のほうはすぐ見つかるのに、置き場所のことは後回しになりがちです。
リーゼルと市場を回って、帰りには余計な買い物でこちらの両手も塞がる。
十キロの塩を運ぶお手伝いどころではありません。
同行するなら、まず買い物メモを見せてから。
かごに入れてからでは、きっと言い訳が長くなります。




