第16話 空欄
四日目の朝、負けた。
市場への道は関所の前を通る。三日続けて通った。三日続けて、番小屋の台帳の空欄が目に入った。品目の欄が三行、空いたままだ。数量は入っている。種類だけがない。
初日は歩く速さを変えずに通り過ぎた。二日目は足が遅くなった。三日目は台帳のほうを見ないようにして歩いた。見なければ気にならない。——見なくても、三行の空白が頭にあった。
四日目に足が止まった。
番小屋に誰もいなかった。台帳が木の台に載ったまま、風で端がめくれている。筆が横に置いてある。インクの壺が開いている。
(頼まれていない)
筆を取った。
一行目。数量十二。荷の大きさとこの町の市場を三日見ていれば分かる。粗塩だ。「粗塩」と書いた。二行目。数量三。毛織物。三行目。数量二十四。昨日の市場に蝋燭の店があった。「蝋燭」。
三行。筆を戻した。指先にインクが残った。左手の薬指に、薄い色がついた。一月ぶりだった。
「何をしている」
振り向いた。アルノーが馬を降りたところだった。外套の裾に泥がついている。関所の北から戻ったのだろう。
「品目を書いた。三行、空いていたから」
「頼んでいない」
「知っている」
(知っている。知っていて書いた。空欄を見ると埋めてしまう。六年やめられなかった癖が、四日で戻った。伯爵家の帳簿は七十二冊。全部残してきた。七十二冊ぶんの空欄をもう埋めなくていい。——そのはずだった)
アルノーが台帳に目を落とした。三行の字を読んだ。
「合っているのか」
「三行目だけ自信がない。蝋燭か石鹸か」
「蝋燭だ。北の村からの荷」
「なら合っている」
「関所の台帳だけか」
「何が」
「空欄が気になるのは」
「……どういう意味」
「邸の帳簿がある。関所より多い」
辺境伯邸は関所から坂を一つ上がった場所にあった。
アルノーが先に立って歩いた。こちらの歩調に合わせない。合わせないのではなく、合わせることを考えていない。勝手に歩いて、ついてくるのを待つ。伯爵家の廊下では、いつも半歩後ろを歩いた。ここでは並べる。
石造りの古い建物だ。伯爵邸の半分もない。飾りがない。門に紋がない。六年、鷹の紋を見て暮らした目には、何もない門が広く見えた。壁の石が古い。けれど隙間がない。修繕がきちんと入っている。帳簿は乱雑なのに、壁は手入れされている。この人の優先順位は数字の外にある。
書斎は二階だった。窓が北を向いている。冷たい光が机の上に落ちている。帳簿が四冊、積まれたまま置かれていた。積んだまま、角が揃っている。開いた跡がない。
机は一つだけだった。椅子も一つ。伯爵家の帳簿部屋には机が二つあった。リーゼルの机と、ベルントの机。二人で使う前提の部屋だった。この書斎は一人の部屋だ。一人で、帳簿を開けずにいた部屋。
棚に書類が束ねてあるが、順番がない。日付順でも相手先順でもない。届いた順に積んだだけだ。帳簿を締める手が無い場所は、こうなる。
「座れ」
アルノーが椅子を引いた。自分は窓際に立った。
一冊目を開いた。関税の帳簿だった。
一頁目。十五行のうち、全部埋まっている行が四つ。金額だけの行が六つ。品目があって金額が空の行が三つ。丸ごと空の行が二つ。
「ひどい」
口に出ていた。
「知っている」
「知っていて放っていたの」
「書く者がいない」
「あなたは」
「俺は帳簿が書けない」
(国境の関税を握っている男が、帳簿が書けない。数字には強いのに、数字を並べるのが苦手。お父様の商会にもいた。暗算は速いのに紙に写すと行がずれる番頭が一人)
二冊目を開いた。月ごとの収支。今年の九月の合計が空だ。十月は支出の半分が空。十一月は一行も書かれていない。
「十一月、何も書いていない」
「まだだ」
「もう月末よ」
「……ああ」
「九月も合計が空。毎月、締めていない」
「締める者がいない」
「月末に確認して、署名すればいい」
「何を確認するんだ」
「収支の合計が合っているかどうか」
「合っているかどうかが、俺には分からない」
その声に力みがなかった。知らないことを隠す気がない。
(正直な人だ。分からないから分からないと言う。伯爵家で同じことを言ったら恥になる。この人は恥だと思っていない。——けれどその正直さが、帳簿を放置した原因だ)
三冊目。橋の修繕費。修繕費の列が三年分、空欄だった。
「三年間、修繕費がゼロ」
「金がなかった」
「金がなくても帳簿には書く。ゼロならゼロと」
「ゼロを書く意味があるのか」
「ある」
筆を探した。机の引き出しに乾きかけのインク壺と筆があった。
「使っていい?」
「いい」
インクを足した。筆先を整えた。一冊目の一頁目に戻った。
「ゼロと空欄は違う」
書きながら言った。
「ゼロは『使わなかった』。空欄は『考えなかった』。帳簿を見る人間には別のものに見える」
「……そういうものか」
「そういうものよ」
(伯爵家の帳簿部屋で同じことを何度思ったか分からない。口には出さなかった。「妻の仕事だ」で終わる相手に説いても仕方がなかった。——ここでは言えている)
金額が空の行から埋めた。品目と数量があれば相場で計算できる。手が覚えている。伯爵家で六年、毎月同じ手順で帳簿を埋めた。品目を確かめ、数量を数え、単価を掛け、合計を足す。場所が変わっても指の動きは変わらない。ただ、相場が違う。伯爵領より安い。国境の町は都から遠い分、荷の値が低い。
「この行、何の荷」
「木材。北の山で切り出す」
「いくらで通した」
「二グルデンと四十クロイツァー」
「荷ごと? 重さ?」
「荷ごとだ」
「書いておくべきよ。次に読む人が分からなくなる」
「……次の人」
「いるわ。明日のわたしが読む」
六月の頁に移った。品目の列に金額を書いている行がある。
「ここ、列を間違えている」
アルノーが机のそばに来た。帳簿を覗き込んだ。
「……本当だ」
「教える人がいなかった」
「いなかった」
「帳簿は見て覚えるものじゃない。誰かに教わる」
「誰が教える」
「商会なら番頭。伯爵家なら女主人か補佐官」
「ここにはいない」
「だから空いている」
七月の通行税。項目ごとの数字はある。合計が空。足した。書いた。八月も同じだった。
「四月、塩の通行税が急に上がっている。理由は」
「北の道が雪で閉まった。南回りの荷が増えた」
「なら雪解けのあとに戻るはず。五月の税率が四月と同じまま据え置かれている」
「……気づかなかった」
「帳簿を見れば分かる。見ていなかっただけよ」
アルノーは何も言わなかった。窓の外を見た。北からの風が帳簿の端をめくった。抑えた。手で押さえて、帳簿に目を戻した。
(怒らない人だ。分からないと言えて、知らなかったと認められる。伯爵家で同じことを言ったら「妻の仕事だ」で終わった。この人は聞いている。帳簿の話を、聞いている)
五月で手が止まった。合計が三十二グルデン合わない。
「五月、三十二グルデン足りない」
「三十二」
「入っていない支出がある。心当たりは」
「……関所の屋根を直した」
「いくら」
「三十二グルデン」
「それだわ。三十二で入れる」
書いた。「関所屋根修繕 三十二グルデン」。合計を直した。
「ほかに帳簿に書いていない支出は」
「八月に馬の蹄鉄を替えた。八グルデン」
「八月の支出に入っていない。書く」
「蹄鉄交換 八グルデン」。伯爵家なら厩番が書く。ここでは誰も書かない。金は使ったが記録に残らない。消えた支出だ。
頁をめくった。十一月の白紙が目に入った。何も書かれていない月は、存在しなかった月と同じだ。
「空欄が多いのは知っている」
アルノーが言った。窓際ではなく、机のすぐそばに立っている。
「埋める人がいなかった」
(知っていた。知っていて、どうにもできなかった。この人は数字を頭の中に持っている。屋根が三十二、蹄鉄が八と即答できる。ただ、それを帳簿の正しい場所に書く手がなかった)
(この人の帳簿、わたしがいなかったら三月で止まる)
「——三月で止まるわ」
声に出ていた。顔を上げた。アルノーの眉がわずかに動いた。右の傷が動く。
「三月?」
「ここまで空いていたら、冬の前に帳尻が合わなくなる。春の関税を決めるとき去年の数字がない。値がつけられない。前の年と比べられないから、去年と同じにするしかない。でも去年の数字も空だった場合は」
「……どうなる」
「適当につける。荷主が損をする」
アルノーの目が帳簿に落ちた。空欄の列を見ている。自分の管理する関所で、荷主が損をする。それが嫌な顔だった。
「六年やっていたから。こういうことが起きる前に止めるのが、帳簿を締める仕事よ」
(言えた。伯爵家では口にしなかった言葉だ。「三月で止まる」。六年間、心の中だけで繰り返していた。声に出すと、呆れとわずかな誇りが同じ重さで乗っていた)
「頼んでいないのに」
「空欄を見ると埋めてしまうの。誰の空欄でも。弱点よ」
「弱点か」
「ええ。六年、治らなかった」
アルノーが窓のほうを向いた。北からの風が入ってくる。
「治らなくていい」
何も返せなかった。筆を持ったまま、次の空欄に目を移した。
十一月の頁に日付を入れた。今日の日付だ。空白の月に最初の一行が入った。
西の窓から光が傾いたとき、一冊目が終わった。
十五頁。空欄を六十三埋めた。推定の行には頁の隅に印をつけた。確認が要る行には小さく「確」と書いた。伯爵家の帳簿部屋と同じやり方だ。
残り三冊。
筆を置いた。背中が固い。何時間、座っていたのか分からない。北向きの窓から入る光が赤くなっている。
指先にインクが乾いている。左手の薬指に黒い点が三つ。指輪の跡の上だ。指輪は外した。インクは戻ってきた。
「続きは明日来る」
「明日も来るのか」
「三冊残っている。明日ともう一日で終わる」
「……頼んでいない」
「知っている」
(二度目の「頼んでいない」。止めはしなかった。この人はいつもこうだ。頼まないけれど、閉じない。来る者を追い返さない。国境の門を開けておく人だ)
階段を降りた。振り返った。アルノーは書斎に残っていた。降りてこない。見送りをしない人だ。
坂を下りた。関所の前を通った。番小屋の台帳が今朝と同じまま開いている。「粗塩」「毛織物」「蝋燭」。三行だけが、今朝と昨日の境だ。
父の家に戻った。手を洗った。インクが薬指の爪の際に残っていた。六年、毎日この色が指についていた。一月前にこの町に来てから、今日が初めてだった。
暖炉に火を入れた。湯を沸かした。台所の棚の皿が三枚、いつもどおり並んでいる。父の家は変わらない。変わったのはこの手だ。帳簿を締める手が、別の場所で動き始めた。
辺境伯邸の書斎に、帳簿が一冊、開いたまま残っている。今日の最後の頁で、リーゼルの字のインクが乾きかけている。次の頁の一行目が、空欄のまま明日を待っている。




