第17話 今夜、冷える
三冊目の最後の頁を閉じたとき、窓の光が黄色に変わっていた。
昨日の一冊と今日の三冊。空欄を百四十八、埋めた。推定の行には印をつけ、確認が要る行には「確」と書いた。
「終わった」
アルノーが窓際から顔を上げた。朝からずっとそこに立って書類を読んでいた。こちらが手を止めるたびに目を向けたが、口は出さなかった。
「全部か」
「ええ。『確』が十七残っている。あなたに聞かないと埋まらない行」
「十七」
「一冊に四つか五つ。多くないわ。伯爵家なら月末に三十は出る」
「二日で四冊か」
「伯爵家では六年で七十二冊を締めた。空欄を埋めるだけなら、四冊でも二日で足りる」
帳簿の角が揃っている。頁の端に月ごとの見出しをつけた。背表紙に薄く番号を振った。締める順だ。先に締めた帳簿の数字を、後の帳簿で引けるように並べた。
「番号は」
「締める順よ。先の帳簿の数字を、後で参照できる」
「……頼んでいない」
「三度目」
(この人の「頼んでいない」は断る言葉ではない。勝手だと知って受け取っている。伯爵家では一度も言われなかった。全部が「妻の仕事」で、頼む必要がなかった。——この人は頼まない。わたしは止まらない。似た者だ)
筆を洗った。立ち上がると腰が鳴った。指先にインクが乾いている。二日で左手の黒い点が五つに増えた。
「十七の『確』はいつ聞けばいい?」
「明日でいい」
「明日。来るのか」
「空欄が気になるの。——帳簿ではなくて」
「何が」
「帰りに橋を近くから見てもいい?」
「橋」
「関所の石橋。上を渡っただけだと分からないことがある。近くで見たい」
「……来い」
坂を並んで下りた。日が傾いて、石畳に影が長く伸びている。
アルノーの歩調はこちらに合わない。合わせないのではなく、並んで歩くことを疑わない間合いだ。伯爵家の廊下では半歩後ろを歩いた。ここでは並ぶ。
関所を過ぎると石橋が架かっている。五日間、毎朝渡ってきた橋だ。今日は渡らずに止まった。
膝をついた。踏み面に手を置いた。冷たい。石が日陰にあるぶん、気温より先に冷えている。
継ぎ目に指を入れた。目地が痩せている。砂が指先についた。
「ひどいわ」
「昨日と同じことを言う」
「帳簿のときとは違う。こっちのほうが深い」
欄干の欠けた断面に手を当てた。粗い。凍って割れた跡だ。人が壊したのではない。水が入り、冬に凍り、石を内側から押し広げる。隣の石にも細いひびが走っている。
(帳簿の空欄と同じだ。放っておくと、空いた場所から壊れていく)
橋の上をゆっくり歩いた。踏み面の石を一枚ずつ見た。三枚目が沈んでいる。踏むとわずかに動く。下の支えが緩んでいる。
「この石、動くわ」
「三枚目か」
「踏んでみて」
アルノーが踏んだ。石が沈んだ。
「……いつからだ」
「分からない?」
「毎日渡っていて気づかなかった」
「重い荷馬車で渡れば分かる。歩くだけでは気づかない」
「俺は毎朝馬で渡っている」
「馬は蹄だから車輪より軽い。車輪のほうが一点に掛かるの」
(この人は毎日この橋を渡っている。渡っているのに、石の沈みに気づかなかった。馬に乗る人間には、蹄が伝えない揺れがある。——わたしがファルケ橋の欄干を毎日見て、石工の印に気づいたのと逆だ。見る場所が違えば、見えるものが違う)
橋の端まで歩いた。欄干に沿って指を滑らせた。七枚の石のうち、ひびが入っているのが三枚。欠けているのが一枚。無傷は三枚だけだ。
「欄干も半分やられている。来年の冬を越したら、欠ける石がもう一枚か二枚増える」
「増えるのか」
「ひびに水が入るから。水が凍ると石を内側から割る。同じことの繰り返しよ」
「どうすれば止まる」
「目地を全部やり直す。古い目地を掻き出して、奥から詰め直す。上から塗っただけでは中が抜けたまま」
「当主になった年に上から塗った」
「それでは持たないの。上塗りは三年で剥がれる。奥から詰めれば十年は持つ」
「……そういうものか」
「そういうものよ。ファルケ橋で六年、毎年これを見てきた」
立ち上がって、橋の下を覗いた。水際の石に苔がついている。その上の石が一つ、ずれかけている。
「下もよ。水際の石がずれている。放っておいたら通行税どころの話ではなくなる」
「壁の石工では」
「壁と橋は別だ。荷馬車が毎日渡る。力の掛かり方が違う」
(帳簿は書けなくても、石に掛かる力は分かっている。国境の関所を預かる人間は、荷の重さを体で知っている。——壁と橋が違うと言えるのに、直せる人がいない。それがこの橋の空欄だ)
「知っている人がいるわ」
「誰だ」
「ハンス。ファルケ橋の石工の親方。四十年、橋だけを見てきた人よ」
アルノーの目がこちらを向いた。
「伯爵領の石工か」
「先代の橋の再建で指を二本失った。それでもまだ橋を見ている」
「……ここまで来るか」
「わたしが声をかければ、来るかもしれない。あの人は橋のためなら動く」
「遠いぞ」
「遠い。でも六年、修繕費を出し続けた縁がある。わたしが頼めば聞いてくれる」
「君が頼む」
「ええ。あなたが頼んでも、あの人は知らない橋には来ない。でもわたしが『見てほしい橋がある』と書けば、来る」
(ハンスの手は石の色をしている。わたしの手はインクの色をしている。あの欄干の内側に、師匠から受け継いだ印がある。先代の工事には彫らなかった。わたしが修繕費を出した年から彫った。——橋を見る人と、橋の金を出した人。その縁を、この橋にもつなげられる)
「目地を全部やるなら、百グルデンは見ておいたほうがいい。職人二人で十日」
「百」
「高い?」
「安い。この橋が落ちたら荷が全部止まる」
迷わなかった。
「冬の前に始められるか」
「ハンスが来てくれれば。手紙を書くわ」
「任せる」
(帳簿は書けなくても出費の判断は一言で返る。伯爵家は逆だった。書く手があって判断がなかった。ここは判断があって書く手がなかった。——わたしが書いて、この人が決める。帳簿も、手紙も)
立ち上がった。膝に石の粉がついている。手を払った。右手に砂、左手にインク。
日が落ちかけていた。川面が暗い。風が変わった。朝からの北風が西に回っている。肩に当たる角度が違う。急に冷たい。
「今夜、冷える」
アルノーが空を見ていた。雲の向きを追っている。雲より先に風を読む目だ。
「西に変わった。半日で霜が降りる」
「坂を下りて父の家まで半刻よ。間に合う」
「霜が降りてからの半刻だ」
「半刻くらい歩けるわ」
「暗い坂で転んだら、明日の『確』はどうする」
(天気の話から、坂の話に変わった。この人はいつも天気で別のことを言う。「冷える」は報告ではない。「来い」と言わずに「冷える」と言う。坂の心配をしているのか。——十七の『確』を人質にとられた気もする)
「泊まればいい」
短かった。目はまだ空にある。
「……部屋があるの」
「客間がある。使っていない」
「使っていないのに薪は」
「冬の前に全部の部屋に入れる」
「使わなくても?」
「使わなくても」
(空欄にゼロを書くのと、空いた部屋に薪を入れておくのと。似ている。来る者のために場所を空けておく。この人はそういうふうにできている)
「お借りするわ」
「来い」
坂を上がった。並んで歩いた。暗くなりかけた道を二人の足音だけが上っていく。途中、振り返った。坂の下に石橋が見える。関所の灯りが橋の片側を照らしている。欠けた欄干の場所だけが暗い。
「あの橋、悪くないわ。基礎はしっかりしている。手を入れれば長く使える」
「……そうか」
「帳簿に似ている。骨は合っている。空欄を埋めれば動く」
アルノーは何も言わなかった。前を向いて歩いた。門が近い。紋のない門が、暗がりの中でも広く見えた。
客間は二階の東にあった。書斎の隣だ。
窓が東を向いている。朝日が入る部屋だ。暖炉に薪が三本、組んである。寝台は狭い。掛け布が一枚、畳んで端に置いてある。木の台に燭台がひとつ。蝋燭は新しく、芯に火の跡がない。
床に埃がなかった。使っていないのに、掃除はされている。
「何か要るか」
「足りているわ」
「水差しは台所の棚だ。階段を下りて右」
「分かった」
「朝、北の窓が明るくなったら起きろ。茶を沸かしておく」
「……茶まで」
「湯を沸かすだけだ」
「ありがとう」
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
足音が廊下を遠ざかった。書斎の扉が閉まる音がした。壁一枚の向こうだ。
階段を下りて台所へ行った。水差しは言われたとおり棚にあった。杯がひとつ、伏せて置いてある。台所の棚は整っていた。皿が少ない。必要な分だけ並んでいる。父の家の台所と同じだ。一人で暮らしている人間の棚には、余りがない。
客間に戻った。暖炉に火を入れた。薪が爆ぜた。部屋が少しずつ温まる。
窓から外を見た。坂の下に関所の灯りが小さく見えた。
(夕方触った石の手触りがまだ指に残っている。目地の砂とインクと。右手に砂、左手にインク。石の手と帳簿の手。——ハンスに手紙を書こう。この橋のことを。あの人が来てくれたら、冬の前に間に合うかもしれない。便箋は父の家にある)
壁の向こうで椅子が軋んだ。
掛け布を引き寄せた。冷たい。暖炉の熱がまだ届いていない。体で温めた。少しずつ、冷たい布が体温を覚えていく。伯爵家の寝室より狭い。狭いのに窮屈ではない。
(伯爵家では、中庭の向こうに離れがあった。四年、そこにいたのはマリカだった。ここでは壁の向こうに椅子の音がする。帳簿を見ているのだろう。昨日わたしが埋めた頁を。——六年で初めて、壁の向こうの音が嫌ではなかった)
坂の下の石橋が、欄干の欠けた場所だけ夜に沈んでいた。
朝の茶を沸かしておいてもらえるのは、嬉しい約束ですね。
寒い朝に起きるなら、用事だけでなく、何か楽しみも待っていてほしいところです。
窓の外が明るくなるのを見ながら、温かいものをゆっくり一口。
そこまで考えると、早起きも悪くなさそうです。
問題は、温まった寝床から出る最初の一歩。
「あと五分」が二回になる前に、お茶の匂いが届いてくれたら助かります。
ただ、持ってきてもらえるのを待ち始めたら、もう起きられませんね。




