第18話 六年分
北の窓が白んだとき、壁の向こうで椅子が鳴った。
昨夜も聞いた音だ。同じ音が、同じ壁の向こうから、同じ時刻にする。この人はいつ寝ているのだろう。
起き上がった。掛け布が体温を覚えていた。暖炉の火は落ちて灰が白い。薪は三本とも燃え尽きている。窓の外も白い。霜だ。昨夜の「半日で霜が降りる」は、やはり当たっていた。
顔を洗った。水差しの水が冷たい。手の甲にインクの跡がまだ残っている。昨日の四冊ぶんだ。伯爵家では毎朝、インクを落としてから帳簿部屋に入った。今日はこのまま行く。どうせまた汚れる。
客間を出た。廊下は暗い。書斎の扉が細く開いていた。中を覗いた。灯りはついていない。机の上に四冊の帳簿が並んでいる。昨日わたしが閉じたままの形で、朝の薄い光を受けている。
この人はもう下に降りたのだ。
朝の茶が、約束どおり沸いていた。
階段を下りると、杯が二つ並んでいた。昨夜は一つだった。鉄の鍋が炉にかかり、湯気が台所の窓を白く曇らせている。
「起きたか」
アルノーが戸口に立っていた。外套を着ていない。袖をまくっている。
「霜が降りている」
「言っただろう」
「当たった。窓の外が真白よ」
「天気は外れない」
杯に湯を注いだ。茶葉が開く。立ち上る湯気の向こうに、北の空が白い。
(おはようを言わない人だ。先に用件を済ませて、挨拶を最後に置く。順番が逆なのに、嫌ではない)
「今日は長くなるか」
「十七だから。二刻もあれば終わるわ」
「飯は先にするか」
「茶だけでいい。帳簿の前に食べると眠くなるの」
「……そういうものか」
「六年そうだった」
アルノーが杯を手に取った。一口含んで窓の外を見た。
(六年そうだった。伯爵家の帳簿部屋には鍵がかかっていた。鍵を開けるのはわたしで、茶を持ってくるのはマリカだった。ここには鍵がない。茶はこの人が沸かした。鍵のない部屋と、誰かが沸かした茶。どちらも初めてだった)
書斎に上がった。昨日閉じた四冊の帳簿が番号順に並んでいる。背表紙に薄く振った番号が、朝の光に読める。
アルノーが窓辺に腰を下ろした。窓枠に背を預けている。いつもは立っている。今日は座った。
「始めるわ。一つずつ聞く」
一冊目を開いた。最初の「確」は四月の通行税だった。
「四月の木材。二グルデン四十クロイツァーで通した分、荷主の名が空よ」
「ヴォルフ。北の村の材木屋だ」
書いた。
「五月の飼い葉代。三グルデンで入れたけれど、馬は何頭」
「三頭」
「一頭一グルデン」
「関所の馬だ。贅沢は食わせていない」
「安いわね」
「安くていい。走れば同じだ」
(伯爵家の厩は一頭二グルデン。比べるたびに六年の相場が口をつく。もう要らない数字なのに、指に貼りついて剥がれない)
「六月。品目と金額が入れ替わっていた行、直した?」
「昨日直した」
開いた。合っている。
「合っているわ。——こういう行は二重線で消して横に書き直すの。上から潰すと前の数字が読めなくなる」
「上から書いていた」
「次からは二重線と日付。誰がいつ直したか残る」
「分かった」
(教えれば覚える人だ。伯爵家では教える相手がいなかった。教えなくても締まるから、と思っていた。ベルントだけが、黙って見ていてくれた)
二冊目に入った。
「七月の橋の修繕費。十二グルデン。どこの橋か」
「関所の石橋だ」
「上塗りの分ね」
「三年前だ」
「壁の石工に頼んだと言っていた」
「ああ」
「だから三年で剥がれた」
「……そうだ」
「昨日見た。目地の奥が空だった」
「直せる者がいなかった」
「ハンスに手紙を書く。父の家から出すわ」
アルノーがうなずいた。
「八月の蹄鉄。八グルデンは二頭分」
「ああ。一頭は換えずに済んだ」
「では一頭四グルデン。高いわね」
「鍛冶屋が一人しかいない」
「選べないなら仕方ない。帳簿には『鍛冶屋一軒のため相場なし』と書いておく」
「そこまで書くのか」
「書かないと次に見る人が『高い』とだけ思う。理由があれば判断できる」
「次に見る人」
「わたしが見る」
アルノーの右眉がわずかに動いた。傷が動く。何も言わなかった。
(この人は反論しない。間違いを指されても顔を歪めない。知らなかったことを受け取って、黙って飲み込む。伯爵家では同じことを言っても「妻の仕事だ」で終わった。ここでは終わらない。言葉がどこかに届いている)
三冊目。今年の十一月は一昨日一行だけ入れた白紙の頁だ。「確」はない。前年の十月に移った。
「十月の塩。六グルデンで入れたけれど、量が書いていない」
「二十キロ」
「関所の冬の分」
「ああ。番小屋の常備だ」
「二十キロで六グルデン。一キロ十八クロイツァー」
「安いか」
「市場なら八グルデンよ。どこで買った」
「北の塩商から直で取った。荷を通す代わりに安くする」
「物々交換に近いわね。帳簿には『通関減免との相殺』と書いておく」
「……そこまで読むのか」
「読まないと次に見る人が——」
「また次に見る人か」
「わたしが見る」
二度目だった。同じ言葉を二度言った。一度目は蹄鉄のとき、二度目は塩のとき。自分でも気づいていた。帳簿を締めるつもりでいる。この人の帳簿を。
残りの「確」を順に埋めた。取引先の名、支出の内訳、日付のずれ。手が覚えている手順で進む。アルノーは聞かれたことだけに答えた。
四冊目の最後。
「前年の十二月の薪代。七部屋分ね」
「ああ」
「使っているのは三部屋」
「四つは空いたまま入れる」
「変わらないのね」
「来る者があるかもしれない」
「来なくても入れるの」
「来なくても入れる」
十七すべてに答えが入った。筆を置いた。指先にインクが残っている。左手の黒い点が昨日の五つから七つに増えていた。
四冊の帳簿を閉じ、角を揃え、番号順に並べ直した。頁の間に挟んだ空の頁を確認した。次の月から書き始められる状態だ。これで引き受けた帳簿は締まった。
「全部埋まったわ」
「……世話になった」
三度目だった。礼でも謝辞でもない言い方だ。されたことを認める、この人なりの一番重い受け取り方だ。
帳簿を閉じかけたとき、三冊目の数字が引っかかった。
修繕費の列。三年間ゼロが並んでいる行のすぐ上に、四年前から現れた別の支出がある。小さな金額だが、財源の欄が空だった。
「この支出、四年前から出ているのに出どころが書いていないわ」
「領の一般会計だ」
「帳簿に残しておきたい。控えはある?」
「……引き出しにある」
アルノーが窓辺から立った。机の右側の引き出しに手をかけた。
引き出しが開いた。
控えの書類が数枚、紙紐で束ねてある。その奥に——別の束があった。帳簿の控えより厚い。麻紐で括られている。紙の色が上と下で違った。上のほうは白い。下にいくほど色が沈んでいく。一番下の端だけが、褐色に近い。長いあいだ動かされずにそこにあった紙の色だった。
アルノーが控えのほうを取り出して、こちらに渡した。
束のほうは、引き出しに残った。
控えを見た。一般会計から出ている。帳簿に「一般会計より」と書き足した。
筆を置いた。
目が、引き出しに戻った。
束の一番上の紙に、商号が印されていた。横書きの活字体。見慣れた書体だった。
ローゼン商会。
手が止まった。
ローゼン商会。帳簿部屋で六年、見続けた名前だ。先代の橋の工費で膨らんだ借金の貸し手。利子が三月滞れば橋の通行税を差し押さえられる。六年間、その利子は一度も滞らなかった。
わたしは毎月、帳簿を締めるたびに確認した。利子は払われている。出どころは「隣領からの善意」。ベルントが毎年、同じ言い回しで報告した。
——隣領からの善意で、今年も利子は払われております。
善意。匿名。ベルントは出どころを知っていたのだろうか。知らなかったのだと思っていた。
隣領。
この領だ。この引き出しの中から、半年に一枚ずつ増えていった紙だ。
「……受取証」
声が低くなった。自分でも分かった。
アルノーは何も答えなかった。窓のほうを向いたまま動かなかった。
引き出しから束を取り出した。両手で受けた。紙の枚数が重さになっている。帳簿より軽い。帳簿は何十頁もある。この束はそこまで厚くない。けれど重い。紙の重さではない重さが手に伝わっていた。麻紐を解いた。
一番上の一枚を表に返した。
「ローゼン商会 利子受領証 金二百四十グルデン」
日付はその年の春だった。伯爵家を出る半年前。
「半年に一度か」
「ああ」
次の一枚。その半年前。同じ金額。
その次。一年前。一年半前。
「全部、二百四十」
「元本が減っていない。利子だけ払い続けた」
「年に四百八十グルデン」
「そうだ」
(年に四百八十。六年で——二千八百八十。持参金三万グルデンの一割に近い。それを、匿名で)
めくった。二年前。二年半前。三年前。紙の色が白から象牙色に変わっていく。三年半前。四年前。
四年前を過ぎたとき、支払人の欄の字が変わった。商会の受領印は同じだ。だが支払人の名が違う。四年前からはヴェスト辺境伯領の名が入っている。それ以前は——細い字だった。
「この字」
「俺の字だ」
「個人の名で払っていたのね」
「当主になる前だ。領の金は使えなかった」
「関所の月給は二十グルデンよ。半年分の利子が二百四十。——一年分の給金だ」
「……ああ」
(一年分の給金を、半年に一度、丸ごと利子に充てた。残りの半年は何で暮らしたのだろう。関所の食事と、石壁と、風だけで。——わたしが伯爵家の帳簿部屋で花代の数字を確かめていた頃、この人は国境の石壁の中で給金の全額を為替手形に換えていた)
「給金を全額充てていたの」
「足りない月は番頭に借りた」
「番頭に」
「ヴァイデンの番頭だ。利子の口をこちらに回した」
(父の番頭が。——あの人は知っていたのだ。利子がどこから来ているか、ベルントが報告するたびの「隣領からの善意」が誰の金か。番頭は帳簿を二十年締めてきた人だ。数字の出どころが分からないはずがない。知っていて、わたしには何も言わなかった)
五年前。五年半前。手が早くなっていた。帳簿を締めるときの手だ。右手でめくり、左手で押さえる。一枚、二枚——
一番下の一枚に手が届いた。
黄ばんでいた。
紙の端が褐色に変わっている。麻紐の跡が斜めについていた。六年、束の底で他の紙の重みを受け続けた一枚だ。触ると少しだけ柔らかい。湿気を何度も吸って、紙の繊維がほどけかけている。
日付を読んだ。
六年前。秋。
わたしが嫁いだ季節だった。
指が止まった。
数えかけていた。何枚あるか数えようとしていた。右手でめくり、左手で押さえて、帳簿を数えるように。七十二冊の帳簿を、一冊ずつ月末の三日で締めてきた手で、この紙も一枚ずつ数えて、金額を足して合計を出そうとしていた。
できなかった。
枚数を数えれば総額が出る。六年分の利子が一つの数字になる。帳簿ならそうする。合計を出し、帳尻を合わせ、締めて、署名する。でもこれは帳簿ではない。
(この人が六年かけて一枚ずつ増やした紙を——足し算にしてしまったら、黙っていたことの重さが金額に変わる。金額にしてはいけない)
「いつから」
「六年前だ」
「わたしが嫁いだ年」
「ああ」
「匿名で」
「為替手形で出した。名前は出ない」
「……なぜ」
「頼まれていない」
(四度目の「頼まれていない」だ。台帳の品目を書いたとき。帳簿の空欄を埋めたとき。背表紙に番号を振ったとき。——全部わたしが言われた言葉だった。頼まれていないのに手が動く。この人も、六年、頼まれずに受取証を増やしていた)
「返してもらうつもりはなかった」
顔を上げた。
アルノーがこちらを見ていた。窓でも帳簿でも空でもなく、こちらを。濃い灰色の目が、動かなかった。
「君が来る場所を空けておいただけだ」
二言目だった。
聞き返す前の二言目だった。この人は一言で済ませる。聞き返されてから、ようやく次を言う人だ。六年、そうだった。
自分から二言目を続けたのは、初めてだった。
受取証を持ったまま、何も返せなかった。帳簿なら数字を返す。「合計はいくらです」「帳尻が合いました」「締めました」。六年間、数字で返事をしてきた。
この人の二言に返す数字がなかった。
目が熱い。泣いてはいない。帳簿の前で泣いたことは六年で一度もない。——泣くまい。泣いたら数字が滲む。数字は、もう見ていなかった。
(来る場所を空けておいた。利子を払い続けたのは、橋を守るためではなかった。橋が差し押さえられれば、伯爵家の財政が崩れる。崩れれば、わたしの居場所がなくなる。——逆だ。居場所をなくさないために、利子を払い続けた。六年、一度もこの引き出しを開けなかった。見せるためではなく、ここにあるだけでよかった)
長い沈黙だった。窓の外で風が鳴っている。北の風だ。この書斎にいるとき、風の音だけがいつも聞こえる。
受取証の端を叩いて角を揃えた。帳簿の頁を揃えるときと同じ手つきだ。手が勝手に動いた。角を合わせ、向きを直し、束にした。
麻紐に手が伸びかけた。
「括らなくていい」
「……ええ」
受取証の束を、引き出しには戻さなかった。
机の上に置いた。四冊の帳簿の隣に。
帳簿の空欄はすべて埋まった。受取証は数えなかった。埋めたものと、数えなかったものが、同じ机の上に載っている。
アルノーが窓辺に戻った。座らなかった。立ったまま外を見ている。背中が見える。この人の背中を見たのは、子供の頃以来だった。河港の波止場で荷を数えていたとき、隣にいた背中。あのときはもっと低かった。
北の窓から光が落ちている。帳簿の紙は白い。受取証は上が白く、下へいくほど色が沈む。一番下の一枚だけが、六年分の時間を紙に染ませていた。
引き出しが開いたまま残っている。空になった引き出しの底に、紙の跡が薄く残っていた。六年分の紙が同じ場所にあった痕だ。
括られていない受取証が、机の上で、光の中に並んでいた。




