第19話 読んだ
便箋の宛名だけが埋まっていた。
ハンス親方。
その下に筆を置こうとして、門の外を見た。鷹の紋のついた馬車が、小さな家の前で止まっていた。
父の家に戻ってから、まだ茶も淹れていない。
坂を下りるあいだは手紙に何を書くか考えていた。関所の石橋。痩せた目地。冬の前に一度見てほしい。
朝の書斎で数えなかった紙の束が、道の途中で何度も浮かんだ。黄ばんだ紙の端は柔らかかった。その感触を思い出すたびに、手紙の書き出しを忘れた。
家まで送ってきたアルノーは、門のところにいた。馬車を見て足を止めている。
「来ると聞いていたか」
「いいえ」
窓から見える馬車の扉が開いた。降りた男が外套を直した。仕立てのよい肩に道の埃が薄く載っていた。
ユリアンだった。
顔より先に、手にある革の書類入れが見えた。
(使っていたのね。ベルントさんに持たせるものだと思っていた)
アルノーが戸口まで戻ってきた。外から入る冷気に便箋の端が浮く。筆を持ったまま紙を押さえた。
「会うか」
指にインクがついた。宛名は乾いている。押さえたのはまだ白い場所だった。
「話を聞く。持って来たものも見たいわ」
「俺も入るか」
便箋を押さえていた指を離した。窓の前の椅子は自分が使う。
「まず二人で話すわ。旦那様はあなたに話しかけてしまうかもしれないから」
「俺にか」
「ええ。あなたがいれば、わたしに聞かなくても話が出来ると思うかもしれない」
アルノーが敷居から足を引いた。
「分かった」
「寒いわ。長くなるかもしれないのに」
「ここは君の家だ」
アルノーが視線を窓からこちらに戻した。
(ええ。わたしの家だ。通してよい人も、席も、わたしが決める。そんな当たり前のことを、筆を握るより先に忘れかけていた)
「では門を開けてくれる? 長くなりそうなら呼ぶわ。先に帰ってもいいのよ」
「門にいる」
黒い外套が戸口から離れた。
便箋を脇へ寄せた。茶を淹れるために立ち、途中でやめた。来客の分を先に沸かす癖が出た。まだ用件も聞いていない。
筆を洗ってから戸口へ行った。
「リーゼル」
ユリアンは敷居の外に立った。革の書類入れを両手で持っている。長旅のせいか目の下の色が濃かった。
「お入りください」
「ヴァイデンの番頭に聞いた。この家にいると」
父の商会の番頭さん。朝の書斎で、その人の名も聞いた。口に出さず、扉を引いて道を空けた。
ユリアンは入ってすぐ部屋を見回した。食卓と椅子。小さな炉。窓際の机。帳簿部屋なら壁一面に棚があるが、ここには父の本が一段あるだけだった。
「一人で暮らしているのか」
「はい」
「冬もここにいるつもりか。誰か雇ったほうがいい。炉の始末まで君がするのか」
「今のところは。それほど大きな家ではありません」
「番頭に言えば人を寄越すだろう」
「要るときはわたしから頼みます」
ユリアンは炉を見た。薪を足すほど減ってはいない。リーゼルは扉を閉め、先に机へ戻った。
窓の外を見た。門の脇に黒い外套が見える。
「ヴェスト辺境伯が来ているとは思わなかった」
「送っていただきました」
「……そうか」
ユリアンの目が机に向かった。宛名のある便箋を見て、椅子の背に手を置いた。
そこはわたしの席だ。窓の光が左から入る。右手で書いても影が落ちない。
父は逆の席を使っていた。家に来て最初の朝、自分で椅子を移した。
ユリアンの手が背から離れるのを待った。椅子を引いた。
「そちらへどうぞ」
向かいの席を示した。書類入れを抱えたまま、ユリアンが座る。
伯爵家では夫が先に座った。妻はその右の椅子を引いた。今は二人のあいだに、机一枚ぶんの幅があった。
「お茶は要りますか」
「いや。話をさせてほしい」
「伺います」
書類入れの留め具がなかなか外れなかった。綺麗な指が革の帯を引く。留め具に通した角度が違う。リーゼルは手を膝に置いていた。
(手を出せば早い。——ここに来る前は、一人で開けられたでしょう)
帯が抜けた。
中から紙の束が出てきた。
婚姻契約書だった。
六年前に父が作った写し。束の端の折れと綴じ紐で分かる。食堂の卓に広げて残してきたものが、小さな家の机に置かれた。
「読んだ」
ユリアンは紙を押さえた。
「……全部読んだ。六年前に、読んでいれば」
そこで口が閉じた。窓の光が束の縁まで届いていた。こちらへ渡す手は動かなかった。
その手の下の紙から、目を離せなかった。
父の字は小さい。細い線を何本も重ねて条項を書き、余白を残した。ユリアンが開いた頁の端に、父の書き込みがある。
使わずに済むならそれでいい。
済まないなら、読んだ人の味方をする。
父の字に、指を置かなかった。
「この写しを置いていっていただけますか」
「写しなら用意させる。これはまだ一通しかない。王室記録院には原本があるが」
綴じ紐のほつれた先が、机の上に伸びていた。片方だけ長い。リーゼルが紙を置き直すと、余った紐もこちらへ寄った。
「お父様の字を手元に置きたいのです」
「条文はどれも同じだよ。ベルントが写すのだから間違いはない」
ユリアンが頁を繰った。署名欄が現れた。
「君の名もある。僕の名の隣に。これを持ってきたのは、その話をしたかったからだ」
自分の署名の隣に、補佐官が書いた夫の名があった。小さな『代』の字。父の書き込みは前の頁に隠れた。
手を膝に戻した。写しを作るようには頼まなかった。
「第十二条の話ですか」
「それだけじゃない。持参金のことも、家の出費のことも読んだ。帳簿も見た」
ユリアンは革の書類入れを脇に下ろした。
「君がしていたことを、僕は知らなかった」
膝の上の指が動いた。無い指輪を回そうとして、左の薬指に触れた。薄い跡はまだ見える。
(そこにいる人に聞けば済むことを、七十二冊開かなければ分からなかったのね)
言わなかった。ユリアンの目は契約書に向いている。
「君の部屋も見た。何も持っていっていないんだな。寝台も、窓掛けもそのままだった」
「出納帳の控えを持ってきました」
「それは聞いている。そうじゃなくて、君の物だ。必要なら運ばせる。部屋は前と同じにしてある」
窓際の棚を見た。市場で買った塩を入れた壺がある。干し肉は台所の梁に吊った。
この家で最初に買ったものは冬の食べ物だった。寝台も窓掛けも、父が遺したものを使っている。
「わたしの席は、空いていましたか」
ユリアンが顔を上げた。
リーゼルは返事を待たず、前の頁へ戻した。父の字が現れた。契約書の端を少し押し戻し、机の中央まで戻して手を離す。
「今日は何の御用でしょう」
炉の灰の下で熾火が小さく崩れた。灰が落ちても、ユリアンは紙を見ていた。
「戻ってほしい」
今度は顔をこちらに向けた。
「帳簿を読んで分かった。君がいないと家が立ち直らない」
机の脇に置いた便箋が、視界の端で白かった。
(愛することはないと言われた夜も、立ち直るまでだった。立ち直るまでという期間に、終わりの日を入れたのはお父様だ)
椅子に座り直した。向かいの男は待っていた。六年、待つのはこちらだった。今は書類を持って来た人が待っている。
「橋の修繕が止まっている」
ユリアンが言った。
親方の手が浮かんだ。石と同じ色の手。短い指が二本、欄干の内側に触れていた。
膝から手を下ろした。
「親方はどうしていますか」
「現場に来ている。工事は出来なくても橋を見ておきたいと」
「職人の方たちは」
「二十人とも待っている。ハンスが冬の前に再開出来ると言った」
「待つようにお伝えになったのですか」
「僕がハンスに話した。君を迎えに行くから待ってほしいと」
ユリアンは言い終えて、机の便箋へ目を向けた。
「親方は何と」
「まず君と話してこいと。それ以上は言わなかった」
「待っているあいだの給金は出ていますか」
「工事が止まってからは出していない。仕事がない以上、前と同じには払えない」
机の縁に指がかかった。冷たい。
(待つあいだも、食べるのよ。二十人とも)
「皆さんに別の仕事はありますか」
「そこまでは聞いていない。工事を始められれば同じだけ出せると思ったんだ」
便箋の宛名は、ここからでも読めた。
冬の前に。昨日は坂の上の石橋で聞いた言葉だった。二つの橋の石はどちらも冷えている。けれど今ここで待っていると言われた二十人は、南の橋にいる。
「十一月の支払いは二百四十グルデンです」
口に出すと、六年使ってきた数字の声に戻った。伯爵家を出る朝、ベルントに伝えた額だ。見積もりは帳簿の間に挟んであった。
「その金は用意出来ていますか」
「まだだ。だが戻れば、橋の修繕は続く」
ユリアンの手がこちらへ動いた。契約書の上で止まり、父の余白を覆った。
「橋の通行税は入っている。全部なくなったわけじゃない。金を借りる口も探している。君が帳簿を見てくれるなら話が出来る」
「どなたと」
「商会だ」
「商会の名を教えてください」
ユリアンは手を引いた。小さな字がまた見えた。
「まだ引き受けるとまでは言っていない」
借りる口があることと、借りられることは違う。ローゼン商会の帳簿には、先代からの借金も載っている。出納を見る人が戻っただけでは元本は減らない。
契約書の横に目を落とした。借入の条件を書いた紙はない。支払いの日も、金額も、誰の署名もない。
「二百四十グルデンを出す方は、まだ決まっていないのですね」
「だから君に来てほしい。僕一人では、どこを削ればいいのか分からない」
窓掛けの裾が風で寄った。留め金から一つ外れている。来てから何度か掛け直したが、輪が緩くなっていた。
家の出費を削る。六年やったことだった。必要なものを買い、要らないものを止める。
止めた分の次に、別の請求書が来る。最後は持参金の出納帳を開く。
「君なら親方も聞いてくれるだろう。支払いをもう少し待ってもらえれば、そのあいだに」
机の縁を握った。親方の短い指が、まだ目に残っていた。
(わたしなら、待ってもらえる。だからわたしが頼む。あの人の指を知っているわたしが)
「今まで待っていただいています」
「分かっている。今度は僕も見る。君に全部任せるつもりはない」
ユリアンの声は柔らかかった。昔と同じように、頼みの言葉が置かれる先は決まっていた。
「馬車もある。今日でなくてもいい。荷物をまとめる時間は待つ」
待つ時間を間違えている。
戸口の鞄を見た。留め具は外していない。中には出納帳の控えがある。ここへ来るときの荷物は少なかった。戻ろうと思えば同じ鞄で戻れる。
机の便箋へ手を伸ばした。
下の白い場所を、親指でなぞった。橋の寸法を聞かなければ手紙は書けない。ハンス一人に見てもらう話と、二十人の冬の仕事を用意する話は違う。昨日の百グルデンの見当をそのまま書いて済ませることも出来ない。
頼めば来てくれるかもしれない、と昨日は言った。
来た先に仕事がなければ、それは頼みではなく別の橋で待たせることになる。
「親方への支払いの紙を見せてください」
「持ってきていない。家にはある」
「借入の話も、条件を書いたものが要ります」
「控えを持ってきたと言ったね。そちらには書いていないのか。君の帳簿なら揃っているだろう」
「出る日までの帳簿です。これから払う日も読みたいのです」
「では写しでいいのか」
「はい」
「ベルントに頼む。何を写せばいいか、君から書いてくれないか」
ユリアンの目が便箋へ行った。リーゼルはその紙を引き寄せた。
「親方への支払いと借入の条件です。今お伝えした二つをお願いします」
ユリアンは鞄を見たまま動かなかった。
「戻れば全部見られる」
机から手を離した。戸口の鞄へは伸ばさず、濡れた筆を拭く布を取った。
「ここで見ます」
布にインクの染みが増えた。ユリアンの口が開き、閉じた。
門の外で馬が石畳を掻いた。蹄が二度鳴った。誰も手綱を引いていないのだろう。馬車はまだそこにある。
布を畳み、筆の脇へ置いた。
親方への手紙は出さなくてはいけない。南の橋の支払いも確かめなくてはいけない。
関所の橋の工事がどれほど要るのか、見てもらうための手紙だった。今は宛名の下に二十人の顔が重なる。
知らない顔もある。皆の冬を知っているようには書けない。
ユリアンが持ってきた契約書を閉じた。父の字が紙のあいだに隠れる。束の角を揃え、机の向こう側へ置いた。
便箋は自分の側に残した。
同じ机の上で、ハンスの名の下だけが、まだ白かった。




