第20話 同意を要しない
机の向こうに戻した契約書が、またこちらへ滑ってきた。
受け取らなかった。
「帳簿だけでも見に来てくれないか」
ユリアンの指が紙の角に残っていた。
「二、三日でいい。君なら長くかからないだろう。家にある紙を全部ここへ運ぶより早い」
「支払いの写しをお願いします」
「それを揃えるにも時間が要る。ベルントは他の仕事も抱えているんだ」
筆を拭いた布はもう乾きかけていた。椅子を引き、戸口に置いた鞄を取った。
ユリアンが背を起こした。
「すぐ出られるのか」
鞄を机の脇に置いた。留め具を外し、出納帳の控えを取り出す。
「こちらをお見せします」
机に開くと、夫の背が椅子へ戻った。橋の見積もりを挟んだ頁には折り目がある。
「十一月の二百四十グルデン。今朝お伝えした支払いです」
「君が覚えていることは分かったよ」
「覚えているだけでは支払えません。支払いの日に金が要ります」
見積もりを抜き、金額を指した。ハンスの名の脇に、筆の腹が擦れた跡がある。
「僕のほうで探すと言っただろう。君に金を出せと言っているんじゃない」
「では支払いの紙を頂いた後に、ここで確かめます」
「それなら戻っても同じじゃないか。帳簿を見てから決めればいい。馬車も門で待っている」
見積もりを控えに戻した。紙の端を折り目に沿わせ、頁を閉じる。
「戻りません」
ユリアンの指が契約書から離れた。紙は机の中央に残った。
「……橋はどうする」
答えようとすると、親方の手が浮かんだ。石の上に置かれた短い指。今度はその後ろに、まだ知らない顔も並ぶ。
控えを開き直しかけた。確かめる数字はもうない。戻っても二百四十グルデンは増えない。
それでも手は表紙に載ったままだった。
「親方は君を頼りにしている。君なら事情を話せるだろう。僕が行っても、払う日を聞かれるばかりだ」
払う日。
便箋には親方の宛名しか書いていない。わたしが頼んでも、その日を聞かれる。
表紙から手を下ろした。
「橋のことは、別の形で」
「ヴェスト辺境伯に頼むのか」
窓の外を見なかった。
(アルノーが払った利子の額を、この人に話すつもりはない)
「今はお約束出来ません」
ユリアンは便箋を見た。宛名の下を、こちらからも見られる。
筆を取れば何か書ける。何かでは親方に送れない。
「ではまだ何も決まっていないんだね」
「戻らないことは決めました」
ユリアンの唇が動いた。声はすぐには出なかった。
炉から灰が落ちると、椅子の脚が床を擦った。
「君が届を取り下げればいい」
ユリアンが契約書を開いた。第十二条のある頁を上にして置く。父の余白まで出てきた。
「記録院のことは済んだ話だ。君から言えば、別の話になるだろう」
「離縁の届は受理されています」
「僕もそう聞いた。異議は王室記録院に退けられたよ」
父の小さな字の下に、条文が続いていた。
『夫の同意を要しない』。
頁を繰らなくても読める場所にある。
「僕からでは変えられない。だから君に話している」
「取り下げません」
「僕は離縁に同意していない。それは君も知っているだろう」
紙を押さえた。余白を覆わず、第十二条の終わりに指を置く。
「夫の同意を要しない。この条項で届を出しました」
読み上げたのはそこだけだった。ユリアンの手が紙の上まで出て、止まった。
父が書いた細い線は掠れていなかった。金庫に戻す前にはいつも、この頁を見ていた。見た後で閉じ、次の月の帳簿を開いた。
今は閉じなくてよい。
「君が嫌だと言うなら、今までと同じにはしない。帳簿を見る部屋も変えられる」
「ここで見ます」
ユリアンが話し始めたとき、リーゼルは椅子から立った。
机の縁が膝に当たり、契約書の綴じ紐が揺れた。
「伯爵家の出納は、伯爵家にいたほうが——」
ユリアンは口を閉じた。
「今日はここまでにします」
向かいの人を立たせる言葉を、六年使わなかった。言ってから戸口までの床を見た。鞄を置いた場所はもう空いている。
「写しはここへ送ればいいんだね」
「親方への支払いと借入の条件をお願いします。受け取ってから確かめます」
ユリアンが書類入れを膝に載せた。留め具を外したまま紙へ手を伸ばす。リーゼルも手を出した。
「お父様の写しは置いていってください」
「ベルントが写すと言っただろう」
「新しい写しではなく、こちらが要ります」
余白の字を示した。インクの色は条文より少し濃い。
父は本文を書き終えた後、筆を浸し直したのだろう。
ユリアンが束の角を持った。持ち上がった頁を、リーゼルは押さえなかった。
「こちらを渡せば、家で読むものがなくなる」
「王室記録院に原本があります。条文の写しをお求めください」
「すぐには届かないよ」
「わたしも待ちます」
束が机へ下りた。ユリアンは頁を閉じかけ、手を止めた。
「これはこのままでいいのか」
「このままで」
頁を広げたまま、自分の側へ引いた。父の字が窓の光の下に来た。
ユリアンが書類入れを閉じた。紙を入れたときより、革の腹が平らになっている。リーゼルは戸口へ向かった。
戸口で手袋をはめた。扉を開けると、冷気が袖口に入った。門の脇にいたアルノーが顔を上げた。
先に敷石を踏んだ。ユリアンの足音が後ろからついてきた。
馬車の扉が開いていた。踏み台を置いた御者が、こちらへ頭を下げる。
門の内側で足を止めた。
「ここからお見送りします」
ユリアンは馬車へ目を向けた。開いた扉の向こうに、席が二つ見える。
「荷物を取りに来るなら知らせてくれ。部屋は開けておく」
「要るものがあれば書面でお伝えします」
「そうか。ではベルントから送らせる」
ユリアンがアルノーへ顔を向ける前に、御者が手を出した。ユリアンはその手を借りて乗った。踏み台が引かれる。
扉が閉じたとき、鷹の紋がこちらへ向いた。
乗り口の下に斜めの擦り傷が見えた。嫁いだ翌年、荷を降ろす人が車輪止めを当てた傷だ。
去年はその上に百合があった。白い花と銀の茎。今は鷹の翼の端に、細い銀が残っている。
手袋の中で指が動いた。
四百グルデン。
塗り替え代を書いた帳簿の行が浮かぶ。今度の支払いはいくらなのか。
(もう、わたしが書く行ではない)
御者が手綱を取った。門の前から車輪が離れ、鷹の紋が坂の下へ向く。手袋の中で指を伸ばした。
馬車の背が角を曲がった。敷石には蹄の掻いた白い筋だけが残る。
「長く待たせたわ」
アルノーの外套を見た。肩に載った木の葉が一枚、襟に挟まっている。
「終わったか」
「わたしの返事は終わったわ。お茶はまだなの」
「茶か」
「朝はあなたが淹れてくれたでしょう。今度はわたしの番。入っていって」
アルノーが門を閉じた。閂を落としてから、こちらを見る。
「炉は」
「火は残っているわ。お湯を沸かす前に、葉を取らせて」
襟を指すと、アルノーは自分の肩へ手を回した。右を払い、左も払う。葉は襟に挟まったままだった。
一歩寄った。葉の柄をつまむと、折れずに抜けた。
「門の木の下にいたのね。雨なら家へ入ってもらったのに」
「降らない」
「それは知っているわ。あなたがここにいたんだもの」
右の眉の傷が動いた。戸口を開けて待つと、アルノーが敷居を越えた。
(今日のお客様は二人。お茶は一人分で済んだ。いえ、わたしも飲むのだから二人分ね)
手袋を外し、棚へ置いた。机の向かいの椅子を、アルノーが見た。
「ここでいいか」
「どうぞ。お茶を飲むには少し狭いけれど」
机の中央に契約書がある。棚に移す気にはなれなかった。頁を開いたまま持ち上げ、窓側へ寄せる。
「父の字か」
「ええ。持って来てくださったの。置いていっていただいたわ」
アルノーは契約書に触れなかった。椅子を引いて座り、濡れた筆を見た。
「手紙は」
「まだ宛名だけ。関所の石橋を見に来てくださいと書くつもりだった」
「親方にか」
「親方一人に見てもらうつもりだったの。今は二十人が待っているそうよ」
鍋に水を入れて炉へ掛けた。薪を一本足すと、残った火が皮の下を走る。
「皆さんの冬の仕事になるか、先に確かめたいわ。来ていただいてから足りませんでは困る」
「橋だけでは足りないか」
「まだ分からない。昨日は百グルデンほどかと思ったけれど、寸法まで確かめたわけではないでしょう。二十人が働ける日数も知らない」
アルノーは宛名の下を見ていた。
「関所へ行くか」
「まずお茶を飲んで。わたしも少し座りたいの」
湯を待つあいだに、塩の壺を棚の奥へ戻した。手前に杯を二つ置く。机まで運んだところで、膝から力が抜けた。
椅子に座ると、アルノーが鍋のほうへ顔を向けた。
「俺が淹れる」
「茶葉は右の壺よ。薄くしてね。二杯目も飲みたいから」
立った背中を見送った。
(今度はわたしの番だったのに。座ってしまったら、もう立ちたくない)
杯はまだ空だった。鍋の湯が沸くのを待った。
新しい紙を取り、手紙の下へ置いた。親方への便箋は汚さない。尋ねることは先に別の紙へ書く。
二十人。
冬までに働ける日。
払う日。
そこまで書いて筆を置いた。これなら思い出す順に書いても、後で迷わない。
日数や支払いの日付は、まだ入れなかった。
アルノーが杯を満たした。白い湯気の向こうに、父の字が見える。
その隣で、親方への便箋は封じられずに開いていた。




