↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/24

第20話 同意を要しない

 机の向こうに戻した契約書が、またこちらへ滑ってきた。


 受け取らなかった。


「帳簿だけでも見に来てくれないか」


 ユリアンの指が紙の角に残っていた。


「二、三日でいい。君なら長くかからないだろう。家にある紙を全部ここへ運ぶより早い」


「支払いの写しをお願いします」


「それを揃えるにも時間が要る。ベルントは他の仕事も抱えているんだ」


 筆を拭いた布はもう乾きかけていた。椅子を引き、戸口に置いた鞄を取った。


 ユリアンが背を起こした。


「すぐ出られるのか」


 鞄を机の脇に置いた。留め具を外し、出納帳の控えを取り出す。


「こちらをお見せします」


 机に開くと、夫の背が椅子へ戻った。橋の見積もりを挟んだ頁には折り目がある。


「十一月の二百四十グルデン。今朝お伝えした支払いです」


「君が覚えていることは分かったよ」


「覚えているだけでは支払えません。支払いの日に金が要ります」


 見積もりを抜き、金額を指した。ハンスの名の脇に、筆の腹が擦れた跡がある。


「僕のほうで探すと言っただろう。君に金を出せと言っているんじゃない」


「では支払いの紙を頂いた後に、ここで確かめます」


「それなら戻っても同じじゃないか。帳簿を見てから決めればいい。馬車も門で待っている」


 見積もりを控えに戻した。紙の端を折り目に沿わせ、頁を閉じる。


「戻りません」


 ユリアンの指が契約書から離れた。紙は机の中央に残った。


「……橋はどうする」


 答えようとすると、親方の手が浮かんだ。石の上に置かれた短い指。今度はその後ろに、まだ知らない顔も並ぶ。


 控えを開き直しかけた。確かめる数字はもうない。戻っても二百四十グルデンは増えない。


 それでも手は表紙に載ったままだった。


「親方は君を頼りにしている。君なら事情を話せるだろう。僕が行っても、払う日を聞かれるばかりだ」


 払う日。


 便箋には親方の宛名しか書いていない。わたしが頼んでも、その日を聞かれる。


 表紙から手を下ろした。


「橋のことは、別の形で」


「ヴェスト辺境伯に頼むのか」


 窓の外を見なかった。


 (アルノーが払った利子の額を、この人に話すつもりはない)


「今はお約束出来ません」


 ユリアンは便箋を見た。宛名の下を、こちらからも見られる。


 筆を取れば何か書ける。何かでは親方に送れない。


「ではまだ何も決まっていないんだね」


「戻らないことは決めました」


 ユリアンの唇が動いた。声はすぐには出なかった。


 炉から灰が落ちると、椅子の脚が床を擦った。




「君が届を取り下げればいい」


 ユリアンが契約書を開いた。第十二条のある頁を上にして置く。父の余白まで出てきた。


「記録院のことは済んだ話だ。君から言えば、別の話になるだろう」


「離縁の届は受理されています」


「僕もそう聞いた。異議は王室記録院に退けられたよ」


 父の小さな字の下に、条文が続いていた。


 『夫の同意を要しない』。


 頁を繰らなくても読める場所にある。


「僕からでは変えられない。だから君に話している」


「取り下げません」


「僕は離縁に同意していない。それは君も知っているだろう」


 紙を押さえた。余白を覆わず、第十二条の終わりに指を置く。


「夫の同意を要しない。この条項で届を出しました」


 読み上げたのはそこだけだった。ユリアンの手が紙の上まで出て、止まった。


 父が書いた細い線は掠れていなかった。金庫に戻す前にはいつも、この頁を見ていた。見た後で閉じ、次の月の帳簿を開いた。


 今は閉じなくてよい。


「君が嫌だと言うなら、今までと同じにはしない。帳簿を見る部屋も変えられる」


「ここで見ます」


 ユリアンが話し始めたとき、リーゼルは椅子から立った。


 机の縁が膝に当たり、契約書の綴じ紐が揺れた。


「伯爵家の出納は、伯爵家にいたほうが——」


 ユリアンは口を閉じた。


「今日はここまでにします」


 向かいの人を立たせる言葉を、六年使わなかった。言ってから戸口までの床を見た。鞄を置いた場所はもう空いている。


「写しはここへ送ればいいんだね」


「親方への支払いと借入の条件をお願いします。受け取ってから確かめます」


 ユリアンが書類入れを膝に載せた。留め具を外したまま紙へ手を伸ばす。リーゼルも手を出した。


「お父様の写しは置いていってください」


「ベルントが写すと言っただろう」


「新しい写しではなく、こちらが要ります」


 余白の字を示した。インクの色は条文より少し濃い。


 父は本文を書き終えた後、筆を浸し直したのだろう。


 ユリアンが束の角を持った。持ち上がった頁を、リーゼルは押さえなかった。


「こちらを渡せば、家で読むものがなくなる」


「王室記録院に原本があります。条文の写しをお求めください」


「すぐには届かないよ」


「わたしも待ちます」


 束が机へ下りた。ユリアンは頁を閉じかけ、手を止めた。


「これはこのままでいいのか」


「このままで」


 頁を広げたまま、自分の側へ引いた。父の字が窓の光の下に来た。


 ユリアンが書類入れを閉じた。紙を入れたときより、革の腹が平らになっている。リーゼルは戸口へ向かった。




 戸口で手袋をはめた。扉を開けると、冷気が袖口に入った。門の脇にいたアルノーが顔を上げた。


 先に敷石を踏んだ。ユリアンの足音が後ろからついてきた。


 馬車の扉が開いていた。踏み台を置いた御者が、こちらへ頭を下げる。


 門の内側で足を止めた。


「ここからお見送りします」


 ユリアンは馬車へ目を向けた。開いた扉の向こうに、席が二つ見える。


「荷物を取りに来るなら知らせてくれ。部屋は開けておく」


「要るものがあれば書面でお伝えします」


「そうか。ではベルントから送らせる」


 ユリアンがアルノーへ顔を向ける前に、御者が手を出した。ユリアンはその手を借りて乗った。踏み台が引かれる。


 扉が閉じたとき、鷹の紋がこちらへ向いた。


 乗り口の下に斜めの擦り傷が見えた。嫁いだ翌年、荷を降ろす人が車輪止めを当てた傷だ。


 去年はその上に百合があった。白い花と銀の茎。今は鷹の翼の端に、細い銀が残っている。


 手袋の中で指が動いた。


 四百グルデン。


 塗り替え代を書いた帳簿の行が浮かぶ。今度の支払いはいくらなのか。


 (もう、わたしが書く行ではない)


 御者が手綱を取った。門の前から車輪が離れ、鷹の紋が坂の下へ向く。手袋の中で指を伸ばした。


 馬車の背が角を曲がった。敷石には蹄の掻いた白い筋だけが残る。


「長く待たせたわ」


 アルノーの外套を見た。肩に載った木の葉が一枚、襟に挟まっている。


「終わったか」


「わたしの返事は終わったわ。お茶はまだなの」


「茶か」


「朝はあなたが淹れてくれたでしょう。今度はわたしの番。入っていって」


 アルノーが門を閉じた。閂を落としてから、こちらを見る。


「炉は」


「火は残っているわ。お湯を沸かす前に、葉を取らせて」


 襟を指すと、アルノーは自分の肩へ手を回した。右を払い、左も払う。葉は襟に挟まったままだった。


 一歩寄った。葉の柄をつまむと、折れずに抜けた。


「門の木の下にいたのね。雨なら家へ入ってもらったのに」


「降らない」


「それは知っているわ。あなたがここにいたんだもの」


 右の眉の傷が動いた。戸口を開けて待つと、アルノーが敷居を越えた。


 (今日のお客様は二人。お茶は一人分で済んだ。いえ、わたしも飲むのだから二人分ね)




 手袋を外し、棚へ置いた。机の向かいの椅子を、アルノーが見た。


「ここでいいか」


「どうぞ。お茶を飲むには少し狭いけれど」


 机の中央に契約書がある。棚に移す気にはなれなかった。頁を開いたまま持ち上げ、窓側へ寄せる。


「父の字か」


「ええ。持って来てくださったの。置いていっていただいたわ」


 アルノーは契約書に触れなかった。椅子を引いて座り、濡れた筆を見た。


「手紙は」


「まだ宛名だけ。関所の石橋を見に来てくださいと書くつもりだった」


「親方にか」


「親方一人に見てもらうつもりだったの。今は二十人が待っているそうよ」


 鍋に水を入れて炉へ掛けた。薪を一本足すと、残った火が皮の下を走る。


「皆さんの冬の仕事になるか、先に確かめたいわ。来ていただいてから足りませんでは困る」


「橋だけでは足りないか」


「まだ分からない。昨日は百グルデンほどかと思ったけれど、寸法まで確かめたわけではないでしょう。二十人が働ける日数も知らない」


 アルノーは宛名の下を見ていた。


「関所へ行くか」


「まずお茶を飲んで。わたしも少し座りたいの」


 湯を待つあいだに、塩の壺を棚の奥へ戻した。手前に杯を二つ置く。机まで運んだところで、膝から力が抜けた。


 椅子に座ると、アルノーが鍋のほうへ顔を向けた。


「俺が淹れる」


「茶葉は右の壺よ。薄くしてね。二杯目も飲みたいから」


 立った背中を見送った。


 (今度はわたしの番だったのに。座ってしまったら、もう立ちたくない)


 杯はまだ空だった。鍋の湯が沸くのを待った。


 新しい紙を取り、手紙の下へ置いた。親方への便箋は汚さない。尋ねることは先に別の紙へ書く。


 二十人。


 冬までに働ける日。


 払う日。


 そこまで書いて筆を置いた。これなら思い出す順に書いても、後で迷わない。


 日数や支払いの日付は、まだ入れなかった。


 アルノーが杯を満たした。白い湯気の向こうに、父の字が見える。


 その隣で、親方への便箋は封じられずに開いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。