第21話 関所の石橋
杯が空になっても、便箋は白いままだった。
リーゼルは杯を脇へ寄せた。底に茶葉が一枚残った。
「二十人は、この橋には乗らないわ」
「橋の上にか」
「仕事のほうよ。二人で十日と見たでしょう」
アルノーが窓の外へ目を向けた。坂の上からでも、関所の屋根は見える。
「見に行くか」
「今なら歩ける。紙も持っていくわ」
日数を書いていない紙を畳んだ。便箋は机へ残した。こちらまで持っていくと、石の粉を宛名につける。
橋の三枚目を避けて、荷馬車が通っていた。
番人が棒を置いて車輪を誘導している。先日、沈む石を見つけた場所だ。橋はまだ直っていない。避ける手だけが先に動いた。
「通し方を変えたのね」
「重い荷は一台ずつだ」
「止めれば税が減るわ」
「落ちれば全部なくなる」
短い返事の向こうで、車輪が石を打った。足の裏まで揺れが来た。
欄干の欠けた場所を避け、橋の端へ寄った。紙に橋の形を描く。目地、欄干、沈んだ石。橋の下も覗いた。
「下までは、わたしには決められないわ」
「親方に見せる」
「先に一人で来ていただきたいの。二十人の旅を無駄にしたくない」
紙の橋がいびつになった。二本の線の幅が片側だけ狭い。
(帳簿の罫線なら真っ直ぐ引けるのに。橋はそう都合よく四角くない)
「何を描いている」
「橋よ。見れば分かるでしょう」
アルノーが紙を横から見た。
「道にも見える」
「ではここに川を描くわ。川の中に道はないもの」
岸の土を踏むと、靴が沈んだ。雨は降っていない。橋へ上がる道の端に、水が溜まっている。
「ここはいつも濡れているの?」
「秋になると。荷が轍を掘る」
「排水の溝があるはずよ」
アルノーが落ち葉を靴先で払った。泥の下に石の縁が出た。溝の口を、土と葉が塞いでいた。
「これも見ていただく。橋の上だけを直しても、水が戻ってきたら困るわ」
「二十人分になるか」
「まだ数えない。仕事を探して、要らないところまで壊したくないの」
アルノーが靴先を引いた。溝の口から、細い水が出た。
「金はどこから出す」
紙から顔を上げた。先に聞くつもりだったことを、先に聞かれた。
「領の橋なら、領の金から。あなたの冬の支払いを見せて」
「書斎にある」
「現金もよ。これから入る税だけでは頼めない」
「分かった。箱を開ける」
橋の線の下へ、親方の下見代と書いた。
最初に払うのは二十人の給金ではない。ここへ来て、この橋を見てもらう仕事の代金だ。
書斎の窓を閉めた。紙が風で動かなくなった。
冬の薪、関所の給金、飼い葉。支払う分を引いてから、箱の金を数えた。二百八十グルデンが残った。
「ここから全部は出さないわ。急に要る金もある」
「二百四十なら」
「残り四十。それで足りる?」
「雪の前の備えは別にしてある」
アルノーがもう一枚の控えを出した。塩と薪の受取日が入っている。品目の列にも金額にも、空いた行はなかった。
「こちらは書いてあるのね」
「君がうるさい」
「まだ三日しか言っていないわ」
言ってから、控えをもう一度見た。三日で、ここまで書いたのだ。
「日付も入っている。これならわたしがいなくても読める」
アルノーは箱のほうを見た。
「二百四十。先に分ける」
「親方が見て、多すぎると言ったら戻すのよ」
「足りなければ」
「工事を分ける。ある金で出来るところから」
布袋の口が結ばれた。机の上に、帳簿とは別に金が置かれた。
父の家へ戻り、宛名の下へ筆を入れた。
『親方。遠いですが、来ていただけますか』。
まず石橋を見てほしいことを書いた。橋の端で描いた図を添えた。旅と下見の代金は払う。工事の金は分けてある。二十人の仕事になるかは、親方に見てもらってから決めたい。
最後の文を書き直しかけて、やめた。皆を連れて来てほしいとは、まだ書けない。
(親方なら来る。そう思っている。だからこそ、来てから違うと言いたくない)
翌朝、南へ向かう商会の荷に手紙を託した。往きだけでも数日かかる。控えを便箋のあった場所へ置いた。
手紙を出して六日目、関所へ届いた荷の上に、ベルントの封書が載っていた。
宛名はリーゼル・ヴァイデンだった。紙を開く。親方への支払いの写しと、ローゼン商会の通知の写しが入っている。
利子の支払期から三月滞れば、ファルケ橋の通行税を差し押さえる、とあった。
通知の日付は、夫が来る前だった。差押えの予告で、実行の知らせではない。支払期と期限を、控えの隅へ写した。
借入の条件は入っていなかった。添えられた短い手紙に、新しい貸付は決まらなかったと書いてある。最後に、伯爵家を辞する旨があった。
ベルント・クラウゼ。
名の脇に『代』はついていない。
「ベルントさんも出るそうよ」
アルノーへ手紙を渡した。番小屋の台帳の上には置かなかった。
「次の勤めは」
「書いていないわ。届け先だけ確かめて、返事を出す」
六年、隣にあった机が空く。鍵は誰が預かるのだろう。思い浮かび、そこまでで封書に目を戻した。
南から毛織物を運んできた荷主が、台帳へ名を書きに来た。ペンを返すとき、こちらに気づいた。
「離れのお方も出ましたよ。ローデ家へ荷を届けた帰りです」
「マリカ様が」
「『お金が無いならここにいる意味がないじゃない』と。箱は御実家へ。馬車は伯爵家へ戻しました」
荷主の袖口に毛糸が絡んでいた。指で外しながら、税の額を尋ねている。
元に戻った鷹の紋を思い出した。そういうことだったのか。手紙を折り、封書へ戻した。
台帳に、毛織物の数量を書いた。荷はここを通って、北へ行く。
親方の返事が届いたのは、手紙を出して十日目だった。
封の紐が太かった。解くと、紙の端から砂が一粒落ちた。
『行く。奥様が言うなら』。
その下に、先に俺だけ行く、とあった。橋を見ないうちに人は連れていかない。道具と石はどこまで揃うか。川が凍るのはいつか。
送り返された図には、川の流れる向きが描き足されていた。細い矢印が、いびつな橋を横切っている。
(川を描けば橋に見えると思ったのだけれど。まだ足りなかったのね)
砂を指の腹で押さえた。紙に擦り込まず、机の端へ落とした。
来てくれる。
返事をアルノーの書斎へ持っていった。
「川は描いたわよね」
図を見せると、アルノーの右眉の傷が動いた。
「水溜まりだと思った」
「そのときに言ってほしかったわ」
手紙の下には、到着予定の日付があった。こちらから手紙を出して十四日目に当たる。あと四日だ。関所の北側に、石を置く場所を空けた。
ハンスは橋を渡る前に、下へ降りた。
旅の外套を脱ぎ、アルノーへ預けた。鞄から短い鉄の道具を出す。挨拶は岸から戻ってからだった。
「奥様。あの絵より悪い」
「橋のほうが、ですよね」
「絵もな」
アルノーが外套を畳んだ。親方は笑わず、道具の泥を布で拭いた。
「目地だけなら二人で出来る。ここは岸もだ。水を逃がす道が埋まってる」
「上がる道の端でしょうか」
「それと下。石がずれた分は据え直す。奥様、そこを踏むな」
足が止まった。親方の短い指が、靴のすぐ先を指している。上に乾いた葉が載り、下の土だけが削れていた。
アルノーが肘を差し出した。掴まって石の側へ戻った。靴の泥は乾いているのに、手袋の中だけ汗ばんだ。
「図には書けなかったわ」
「だから来た」
手を離すと、親方が先へ進んだ。橋へ上がり、沈む石を踏まず、その脇から見ている。
「全員で一緒にやる場所じゃない。石を据える組と、岸と溝の組。石を運ぶ手も要る」
「二十人で、どのくらい掛かりますか」
「十日。石がここにあればだ。寒くなる前に湿った仕事を済ます」
ハンスが空を見た。アルノーも見た。二人は違う場所を見ているようだった。
「凍れば止めるぞ」
「止めろ」
「止めた分をただ働きにはしないでください」
二人がこちらを向いた。紙を開いた。二十人、働ける日、払う日。あの日の字が、まだそこにある。
「石を切る仕事は小屋でも出来ますか。使う石を先に揃えておけば、雨の日にも手を止めずに済むでしょうか」
「出来る。ただし、橋に据える順に切る。余りは作らん」
「では小屋も借りたいの。空いた荷置き場があったわね」
「使える」
アルノーが橋の向こうを指した。屋根の下に、車輪止めだけが並んでいる。
「寝る場所も二十人分、先に決めて。来てから探すのは嫌よ」
「関所の空いた兵舎がある。寝具を入れる」
ハンスが紙に印を入れた。溝の位置だった。こちらの橋より、短い線がよほど分かりやすい。
「二百二十。旅と飯、石と給金を全部入れてだ」
「内訳をお願いします。給金は伯爵領と同じだけ払えますか」
「十日分なら払える。こっちの石は近い。運び賃が少なくて済む」
布袋から出す額を、紙の隅に書いた。下見と旅に二十グルデン、すでに払った。袋には二百二十が残っている。工費まで賄える。
「最初の支払いは、いつがいいでしょう」
「出る前だ。留守にする家へ飯代を置いてくる」
筆が止まった。二十人の後ろに、留守を守る人がいる。
「では最初の給金を、迎えの荷車で届けます。ここへ来た日に受け取る分とは分けて書きます」
「奥様。冬じゅうの仕事にはならん」
「分かっています。けれど、十日と伝えても来ていただけるでしょうか」
筆の先を、払う日の欄から上げた。
「俺が聞く。来るかは皆が決める」
「では、十日の仕事と伝えてください。次に直すところは探しますが、まだ頼めない仕事は書きません」
「なら、皆にそう言う。金は誰が数える」
「わたしが。名前を二十人分、教えてください」
ハンスは紙を裏返した。名前を書き始めた。左手の短い指が、風の来る側を押さえている。
馴染みのない名が多かった。一人ずつ、控えへ写した。
書き終えた名を数えた。二十。親方は別だった。
ハンスが紙を返してきた。金額の下に、来られる日が入っている。筆を取った。
払う日の欄には、迎えの荷車が南を出る日を書いた。ここで働き始めるより先の日だ。
「親方。待っていただく手紙ばかりでしたね」
「今度は違うな」
返す言葉を探した。顔を上げると、ハンスはもう橋を見ていた。
(違う。今度は、金を持って迎えに行ける)
紙を風から庇った。アルノーの外套の影が、こちらの手まで伸びた。
工事の控えには二十人の名が入り、その横で、最初に払う日付のインクが乾いていた。
迎えの荷車には、名簿と金を載せた。
戻ってきた荷車から、二十人が道具を降ろした。紙で初めて知った名を呼ぶと、白い前掛けの男が一人ずつこちらを向いた。
出発前に家へ置いた分を確かめ、今日渡す分を数えた。受取の印が二十人分、控えに並んだ。
橋の脇で石を叩く音が始まった。凍る朝には橋の作業を止め、小屋で据える順に石を切った。凍った土が融ければ岸へ出た。働いた日を、毎夕控えに入れた。
十日分の仕事は、雪が積もる前に終わった。
ハンスが橋の下から上がってきた。三枚目の石の両脇を確かめ、番人を呼んだ。
「そこは、もう避けなくていい。一台ずつ通せ」
番人が棒を持ち上げた。親方が御者に頷き、車輪が橋へ入った。
車輪が三枚目の石を打った。足の裏へ揺れが来た。石は沈まなかった。麦の袋が揺れながら、向こう岸へ遠ざかった。
番人は棒を橋の端へ寝かせ、次の荷馬車へ手を上げた。
最後の給金を、名簿の順に渡した。出発前と到着日に払った分を引き、働いた日と額を一人ずつ確かめる。
一番に受け取った男は、硬貨を掌に広げ直した。親指で一枚ずつ寄せて、手持ちの袋へ入れた。指の節に白い粉が残っていた。
「小麦粉を買って帰りたいんです。荷車に積めますか」
「親方、袋を載せる場所も空けられますか」
「道具と離せ。袋が破れる」
男がハンスへ顔を向けた。
「一袋だけです。家の粉がそろそろ切れるので」
男が袋の口を結んだ。端を一度引いてから、懐へ入れる。
粉一袋。ここから家へ持って帰れるものがある。
荷車の端を指した。道具の箱を載せる前なら、場所を分けられる。男はそちらを見て頭を下げ、市場のほうへ歩いていった。
次の名を呼んだ。控えの受取印が最後の行まで揃うと、ハンスが紙を引き寄せた。金額の列を指で辿り、こちらへ返してくる。
「これで合ってる。皆を帰すぞ」
「御家族にも、よろしくお伝えください」
続きの仕事を頼む言葉は、まだ書かなかった。控えを親方へ渡した。荷車には道具の箱と、縄を掛けた粉の袋が積まれていた。
冬を越して三月に入った日、南から来た荷主が封書を渡してきた。
差出人はローゼン商会だった。ファルケ橋を通る荷を扱う領へ送った、差押えの通知の写しだった。
前の通知にあった利子の支払期から、三か月を過ぎても納まらなかった。ファルケ橋の通行税は、もう商会が取り立てている。
日付を見てから、紙を畳んだ。
南の橋には帰っていない。こちらの橋は冬を越した。台帳の支出欄には、十日分の給金も石代も残っている。
工事の控えを開くと、ハンスがつけた泥が端に残っていた。封書をその中へ挟まず、別に置いた。
「橋へ行くのか」
戸口で、アルノーが外套を着ていた。
「ええ。雪解けの水が溝を通るか見たいわ」
「俺も行く」
「あなたも溝を見るの?」
「橋で話がある」
筆を置いた。仕事の話ならここでも出来る。けれどアルノーは戸口で待っていた。
机の引き出しから手袋を取り、外へ出た。
冬のあいだ白かった橋の欄干が、坂の下で石の色に戻っていた。
今回は、橋の図をやり取りするところにもう少しお付き合いしたくなりました。
絵で説明するとき、自分にははっきり見えているものが、相手には別のものに見えることがありますね。
川まで描き足したのに、水溜まりだと思われていたとは。
いっそ「これは川です」と横に書けば、間違われずに済みそうです。
ただ、橋にも道にも名前を書き添え始めると、紙の上がだんだん字でいっぱいになる。
最後は全部、文章で説明してしまいたくなります。




