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第22話 リーゼ

 沈んでいた石の上で、リーゼルは足を止めた。


 冬の前なら避けた三枚目だ。今は靴底を載せても動かない。端の目地に砂が戻っていないか、身を屈めて見た。


「話は、そこからするのか」


 アルノーの靴が隣に来た。


「橋でと言ったのはあなたよ。先にこちらを見せて」


 石の縁を確かめて立ち上がった。手袋の指先が濡れた。欄干の下に残る雪から、細い水が道へ出ている。溝の口へ流れて、その先で見えなくなった。


「流れているわ。親方に知らせられる」


 アルノーも溝の先へ目を向けた。


「下までは見ないのか」


「岸へ降りないと分からないもの。今日は上だけ。あなたの話をいつまでも待たせては悪いでしょう」


 欠けていた欄干も据え直されていた。継ぎ目はまだ周りより明るい。冬を挟んでも、どこに手を入れたか見て分かる。


 そこへ手を置きかけて、濡れた手袋を見た。外して二枚を重ねた。爪の際に、今朝のインクが残っていた。


「紙は持ってこなかったの?」


「要らない」


「工事の話ではないのね。仕事なら家で聞けるのにと思っていたの」


「君に聞きたいことがある」


 鞄も持っていない。こちらの手にも紙はなかった。書く用意をしてこなかったのは、わたしも同じだ。


「では聞くわ。……橋を見ながらではなくて、ちゃんと」


 向き直ったところで、関所のほうから御者が声を掛けた。荷馬車が橋へ入ってくる。


 アルノーが欄干側へ寄った。リーゼルも隣に立った。車輪が三枚目を踏むと、靴の下へ揺れが来た。麦袋の口を結ぶ紐が跳ねた。石は沈まず、車輪は向こうへ抜けていった。


 荷の後ろが見えなくなってから、アルノーがこちらを向いた。


「リーゼ」


 手袋を握る指が止まった。


 名前の終わりを待ってしまった。続きはなかった。河港で荷を数えていた頃は、それだけで振り向いた。ずいぶん長いあいだ、誰からも呼ばれなかった名前だ。


「俺と結婚してくれ」


 濃い灰色の目が、こちらを見ていた。


 石の下で水が鳴っていた。車輪の音は遠い。唇を開けても、息が出るだけだった。


 (結婚)


 日付も財産の額も、契約書に署名した人の名も覚えている。けれど、何も持たずに立っているこの人の一言には、読むところがなかった。


「……もう一度言ってくれる?」


 アルノーの右眉がわずかに動いた。


「俺と結婚してくれ」


「聞こえなかったのではないの。もう一度聞きたかっただけ」


 言ってから手袋へ目を落とした。こんなことまで言うつもりではなかった。二度目のほうが顔に熱が来た。


「理由を聞いてもいい?」


 アルノーの手が外套の脇で動いた。握っていた指を伸ばした。


「君が好きだ」


 帳簿のことは出てこなかった。爪の黒いところを見て、顔を上げた。


「それで全部?」


「ほかに要るか」


「要らないわ。……それなら、いいの」


 手袋を戻そうとして、片方の口に指が入らなかった。二枚をまとめて握っている。片方ずつにするだけなのに、うまくいかない。


 (何をしているの、わたし。二枚よ。帳簿なら七十二冊でも揃うのに)


 アルノーの手が出かけて、引かれた。


「寒いか」


「寒くはないの。手袋に困っているだけ。少し待って」


 ポケットへ二枚とも押し込んだ。これなら返事の途中で落とさずに済む。


「もう大丈夫。あなたは、落ち着いているのね」


「返事を聞くのは初めてだ」


 空いた手を欄干に載せた。石が冷たい。


「初めてではないことがあるの?」


「六年前に求婚状を出した。君の父へ」


 掌が石の上を滑った。下の水を親指で拭った。


「お父様に? わたしは知らなかったわ」


「国境へ行く前だ」


「あなたが戻ったときには、わたしは嫁いでいた。間が悪かったのだとだけ思っていたの」


 アルノーは手を欄干に置かなかった。こちらを見たまま立っている。


「お父様からも返事はなかったの?」


「保留になっていた。あとで番頭に聞いた」


「どうしてか、聞いた?」


「辺境は遠いと」


 川を見下ろした。岸の雪が水へせり出して、下だけが薄くなっている。


「わたしの返事は、聞けなかったのね」


「任地へ送ってくれと頼んだ。届かなかった」


「顔を見て聞くことは考えなかった?」


「返事を待たずに国境へ行った」


 右眉の傷へ目が行った。あの頃の顔を思い浮かべようとして、今の顔ばかり見てしまう。


「遠回りをしたのね。わたしも、あなたも」


 返す言葉は来なかった。そこを二度言わせるつもりはない。石の上で指を伸ばした。


「あの春に聞いていたら、何と答えたのかしら」


 声にしてみると、答えのない問いだと分かった。アルノーも答えずにいた。


「お父様にも、もう聞けないわね。どうしてわたしに渡さなかったのか」


 親方が据え直した欄干へ目を戻した。あの頃のわたしは、この橋を知らない。六年分の受取証を見た日のことも、この人が淹れた朝の茶も。


「今日は行かないのね」


「どこへ」


「返事を聞く前に。今度は、わたしがここにいるのだから」


「行かない」


 手が欄干から離れた。今度は掌の水を気にしなかった。


「六年前の代わりの返事ではないの。今日のわたしが答えてもいい?」


「今、君に聞いている」


 胸の奥で息がつかえた。


「すぐ言えないのは、嫌だからではないわ」


 アルノーの目を見た。口元が少し固く見える。


「あなたの家で暮らすことを、今考えているの」


「足りないものがあるか」


「物なら足りているわ。お茶もあって、話を聞いてくれる人もいる」


 喉の奥が緩んだ。茶葉の壺は、あの台所のどちらだっただろう。物を確かめようとすると考えられる。けれど、言いたいのは壺の場所ではない。


「朝は帳簿を開くわ。分からない行はあなたに聞く。市場にも行く。それは今もしていることでしょう」


「君が値を下げる」


「一割くらいよ。……そちらではなくて、夜の話なの」


 口元が勝手に緩んだ。こんなところで市場の話に戻らないでほしい。


「暖炉の前で眠くなっても、帰るために立たなくていいのね」


「客間は空いていたぞ」


「知っているわ。でも、泊めてもらうのとは違うの。次の日もここへ帰ってきていいと思いたいの」


 アルノーが橋の向こうを見た。邸へ上がる坂が、欄干の先に見える。


「君の家になる」


 隣へ半歩寄った。外套の襟に小さな砂粒がついている。指で払おうとして、手を止めた。


「仕事をしない日も?」


「休めばいい」


「あなたとお茶を飲むだけの日も、そこにいていいのね」


「茶は沸かす」


 笑いが出た。泣きたいのかと思っていたのに、頬が緩んでしまった。


「全部沸かしてもらうつもりではないわ。わたしが淹れる日もあるの」


 アルノーの右眉の傷が動いた。今度は口元も一緒に動いていた。


「あなたと暮らしたいの」


 出せた。


「契約書を二人で読みましょう」


 アルノーがこちらへ足を寄せた。


「最後までか」


「ええ。分からないところは、わたしも聞くわ。書いてあるから大丈夫と一人で決めたくないの」


「君にも読めないところがあるか」


「あるかもしれないでしょう。これから書くものなのだから。あなたの考えていることも、聞かないと分からないわ」


「途中でも聞け」


 手が出された。掌はもう乾いていた。自分の手を重ねると、欄干の冷たさが薄れた。


「行きましょう。ここに二人で立っていたら狭いわ」


「どっちへ」


「父の家。今日は、わたしの机から紙を出したいの」


 橋の端で番人の手が上がった。次の荷馬車が来る。アルノーが空いた手で返し、橋を離れた。


 溝を流れる水がまた見えた。ちゃんと流れていた。親方への知らせを忘れないよう、口の中で一度繰り返した。


 隣の手は離さなかった。




 戸口で外套を脱ぐとき、ようやく手が離れた。


 手袋をポケットから取り出した。片方の指先はまだ湿っている。炉のそばへ掛けてから、机へ向かった。


 工事の控えが開いていた。親方の泥の跡を見て、端の余白に短く書いた。溝を水が通った。三枚目は動かない。それだけ書くのに、いつもよりゆっくり筆を運んだ。


「親方にも、手紙を書くのか」


「ええ。冬を越したことを知らせたいの。今日の溝のことも」


 アルノーが炉へ薪を入れた。鍋を見つけ、湯を沸かす用意をしている。


「お茶は、本当に沸かすのね」


「飲まないのか」


「飲むわ。二杯目も欲しくなると思う」


 筆を置いた。ここへ帰ってきて、いつものように茶を待てる。それが嬉しかった。


 控えを棚へ移した。ローゼン商会の封書はその隣へ。父の字が残る契約書も閉じて置いた。


 引き出しを開けると、便箋の下に使っていない紙がある。一枚取り出し、机の中央へ置いた。


 向かいの椅子を引いた。脚が炉へ近すぎたので少し離す。自分の椅子も横へずらした。


 アルノーが杯を二つ運んできた。紙の手前で一度止まり、杯を棚へ置いた。


「そちらへ座って。向かいより、隣で見てほしいの」


「狭いか」


「少し。でも二人で見られるわ」


 窓側の椅子を示すと、アルノーが座った。リーゼルも隣へ座る。机の角に上着の袖が触れ、こちらの袖口に重なった。


 袖にインクをつけないように、こちらの肘を少し引いた。


「わたしが書くわ。読み終わるまでに何度も聞くかもしれないけれど」


「俺も聞く」


 何から書こう。書き終えてから渡すのではなく、ここで聞ける。


 白い紙の端を押さえると、反対側にアルノーの指が載った。

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