第23話 第一条
最初の一行が、空いたまま埋まらない。
リーゼルは筆先を壺の縁で拭った。紙の端にはアルノーの指が載っている。今なら何でも聞けると思って座ったのに、何から聞けばいいのか分からなかった。
「いつもは何を書く」
「誰と誰が契約するか。それから財産のこと」
「書けばいい」
「そうなのだけれど」
紙の上へ筆を運んだ。袖が触れた。慌てて肘を引くと、筆先からインクが一滴落ちた。紙に届かず、机の古い傷へ入った。
(契約書を一枚書くくらいで。七十二冊の帳簿は隣に誰も座らないから、無事だったのね)
布で拭った。傷の底までは取れない。
「離れるか」
「隣にいて。袖だけ少し寄せてほしいの」
アルノーが腕を机の角へ移した。こちらの手が動く場所が空く。紙の端の指は残った。
上に『婚姻契約書』と書いた。
その下へ続けかけ、棚を見た。閉じた契約書の背がある。父の字を写せば早い。財産の名を書き換え、相手の名を変える。前の契約書ならどの頁に何があるか、開かなくても分かる。
筆を置いた。
「先に下書きにしてもいい?」
「今の紙は」
「最初からきれいに書けると思ったの。少し、見込みが甘かったわ」
引き出しからもう一枚出した。片側に父が営んだ商会の古い荷の控えがある。裏は白い。余白の広さなら新しい紙と変わらない。
「財産から聞く。わたしの金を、領の金庫へ入れるつもりはないの」
「分けておけ」
「商会の帳簿も別のままにするわ。あなたの家の帳簿と一緒には締めない」
「ああ」
書いた。婚姻の後も、それぞれの財産は分けて管理する。商会の名を添える。数字の欄を作りかけて止めた。先に決めたいのは額ではない。
「領のために使うときは、どうする?」
「君に聞く」
「わたしが自分から出すと言ったときも?」
「用途を聞く」
筆が動いた。どちらかの財産を領のために使うときは、使途と額を相手に示して同意を得る。
「これで分かるかしら」
アルノーが紙を自分のほうへ少し引いた。書いた行を指で辿ってから、止めた。
「君が橋へ金を出すと言ったら、俺も額を聞くんだな」
「ええ。あなたが出すと言ったときも、わたしが聞く」
「足りると言われてもか」
「何に足りるかは聞きたいわ」
「分かった」
紙が真ん中へ戻ってきた。
(もう一度聞かれた。わたしが書いた言葉を、わたしへ返された)
相手の同意。そう書けば済むと思っていた。アルノーが口にすると、橋へ出す金を二人で数える日のことになった。
その下に、帳簿の扱いを書き始めた。
領の帳簿を妻が締める。
六年書いてきた言葉だった。指が先に覚えている。次に書く署名の字まで思い浮かび、筆を上げた。
「これは、まだ決めていないわね」
「何だ」
「わたしが帳簿を全部引き受けると書きかけたの」
アルノーがこちらの書いた一行を見た。
「全部か」
「今は四冊だけれど、関所の台帳もあるし。商会のほうも見る。出来るだけやるつもりでいたわ」
「出来ない日は」
「翌日に回す。月末なら、その前の日までに済ませておけば」
言いながら、日を数えていた。商会から控えが届く日。関所の出納を確かめる日。四冊を締める日。それからこの家の火を落とし、坂の上にあるアルノーの家へ移る日。
坂を上がることまで、仕事の後に置いている。
「リーゼル」
顔を上げた。
「君に頼む前に書くな」
筆を持ち直した。親方に手紙を出すときは、まだ頼めない仕事を書かなかった。自分の仕事なら先に入れてしまう。
「……では、頼んで」
アルノーの右眉が動いた。
「帳簿を見てほしい」
「月末に締めるところまで?」
「そこまで頼む」
「分からない行はあなたに聞くわ。控えがないものは、その日のうちに書いてもらう。わたしが聞くまで取っておかないで」
「書いている」
「知っている。冬の支払いは、日付まで揃っていたものね」
あの控えを見たときの字を思い出した。急いで書いたらしい斜めの行。正しい欄に入っていた。こちらが書かなくても、読めた。
「全部の空欄をわたし一人で拾わない。その約束なら引き受けるわ」
「それでいい」
書きかけた一行に二本の線を引いた。下書きだから潰してもよいのに、前の字が読めるように残していた。
仕事はその都度、引き受ける本人と相談して決める。
アルノーに見せた。短い行だった。
「帳簿もか」
「帳簿も。何も言わずにわたしが始めることはあると思うわ。空いている行は、やはり気になるもの」
「治らないな」
「そう簡単にはね。でも、始めたから全部任せたと思わないでほしいの」
「聞く」
筆を紙から離した。これなら今の四冊だけでなく、まだ見ていない仕事にも使える。
棚から父の契約書を下ろした。
紙の角に折れ跡がある。開いた頁は十二条だった。探す手間はなかった。薄く残る父の字の横へ、自分の下書きを並べた。
婚姻より六年、嫡子なき場合。
筆を取った。下書きの空いている場所に『婚姻より』と書いたところで、止まった。
後の文は覚えている。持参金の全額とともに離縁できる。夫の同意を要しない。六年、わたしの持参金はあの家を動かす金だった。あの朝にこの字を読み上げて、持って出られる自分の金に戻した。
父の余白へ目を向けた。
使わずに済むならそれでいい。
そう言ってくれた人は、もうこの机には座らない。
「同じ条項を入れるか」
アルノーが尋ねた。父の写しにも下書きにも手を伸ばさなかった。
「あなたは、嫌ではないの?」
「必要なら入れろ」
「あなたはどう思うの?」
アルノーは少し黙った。紙の端から指を離し、膝へ置いた。
「読まずに決めたくない」
父の写しを二人の中央へ寄せた。こちらに向いていた頁を、少しだけアルノーへ傾ける。彼は六年前の条項を読み、余白にも目をやった。
「君がこれで出られたことは知っている」
「ええ」
「今の君にも要るか」
『婚姻より』の先は白かった。
六年。あの家で数えた朝が浮かぶ。子供がいない。条件は揃っていた。父が書いた一行は、夫が何と言っても開く道になった。それを間違いだったことにはしたくない。
「お父様が書いてくれて、よかったの」
「ああ」
「これがなかったら、持参金をどこまで取り戻せたか分からない。だから、同じものを書かないのが少し怖いわ」
左の薬指で父の頁を押さえた。指輪の跡は、前ほど白く見えない。爪の際のインクのほうが濃かった。
「でも、六年後に子供がいるかどうかであなたと暮らすことを決めたくないの」
アルノーの目が、こちらを向いた。
「俺もだ」
「もし生まれなかったら、そこで終わりにしたい?」
「しない」
「では六年という数字も、今ここで入れる理由がないわね」
下書きの四文字へ筆を戻しかけた。すぐには線が引けなかった。
入れなければ、自分はまた言わないまま何年も働くだろうか。気づいた空欄を埋めて、相手が気づくのを待って。書かれた言葉を一人で頼りにして。
「何かあったら、言ってもいいのね」
「何かなくても言え」
思わず顔を見た。アルノーは下書きへ目を戻していた。
「黙っていると分からない」
「あなたも、よ」
「……ああ」
「わたしも全部は分からないの。あなたが寒いと言えば、薪を足そうと思う日だってあるわ」
「それは足してくれ」
笑いが漏れた。筆先が揺れたので、壺へ戻した。
「足してから、聞くわね」
父の字をもう一度読んだ。出ていける条項は、あの朝のわたしに必要だった。今も、持って出た財産を渡し切るつもりはない。下書きの上の行には、分けて管理すると書いてある。
その行を指で辿った。アルノーが先ほど確かめた場所だった。
「この六年の条項は、写さないわ」
言ってから筆を取った。
『婚姻より』に二本の線を引いた。下書きの余白へ、新しい期限は書かなかった。
父の契約書は閉じた。棚へ戻さず、机の手の届く端へ置いた。
棚へ置いた茶が、すっかり冷めていた。
アルノーが杯を運んできた。机の端を見て、父の契約書から離れた場所へ置く。
「待て」
「まだ飲まないわ」
「鍋に湯がある」
台所へ立つ背中を見送った。下書きの字を最初から読んだ。財産、仕事、住む場所。『ヴェスト辺境伯邸』と書いたところで、父の家のことを聞いていなかったと気づく。
アルノーが戻るまで、筆を置いた。
「この家には戻ってもいいのよね」
「君の家だ」
「商会の用事もあるわ。何日かこちらにいることも」
「知らせてくれ」
「いつ戻るか?」
「分かっていれば」
杯から湯気が上がった。両手で持つと、紙を押さえていた指先が温まった。
「まだ決まらなければ、決まらないと書くわ。何も来ないまま待たせるのは嫌だもの」
「俺も書く」
「国境へ行くときに?」
「ああ。帰りが遅れるときも」
あの春の返事は、任地へ届かなかった。今日からの知らせは、本人へ書ける。
杯を置いて、下書きへ一行足した。家を離れるときは、行き先と帰る予定を相手に知らせる。決まっていないことは決まっていないと伝える。
「あなたの『書く』を、ここへ入れたわ」
アルノーが読んだ。
「帰る日を必ず決めろとは書いていないな」
「決められないことまで約束したら、最初から嘘になるでしょう」
うなずいた顔を見て、茶を一口飲んだ。
最初に出した白い紙は、上に『婚姻契約書』とあるだけだった。その下の一行が、まだ空いている。ここから財産を書こうとしていたのだ。
下書きの字を見た。尋ねたことしか書いていない。尋ねなければ、帳簿を締める一行はそのままだった。六年の期限も、父の字に続いて書いたかもしれない。
「一番上に入れたいことがあるの」
「何だ」
「読んでから決めること。書いたわたしも、もう一度読む」
筆を取った。白い紙の一行目へ、今度は迷わず字を置いた。
『第一条 この契約は、二人で読む』。
書き終えた『む』の端が、まだ濡れていた。
「最初に、それを書くのか」
「ええ。途中で聞いてもらえるほうがいいわ。さっきの帳簿のところみたいに」
アルノーがこちらの字を読んでいる。続きを促さず、一行を確かめてから顔を上げた。
「君が読む前に、俺が書き足したら」
「一緒に読む。それで困ることがあれば、どちらも言うの」
「何度でもか」
「何度でも。わたしが先に書いても同じよ」
父の契約書の折れた角が、杯の向こうに見えていた。あの朝には、読んでいるのはわたし一人だった。
「契約は、読んだ人の味方をします。だから、二人で読みましょう」
口にしてから、隣の顔を見た。
アルノーの右眉の傷が動いた。彼は杯を脇へ寄せ、下書きを白い紙のすぐ横に置いた。
「次は財産だな」
「ええ。少し長くなるわ」
「読める」
「読める長さに書くつもりよ。分からなくなったら、途中で止めて」
筆を壺へ入れた。茶はまだ半分ある。話すたびに置き直すので、なかなか減らない。
今度はアルノーが下書きの最初の行を指した。
「この『それぞれ』は、俺の金も分けるということだな」
「もちろん。わたしの商会から借りるなら、辺境伯様でも使い道を聞くわ」
「利子は」
「そこは別の契約よ。一割からは下げないかもしれない」
言い終えて笑った。アルノーの口元も緩んでいた。
下書きに戻った指の隣へ、自分の指を置いた。
窓からの光が薄くなり、アルノーが燭台を二枚の紙の間へ寄せた。火がつくと、下書きの小さい字も読めた。
「茶を飲んでからにするか」
「もう少し書きたいの」
白い紙を手前へ引いた。第一条はもう乾いていた。その下へ、さっき二人で確かめた財産の行を書き写した。
書き終えた行を、アルノーが声に出して読んだ。最後の字まで聞いてから、次の行へ筆を置いた。




