第24話 二人の署名
署名の欄を、空けておいた。
リーゼルは最後の行から筆を離した。燭台の蝋が台へ落ちて固まっている。隣でアルノーが紙を押さえていた。
「終わったか」
「書くほうはね。明るくなってから、もう一度読みたいわ」
筆を洗った。下書きの端に重なった訂正の線は、清書にはなかった。けれど、どの字を止めて何を聞いたかは覚えている。
父の契約書を棚へ戻した。その隣に新しい紙を置き、杯を取った。今度の茶は冷め切る前に飲めた。
朝の机に三通を並べた。
原本と、二人がそれぞれ持つ写し。昨夜の一通を見ながら、残りも書いた。腕を伸ばすたびに袖を気にしなくて済むよう、今日は杯を棚へ置いたままだ。
アルノーは紙の向こうから椅子を引いてきた。
「今日も隣か」
「向かいでは上下が逆でしょう。三通とも読んでほしいの」
「昨日も読んだぞ」
「わたしが写し間違えたかもしれないわ。自分の字だから正しいとは限らないもの」
座ったアルノーが一通目を引き寄せた。こちらも隣から行を追った。
最初の条項。財産のこと。仕事のこと。昨日は尋ねるたびに止まった字を、今日は二人で先へ読めた。
「ここだ」
写しの一行をアルノーが指した。
「何か違う?」
「原本では『相手に』とある」
見比べた。帰る予定を知らせる行だった。写しからその言葉が抜けていた。
(よりによって、知らせる相手を忘れた)
机の端の下書きに手が伸びかけた。こちらはもう終わっている。直すのは今読んでいる紙だ。
「ありがとう。そこは書き直すわ」
「足せないのか」
「入るけれど、せっかくの写しに字を詰めたくないの。待っていて」
その頁を新しい紙へ写し直した。アルノーが元の頁と並べて読んだ。こちらから急かさなかった。筆を洗い、指の腹についた黒い筋を拭って待った。
三通目の最後まで来た。
紙の下には名前を書く場所が二つあった。どちらも空白だ。父の字を探すところも、委任状を確かめるところもない。
「わたしから書くわ」
原本を手前へ寄せた。
リーゼル・ヴァイデン。
商会の書付に何度も書いた名だ。最後まで筆を運び、隣の空欄を見た。いつもの署名なら、これで紙を閉じる。
今日は閉じたくなかった。
「待って。あなたのところも見たいの」
「まだ書いていない」
「知っているわ。椅子を離さないでということ」
アルノーがこちらへ紙を向けたまま筆を取った。帳簿の控えで見慣れた字が、名前になる。最後の払いだけが、いつもより長かった。
アルノー・ヴェスト。
濡れた二つの名の間へ指を置きかけ、引いた。
「触るな」
「分かっているの。……乾くのが遅いわね」
「普段も同じだ」
そんなことはないと思った。帳簿の署名を、こんなに待って見たことはない。
残る写しにも、一通ずつ名を書いた。アルノーが続けた。こちらが筆を置くと受け取り、彼が置くとまた取った。同じ壺へ筆先を入れるだけで、肘が近かった。
「全部か」
「全部よ。どこにも『代』はないわ」
紙を少しずらすと、光を返していた字が黒く落ち着いた。三通とも自分の名の隣に、同じ人の名がある。
アルノーの手が机から離れた。その手を、リーゼルは取った。
「あなたと暮らしたいから、書いたの」
言葉にすると頬が熱かった。紙のことなら、いくらでも言えると思っていたのに。
握られた手に力が返った。右眉の傷が動き、アルノーがもう一度、二つの名を見た。
「俺もだ」
先に手を離したのは、棚から茶を取るためだった。二つの杯を運び、乾いた原本から離して置いた。
登録に送る紙と、手元へ残す紙を分けた。原本は翌朝、王都の王室記録院へ送る。署名から七日以内という期限を、日付の下に確かめた。
自分の写しは父の契約書の隣へ置いた。アルノーの写しは彼が持った。
片づけ終えても、隣の椅子には人がいた。
原本を送った後、登録の知らせを待った。
机の上には商会から届いた控えが増えた。アルノーは坂の上へ戻る前に、次に来る日を告げた。国境の用で日が変わったときには、短い書付が届いた。
帰る予定の行は、少し右へ傾いていた。アルノーの控えで見慣れた字だった。
王室記録院から届いた封書を、アルノーが来る前に開けた。
婚姻契約の登録を済ませたとあった。日付の下まで読んで、折りかけていた紙をまた広げた。
戸口で靴の泥を払う音がした。
「届いたわ」
挨拶より先に紙を出した。アルノーが外套を脱ぎ、隣に座った。
「記録院か」
「登録されたの。読んで。わたしはもう読んだけれど」
渡した後も顔を見ていた。自分の写しは棚にある。取り出して並べる用はなかった。
「坂の上へ来るか」
「暮らす荷物を持って?」
「運ぶ」
「少しずつでいいわ。明日の朝に全部は移せないもの。着るものと、使う紙から持っていく」
アルノーがうなずいて紙を返した。自分の写しの間へ入れると、署名の日付が目に入った。あの日に書いた名が、今は記録院にもある。
「でも、その前に一緒に行きたいところがあるの。河港へ」
「商会の用か」
「帳場で確かめたいものがあるの。それと親方に会いたいわ。北の橋のこと、手紙では知らせたけれど」
「南の橋を見たいのか」
伯爵邸を出た朝に、歩いて渡った橋だ。欄干の印を最後に触ってから、冬を一つ越した。
「見たい。あなたは行ける?」
「関所の荷のことで河港へ行く用がある」
「一緒に行こうと言っているのよ。用だけではなくて」
アルノーが杯を置いた。
「一緒に行く」
(最初からそう言ってくれたらいいのに。いいえ、わたしも用から話したわね)
「橋ではわたしに案内させてね。見せたいものがあるの」
「見せてくれ」
出発までに商会の控えを揃えた。留守のあいだに届く荷のことを番頭へ知らせ、親方にも訪ねたいと書いた。
「河港では何日いる」
「帳場の用が済むまで。親方にも会える日を聞いてあるわ。往きも戻りも、途中で泊まるのでしょう?」
「道を見て宿を決める」
「では帰る日はまだ決めないでおく。番頭さんには河港から知らせるわ」
手紙を閉じた。空ける日数は、分かってから足す。乗せる紙だけ先に鞄へ入れた。
出発の朝、馬車は家の前の道で待っていた。馬車置き場の三枠目は空いたままだった。
乗り込むところでアルノーが鞄を受け取った。
「重いな」
「帳簿ではないわ。控えよ」
「同じだ」
「同じではないの。帳簿なら、もう一つ鞄が要るもの」
隣に座ると掛け布が膝に来た。片端をアルノーのほうへ引いた。こちらへ寄りすぎた布の下に、彼の膝が収まった。
河港に着いてからは、昼を帳場で過ごした。
番頭の書いた控えと荷の数を突き合わせ、商会長の署名が要る紙に名を入れた。アルノーは別の用へ出た。夕方、宿へ戻ると彼の外套が掛かっていた。
商会の仕事を終えた朝、ファルケ橋へ向かった。
橋の入口で通行税を払った。受け取った書付にローゼン商会の名があった。畳んで鞄へ入れた。
欠けた石を置く場所に縄が張られていた。その脇を荷馬車が通っている。石を打つ音は、下の岸から来ていた。
「奥様」
ハンスがこちらへ上がってきた。白い前掛けに濡れた砂がついていた。北へ来た日の外套は着ていない。
「親方。お邪魔になりませんか」
「縄の外ならな」
足元の縄から一歩離れた。アルノーも隣へ寄った。
「北の橋は冬を越しました。三枚目も沈みません。溝も、水が流れていました」
「手紙を読んだ。絵はなかったな」
「今度は字で足りると思いまして」
ハンスの口の端が動いた。アルノーのほうは見なかった。二人に笑われると、いびつな川まで思い出しそうだ。
「こちらも、始められたのですね」
「ローゼンが金を出す。見積もりを読んでから、前金を寄越した」
岸へ目を落とした。北で粉袋を積んだ職人が、石のそばにいた。こちらに気づいて手を上げた。振り返すと、男はまた石を抱えた。
「石はこれから据える。下を終えてからだ」
「では出来上がったところは、また見に来ますね」
「橋は逃げん」
親方が短い指で前掛けの砂を払った。ここから先の工事を聞こうとして、鞄の留め金へ手が行った。紙を出す用意はある。
今日は見積もりを受け取る相手ではなかった。
留め金から手を離した。
「親方。また渡りに来ます」
「そのために直してる」
下から声が掛かった。ハンスが片手を上げ、岸へ戻った。石を持つ二人が待っている。短い指が置く場所を示すと、男たちの腰が沈んだ。
欄干に沿って歩いた。手を置く高さから少し下に、印が残っていた。
親指の爪ほどの窪み。
手袋を外して触れた。溝の縁を指の腹で辿る。石は冷たかった。冬を越しても、指が覚えていたところにある。
「親方の印か」
「そう。ずっと前に見つけたの。師匠から受け継いだ印なのですって」
アルノーが屈んで見た。こちらの指のすぐ横で、石の線を目で追っている。
「小さいな」
「見ていないと分からないでしょう。わたしも、何度もここへ来た後で見つけたの」
「君は覚えていた」
「どの石かはね。でも、まだあるかは触ってみたかったの」
「残っているわね」
彼に言ったのか、印に言ったのか、自分でも分からなかった。
遠くで荷の数を呼ぶ声がした。帳場の窓を開けると聞こえた声だった。橋の先へ目をやれば、伯爵邸へ向かう道も見えた。
指を離した。もう一度だけ印を見て、手袋をつけた。
アルノーは急がずに待っていた。
「行きましょう」
「もういいのか」
「見たかったものは見たわ。あなたと帰るの」
橋を渡り切った。欄干から離れた手をアルノーが取った。手袋越しでも、その手は石より温かかった。
帰りの道でも、夜は宿で過ごした。
馬車の中で商会の控えを読みかけ、揺れる字に負けて畳んだ。アルノーが眠っていた。鞄を座席の下へ押し、落ちかけた掛け布を直した。
こちらの肩へ重みが来た。揺れるたびに彼の頭が肩口から滑りそうになる。背を少しずらして受けると、重みが落ち着いた。
(この人も、馬車では眠るのね)
外の道を見た。紙は読めなくても、隣の袖はよく見えた。控えを読むときより窮屈な姿勢なのに、しばらくはこのまま座っていたかった。
ハルデンへ着く頃には、馬車の側板に乾いた泥が重なっていた。
父の家の前で停まりかけた御者へ、馬車置き場のほうを示した。屋根の下に三つの枠がある。昔の伯爵邸で、窓から見た並びとは違う。ここでは一つずつが狭い。
「三つ目へお願いします」
馬車が屋根の下へ入った。車輪が止まる。留守のあいだに飛んできた葉が、その輪の下で砕けた。
アルノーが先に降りた。差し出された手へ自分の手を預け、地面に立った。
「坂の上へ戻るの?」
「明日の朝だ」
「では今日は、ここでお茶を淹れるわ。わたしの家に帰ってきた日だから」
「俺も帰ってきた」
アルノーを見た。さっきまで二人でいた馬車が、その向こうにある。
「……ええ。お帰りなさい」
まだ戸も開けていないのに、口に出た。
御者が馬を外し始めた。アルノーはもう片方の手で鞄を持った。まだ手を離さないので、家へ入る鍵を出すには少し困る。
「鍵を取らせて」
手がほどけた。鍵を出してから、こちらから腕へ触れた。外套の下で肘が曲がり、その内側に手が収まった。
振り返ると、三枠目には南の道を走ってきた馬車が入っていた。百合の紋はない。外した掛け布が、座席の背に掛かっている。
「今夜、冷える」
アルノーが襟を寄せた。鍵を握る指先は冷えていた。けれど、添えた手に彼の腕の温かさが来ていた。
(もう、冷えません)
全二十四話、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
『離縁の条件は、六年前に揃っています』は、これで完結です。
最後くらいは、リーゼルたちの机にお茶とお菓子をたっぷり並べて帰りたい気分です。
紙を濡らしたら困るので、杯は少し離して。
お菓子は、片手でつまんでも指が汚れないものがよさそうですね。
二人のおしゃべりが長引いても、途中で席を立たずに済むように。
そして、ここまで読んでくださった皆さまにも一杯。
画面越しではお渡しできませんが、ひと息つく時間のお供になれていたら嬉しいです。
リーゼルの物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




