第8話 空いた枠
——同じ朝。
署名欄に、六つの『代』が並んでいた。
食堂を出て帳簿部屋に戻った。ベルントは席にいた。先に戻っていたのだろう。灰色の上着の背中が帳簿に向かっている。ペンの音はまだ戻っていなかった。
「昨夜の追記は六枚目まで入れました」
「……六十グルデンの分も」
「ええ」
ベルントの背中が動いた。
自分の机に着いた。机の上は片づいていた。帳簿のための机だ。ペン立てとインク壺と、伝票を挟む留め具。六年のあいだ、この机の上に私物を置いたことはなかった。
引き出しを開け、鍵を取り、金庫を開けた。秋の朝の冷気をためた鉄の箱から今月の帳簿を取り出し、机の上に広げた。
最後の頁を開く。月末の締めの、伯爵の決裁欄。
ベルントの律儀な筆跡が六年ぶん並んでいた。小さな代の字が六つ。どの字もほとんど同じ形をしている。年に一度、月末の締めのあとに書かれた字だ。六年のあいだ、この欄に伯爵の名前が入ったことは一度もない。代の字の下に、今年の欄が空いていた。
今月はまだ月末ではない。まだ日がある。けれど帳簿を締めるのは今朝だった。今朝がこの家での最後の朝だから。引き受けた家の帳簿は最後の日まで締める。六年のあいだ、そう決めていた。最後の日が今朝になった。
頁をめくって数字を確かめた。通行税の収入。橋の修繕費。離れの支出。持参金からの補填。繰り越し。指が行の上をなぞった。昨夜と同じ確かめ方だった。昨夜、ベルントのペンが一拍止まった夜にも同じように数字を確かめた。合っていた。今朝も合っている。昨夜の六枚目——手鏡の磨き直し代六十グルデンまで入っている。空欄はない。六年のあいだ埋めてきた空欄の、最後のひとつまで。
最後の頁に戻った。署名欄の空白が待っている。
ペンを取った。袖口を折る。帳簿を汚さないための癖だ。六年、何も考えずにやってきた。今朝が最後の袖口だった。
署名欄に、名前を書いた。
リーゼル・ファルケ。
代の字ではなかった。ペンの先が紙の上を走るとき、帳簿の数字を書くのとは手の動きが違った。数字は手首で足りた。名前は肩から動いた。数字は正確さのために書く。名前は、自分のために書いた。六つの代の字の下に、七番目の字は代ではなかった。
伯爵の決裁欄にリーゼルの名前が入ったのは、これが初めてだった。帳簿を締めたのはずっとリーゼルだった。妻の確認欄には毎月署名してきた。けれど決裁欄は伯爵のもので、代理はベルントのものだった。空欄を見つけたら埋めてきた。けれどこの欄だけは、自分の名前で埋める欄ではなかった。
今朝、この欄に初めて入った。女主人の最後の署名を、自分の名前で。代の字の列に、別の字が加わった。六つの同じ字と、七番目のひとつだけ違う字。
日付を添えた。インクが乾くのを待つあいだ、父の教えたとおりに角を立てた楷書を見ていた。崩さない字だ。父の字に似ている。六年のあいだ帳簿の数字を書いてきた手が、同じ力で名前を書いた。
ベルントのペンの音がまだ戻らない。隣の机から、こちらの手元が見えているのだろう。署名欄に代の字ではない字が入ったことを、この人は見ている。何も言わない。六年、この人は見ていて何も言わなかった。
(来月の帳簿は、誰が締めるのかしら)
帳簿を閉じた。
帳簿を金庫に戻した。
蝋燭は要らなかった。昨夜の前夜には蝋燭を傾けて中を照らした。今朝は窓から朝の光が差している。
帳簿を一番上に置いた。婚姻契約書の写しは食堂にある。食卓の上に広げたまま残してきた。金庫の一番上は、今朝閉じた帳簿になった。
その下に七十一冊が積まれている。六年ぶんの持参金出納帳、収支簿、通行税の記録。リーゼルの字で数字が書かれ、空欄が埋められた七十二冊。最初の一冊は嫁いだ翌月の帳簿だった。父の商会で覚えた書き方で、初めてこの家の数字を書いた。最後の一冊は今朝の帳簿だ。最初の一冊と最後の一冊のあいだに、六年がある。
金庫を閉めた。扉は重かった。鉄の扉が枠に当たって短い音が鳴った。帳簿部屋に響いて、消えた。鍵を回すとき、鉄が指の熱を一瞬だけ奪った。
鍵を引き出しに戻さなかった。机の上に置いた。引き出しの中ではなく、木の面の上に。小さな鉄の鍵が短い音を立てた。六年のあいだ毎月この手で持ち上げた重さだった。次にこの鍵を持ち上げる手は、リーゼルの手ではない。
「ベルントさん」
ペンの音が止まった。
「帳簿は閉じました。今月ぶんの署名も済ませてあります」
「……月末より前に」
「ええ」
「……お発ちになるのですか」
「今朝です」
ベルントが顔を上げた。リーゼルの机の上の鍵と、閉じた金庫を見ていた。
「引き継ぎの書付は」
「机の上にまとめてあります」
「何枚ですか」
「四枚です」
「鍵はここに置きます」
ベルントが椅子から立った。帳簿から目を上げるのは、この人が何かを呑み込むときだ。六年、そうだった。
「鍵は、私が預かります。帳簿は奥様がお戻しになったものも含め、金庫から出しません。次にこの鍵を使う方が来るまで、私が見ております」
「お願いします」
「旦那様にはお伝えに」
「食堂に契約書を広げてあります」
ベルントが机の前まで来た。小太りの短い手が鍵を取り上げた。二十六年、先代の時からこの家の書類に向かってきた手だ。鍵はこの人の手のほうが似合っていた。
「来月の締めは、ベルントさんにお任せします」
「……畏まりました」
「年末の決算は前年の書式に倣ってください。控えは金庫の二段目に」
「前年のものは存じております」
「三月の棚卸しは台帳を先に出しておいてください」
「畏まりました」
「蝋燭の在庫は納戸の棚に台帳をつけてあります」
ベルントのペンが止まった。
「……奥様がつけておいでだったのですか」
ベルントが頷いた。
「月に二回。十本を切ったら補充を頼んでください」
「使用人の給金は月末に台帳のとおりに」
「封蝋と印鑑は引き出しの中に」
「帳簿部屋の鍵は家令が持っています」
「はい」
ベルントが手帳を開いた。
「出納帳の控えは持っていきます。原本は金庫に全部あります」
「はい。心得ております」
「伝票は日付の順に月ごとに綴じてあります」
「奥様と同じ綴じ方で参ります」
「年末の伝票は十二月のぶんの帳簿に綴じてください」
「先代の帳簿はいかがいたしましょう」
リーゼルは金庫のほうを見た。
「そのまま。私が見たのは上の七十二冊です」
ベルントが短く頷いた。
「通行税の台帳は帳簿と別にまとめてあります。金庫の左側に」
「年ごとに」
「ええ。六年ぶん」
「冬場は通行量が落ちます。月ごとの数を台帳に入れてあります」
「心得ております」
「通行税のことは」
「親方には私から手紙を出します」
ベルントが書き留めた。
「修繕費の次の支払いは十一月です。二百四十グルデン」
「見積もりは」
「書付に入れてあります。橋の点検の記録も同じ場所に」
「点検の頻度は」
「年に二度。春と秋です」
「親方への手紙の届け先は」
「帳簿の裏表紙に書いてあります」
リーゼルは窓のほうを見た。
「年始の挨拶状は出さなくて結構です」
ベルントが小さく頷いた。
「離れからの請求書が来たら、今月と同じように処理してください」
「奥様のお書きになった通りに」
「ええ。帳簿に嘘は書かなくていいので」
ベルントが一瞬だけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。この人が笑うところを見たのは、六年で初めてだった。
「離れの出入り帳は台帳に挟んであります。請求書と突き合わせてください」
「はい」
「出入り帳の締めは月末です」
「承知いたしました」
「馬車の手入れの費用は台帳のとおりに」
「承知いたしました」
「署名を、拝見いたしました」
ベルントの細い目がこちらを見ていた。帳簿を見るときだけ開くと思っていた目が、帳簿から離れてこちらを見ている。代の字ではなく名前が入ったことを、この人は見た。二十六年、代の字を書いてきた人が、別の字を見た。
「奥様」
「はい」
「六年、ありがとうございました」
声は短かった。帳簿の数字を読み上げるときと同じ声だった。事務的で、正確で、温度がなかった。六年のあいだ隣の机で何も言わなかった人が、最後に言った言葉がそれだった。
喉の奥が締まった。一拍だけだった。
伯爵家でリーゼルがもらった礼は、それだけだった。夫からは一度もなかった。一年前、五年ぶんの帳簿を「妻の仕事だ。礼を言うことじゃない」と言った人だ。寵姫からもなかった。給仕も家令も、帳簿を締めるのが当たり前のように朝の膳を出した。六年のあいだ、ありがとうと言われたのは今朝が初めてだった。
ベルントだけが言った。
「こちらこそ」
それだけでよかった。ベルントは多くを言う人ではない。リーゼルも多くを返す人ではない。六年のあいだ、この二人のやり取りはいつもそうだった。数字と伝票と、必要なことだけ。
「六年の帳簿に不備はございませんでした」
「ベルントさんの帳簿に倣いましたから」
ベルントが目を上げた。
「先代のころから二十六年ですね」
「ええ。二十六年、この机に」
「来月からは代の字に戻ります」
「ええ」
「お字は——六年、一度もお崩しになりませんでした」
リーゼルは手を膝の上に置いた。
「父に教わった字です」
「……よいお字でございました」
ベルントは鍵を上着のポケットに入れ、席に戻った。ペンの音がすぐに戻る。六年のあいだそうだったように、もう帳簿に向かっている。
帳簿部屋に二つの机がある。六年、この二つの机のあいだで紙が行き来した。伝票と帳簿と請求書と、二十六年ぶんの代の字。これからはひとつの机だけが残る。
帳簿部屋を出た。
廊下を歩いた。食堂の前で足が止まった。扉が少しだけ開いている。
ユリアンが椅子に座っていた。同じ席に、同じ姿勢で。契約書はまだ食卓の上に広がっている。冷めた皿が二枚、手つかずのまま残っている。
夫の右手が食卓の上にあった。指先が契約書の端のほうに伸びている。触れているのか、触れていないのか。廊下からは見えなかった。読んでいるのか、読んでいないのかも。
こちらには気づいていない。気づいているのかもしれない。どちらでもよかった。この人が契約書を読み終わるのを待つつもりはなかった。六年待った。帳簿を締め、空欄を埋め、持参金が減っていくのを帳簿の上で見つめながら、六年待った。お待ちするのは月末までですと今朝言った。もう月末も待たない。
廊下の先に光が見えた。中庭に出る扉が開いている。足を進めた。
自室に入った。
革の鞄はもう用意してあった。昨夜のうちにまとめた。着替えと、父の手紙と、持参金の出納帳の控え。嫁いだときに持ってきたものは鞄ひとつに収まった。六年のあいだ、増えなかった。
鏡の前に立った。いつもは朝のうちに結う髪が、今朝はまだ下りたままだった。結ばなかった。六年のあいだ、この家では毎朝髪を結って出た。女主人として廊下を歩き、帳簿部屋で数字を見るとき、髪は結ってあった。今朝は結ばずに出る。もう女主人ではない。
左手を見た。
薬指に指輪がある。六年、同じ場所にはめていた金の細い輪。婚礼の日にはめて、一度も外さなかった。風呂に入るときも、帳簿を書くときも、金庫の鍵を回すときも。指輪の下の皮膚は白い。日に当たらなかった六年の跡だ。
外した。
薬指の関節を越えて、するりと抜けた。思ったより軽かった。はめていることが当たり前になって、重さを忘れていた。外して初めて、何かをはめていたのだと分かる。薬指が軽くなった。白い跡だけが残っている。
指輪を鞄の隅に入れた。持参金の返還が済んだら返す。預かったものは返す。指輪も、帳簿も、鍵も。
跡は時間が消す。
鞄を肩にかけた。
廊下で給仕とすれ違った。
「奥様、お荷物を——」
「いいの。大したものじゃないから」
「お荷物はそれだけでございますか」
「ええ」
給仕はリーゼルの鞄と、結っていない髪を見ていた。
「お出かけでいらっしゃいますか」
「ええ。今朝で発ちます」
「どちらへ」
「北です」
「……お戻りは」
リーゼルは首を振った。
「いいえ」
「お召し物は」
「部屋に残してあります」
給仕の目がかすかに揺れた。
「お世話になりました」
「奥様——」
給仕が何か言いかけて、止まった。リーゼルの顔を見て、もう一度頭を下げた。深い礼だった。
「お身体にお気をつけて」
給仕も家令も名前を聞いたことがない。六年のあいだ「奥様」と呼ばれてきた。もうその呼び方をされることはない。
廊下の角で家令とすれ違った。鞄を提げた女主人を見て足を止めた。
「奥様、お出かけでございますか」
「今朝で発ちます」
「……旦那様には」
「食堂の契約書をご覧になれば分かります」
家令の目がかすかに動いた。
「お荷物のお手配は」
「この鞄だけです。馬車は使いません」
「門番にはお声がけを」
「自分で伝えます」
「お膳はいかがいたしましょう」
「いつもどおり三人分出して。わたしの分も」
家令が姿勢を正した。
「旦那様のお食事は温め直してあげて」
「……畏まりました」
「離れへのお伝えは」
「要りません」
家令が背筋を伸ばした。
「お手紙の扱いは」
「わたし宛のものがあれば北部ハルデンのヴァイデン家へ転送して」
「承知いたしました」
「分からないことがあればベルントさんに聞いて」
「庭の手入れは」
「台帳のとおりに」
家令が頷いた。
「離れのお膳は」
「いつもどおりに」
家令は深く頭を下げた。毎朝「本日の御用をお伺いしたく」と聞いてきた人だ。明日からは聞く相手がいない。
リーゼルはそのまま廊下を抜けた。
中庭に出た。
朝の光が石畳に落ちている。秋薔薇の蕾が朝露に濡れていた。苗木の代金は帳簿に書いてある。どの花の、何本ぶんの代金かまで。庭師が水を撒いていた。リーゼルに気づいて手を止め、頭を下げた。
「奥様、秋薔薇がもうすぐ開きます」
「水やりを続けてね。代金は帳簿に載せてあるから」
「今年の苗はよく根がつきました」
「七本ぶん、帳簿に載せてあるわ」
庭師が頭を下げた。
「冬の支度もお書きになっていますか」
「ええ。ベルントさんが見てくれます」
「植え替えの苗は」
「十一月に届きます。代金は帳簿に」
鞄を提げた女主人の姿を、庭師はどう見ただろう。何も訊かなかった。
馬車置き場が見えた。
四つの枠。一枠目と二枠目に伯爵家の馬車が収まっている。鷹の紋が朝の光に鈍く光っていた。
三枠目が空いていた。
百合の紋の馬車がない。一年前に持参金で買った馬車の紋を塗り替えた、あの四百グルデンの馬車。帳簿に載っている。『寵姫様の馬車の塗り替え代 四百グルデン』。リーゼルの字で書いた行だ。その馬車が今朝、ここにない。離れの方が乗っていった。いつ出たのかは知らない。朝のうちだろう。石畳の上に轍の跡だけが残っていた。
四枠目はいつもどおり空いている。四枠目が埋まったのを見たことがない。
四つのうち、二つが空いた。以前は一つだった。
馬車には乗らない。持参金で買った馬車は百合の紋をつけたまま、ここからいなくなった。伯爵家の馬車に乗る理由もない。二つの足で門を出ればいい。
門番が扉に手をかけた。
「門をお開けいたします」
「お願い」
「お車のご支度は」
「歩いて出ます」
門番がこちらを見た。
「どちらへお向かいですか」
「北です。ハルデンまで」
「遠うございます」
「ええ」
門番が扉を大きく開けた。
「お見送りの方は」
「ひとりで結構です」
「……お気をつけて、奥様」
「ありがとう」
門を出た。
振り返らなかった。下ろしたままの髪が風に揺れた。秋の朝の風だった。六年前もこの門をくぐった。あのときは馬車で入った。持参金で買った馬車の窓から、門の上の鷹の紋を見上げた。今朝は歩いて出る。門の上は見なかった。
石畳の道が河港のほうへ下っている。ファルケ橋の欄干が見えた。通行税が伯爵領の収入の六割を占める石橋だ。先代が再建し、持参金が修繕を支えてきた橋。
橋のたもとに番人がいた。
「奥様。お車ではございませんか」
「歩いて渡ります」
「通行税の記録にお名前を」
「今日からは要りません」
「台帳はどういたしましょう」
「今月のぶんはそのまま締めてください」
番人が帳面から顔を上げた。
「来月からはベルントさんが台帳をまとめます。つけ方はいままでどおりにお願いします」
「……左様でございますか」
「修繕のこともお願いします。親方には手紙を出しますので」
「畏まりました」
「通行量の記録は月ごとに」
「はい」
欄干のそばを通った。手を置く高さの少し下に、小さな印がある。親指の爪ほどの、石に刻まれた印。石工の親方がこの橋に残したものだ。修繕のたびにこの印を確かめて、石の状態を見ていた。帳簿にはその修繕費が毎年書いてある。指先がかすかに触れた。石が冷たかった。その冷たさが一瞬だけ指先に残った。
橋を渡った。荷車が一台、反対側から来るのとすれ違った。御者が帽子を取った。鞄ひとつを提げて歩いている伯爵夫人に、怪訝な顔はしなかった。今朝この家で何が起きたか、橋の上の人は知らない。明日もこの橋の上を荷車が渡る。通行税の記録が一行増える。その行を書く手が誰の手になるのかを、御者は知らない。
橋を渡り終えた。欄干が背中に遠くなった。
河港の町を歩いた。荷車と人が行き交う通りを抜け、広場に面した石造りの建物を見つけた。入口に王室の紋が掛かっている。王室記録院の書記官がこの町にいた。王都の本院から派遣された役人が、南部の届を受けつけている。
受付に書類を出した。
「離縁の届を出します」
「お名前と、相手方のお名前をお願いいたします」
「リーゼル・ファルケ。旧姓ヴァイデン。相手方はユリアン・ファルケ」
「ファルケ伯爵家の奥様でございますね」
「はい」
書記官が書類の欄を指で追った。
「婚姻の年月をお願いいたします」
「六年です」
「嫡子の有無は」
「ございません」
「婚姻期間中の住所は」
「ファルケ伯爵領です」
書記官が欄に書き込んだ。
「届の根拠条項は」
「第十二条です」
書記官がペンを止めた。
「第十二条に基づく届は夫君の同意を要しませんが、記録院で条項を照合いたします」
「はい」
「婚姻契約書はお持ちですか」
「写しを持っています」
書記官が書類をめくった。四十がらみの男だった。条項を指で追い、書類を裏表に確かめ、署名の有無を見た。離縁の届は珍しくないのだろう。
「夫君の同意書は」
「要りません。第十二条です」
「条項の全文を確認いたします」
「お願いします」
書記官が条項を声に出して読み上げた。
「……嫡子なし。六年の要件。条件を確認いたします」
「そのとおりです」
「婚姻契約書の原本は本院で照合いたします。届は本日付で受理いたします」
書記官が受理の印を押した。
「届が受理された時点で」
「婚姻は解消でございます」
「届の正本と副本は」
「正本は記録院の保管でございます。副本は伯爵家へお届けいたします」
「受理の通知は」
書記官が新しい用紙を出した。
「登録完了後に書面でお届けします。伯爵家への通達は記録院から出します」
「通達の宛先はいかがいたしましょう」
「ユリアン・ファルケ伯爵宛にお願いします」
「通達は書面でよろしゅうございますか」
「書面でお願いします」
「通達は受理の翌日に発送いたします」
書記官が通達の欄に記入した。
「持参金の返還について」
「第十二条の記載のとおりでございますね。全額返還の手続きは登録後に書面でご案内いたします」
書記官が帳簿の写しに目を通した。
「持参金の出納帳は六年ぶんございます。控えは手元にあります」
「原本は」
「伯爵家の金庫に七十二冊。すべて揃っております」
「記帳者は」
「すべてわたしです」
書記官の目がかすかに動いた。
「金額に争いはございますか」
「ございません。帳簿のとおりです」
書記官が書類に一筆添えた。
「帳簿の検分は」
「記録院の手続きに含まれております」
「返還の期日は記録院の通知をもって起算いたします」
「承知しました」
リーゼルは頷いた。
「届から登録までの日数は」
「南部であれば十日ほどでございます」
「届が届くまでのあいだ、婚姻の効力は」
「届の受理をもって解消されております」
書記官が台帳をめくった。
「旧姓に戻りますか」
「ヴァイデンで」
「畏まりました。届出人のご住所を」
「北部ハルデン、ヴァイデン家の屋敷宛でお願いします」
書記官が住所の欄を指で確かめた。
「ご住所はお間違いございませんか」
「間違いありません」
「畏まりました」
「届出人の印は」
「持っておりません」
書記官が署名欄を示した。
「ご署名のみでお受けいたします」
リーゼルは署名した。父に教わった楷書で。
「届の写しをお持ちになりますか」
「お願いします」
書記官が控えを書き、印を押した。
「こちらが控えでございます。届出の番号が入っております」
「確かに」
「控えは大切に保管なさってください。届出の番号が照合の鍵でございます」
「心得ています」
書記官のペンが台帳に日付と名前を書いた。リーゼル・ファルケ。今朝二度目に書かれた名前だった。一度目は帳簿の署名欄に自分の手で。二度目は離縁の届に、書記官の手で。事務的な手つきだった。
「以上でございます」
「ありがとうございます」
六年ぶんの帳簿と空欄が、窓口の一行になった。書記官はもう次の書類に手を伸ばしている。
受付を出た。
町を出た。
北への街道は静かだった。朝の荷車の行き来が終わったあとの、踏み固められた土の道を歩いた。
革の鞄が肩に食い込んでいる。鞄の中に着替えと父の手紙と出納帳の控えと、指輪がひとつ。六年ぶんの暮らしの持ち物が、これだけだった。
ハルデンは北の国境の町だ。父が遺した家がある。小さな屋敷だ。ヴァイデン男爵家が国境に持っていた古い家。父の死後も手放さなかった。帳簿の上だけで残してきた場所が、今日から住む場所になる。帳簿を締める金庫はない。空欄を埋める机もない。それでも屋根がある。父が遺した屋根だ。
足は軽かった。六年のあいだ帳簿部屋の椅子に座っていた足が、街道の土を踏んでいる。並木が秋の風に揺れている。葉が一枚、肩に落ちて滑り落ちた。下ろした髪が風に揺れた。六年前の秋に嫁いで、六年目の秋に出ていく。薬指の跡だけが白く残っている。鞄の底で指輪が歩くたびに小さく揺れていた。
足は止まらなかった。
背中の向こうに伯爵家の屋根が遠くなっていく。橋はもう見えない。欄干の印も見えない。
並木の隙間から、馬車置き場の屋根だけがかすかに見えた。
四つの枠。二つは埋まり、二つは空いている。鷹の紋の馬車が二台。三枠目に百合の紋はなく、四枠目には何もない。
帳簿の署名欄には七つの字が並んでいる。代の字が六つと、リーゼルの名前がひとつ。金庫の中に七十二冊。引き出しの上に鍵がひとつ。食卓の上に契約書がひとつ。
空いた枠が、朝の光の中に残っていた。
鞄ひとつの旅立ちは身軽でいいな、と思う一方で、何を入れるか考えると案外難しそうです。
着替えや大事な書類を入れたあとで、好きな本を一冊足すかどうか。
宿で読む時間を想像すれば持っていきたいし、坂道を想像すれば置いていきたくなります。
しかも、出発するときに詰め込みすぎると、道中で何か見つけても入りません。
リーゼルには、旅先で荷物を少し増やすくらいの寄り道もしてほしいです。
どうか道中、お気をつけて。




