第7話 第十二条
——同じ朝。
『代』の字が、朝の光の中にあった。
帳簿部屋で指が止まった契約書を閉じ、机から持ち上げた。重さはほとんどない。父が選んだ厚い上質の紙が十数枚。六年のあいだ金庫の一番上にあったものが、今は腕の中にある。
紙の角が袖口に触れた。帳簿を運ぶときと同じ持ち方をしていた。六年、この腕は帳簿を運んできた。月末の締めの朝に金庫から取り出し、机に広げ、数字を確かめ、また金庫に戻す。同じ動作で今朝、契約書を運んでいる。
隣の机で、ベルントのペンが止まった。
「奥様。それは——」
ベルントの目が紙の束に触れた。
「ええ。金庫から」
「今朝の月次は、私が進めます」
「お願いします」
「昨日の伝票は帳簿に入れてあります。受領書の控えも」
「助かります」
ベルントが頷いた。
「少し、食堂を借ります」
「……畏まりました」
ベルントはそれ以上何も訊かなかった。契約書を抱えて帳簿部屋を出ていく女主人の背中を、この人はどこまで見ていたのだろう。六年のあいだ、隣の机から何も言わなかった人だ。
廊下に出た。朝の光が窓を通して石の床を横切っている。離れのほうから食器の音がかすかに聞こえた。あちらの朝食は始まっている。
食堂に入ると、朝の光が長い食卓を横切っていた。
皿は三つ並んだままだった。夫のぶん。離れの方のぶん。リーゼルのぶん。リーゼルの皿だけが先に下げられている。残る二枚の上で、スープは冷め、パンには手がつけられていない。昨夜、三人分のお膳を食堂にと頼んだ。頼んだとおり三枚が揃って、使われたのはいつもどおり一枚だけだった。
食卓の上に、契約書を広げた。
最後の頁を開き、署名欄が見えるようにする。朝の光が父の楷書を照らした。ユリアン・ファルケと書かれた名前。筆跡は整っているが、名前の最後の一画が跳ねていない。夫の字ではない。六年、この名前を見てきた。夫の名前を、夫以外の手で書いた字を。
その横に、小さな字がひとつ。
代。
ベルントの律儀な筆跡だった。委任状に基づく代理署名の印。六年間、金庫の暗がりの中にあった一字が、今朝初めて食卓の光の中に出た。
給仕が控えていた。
「旦那様にお伝えして。食堂にいらしてくださいと」
「畏まりました」
「お一人でよろしいですか」
「ええ」
「わたしが呼んでいると、そう伝えて」
給仕が頷きかけて、足を止めた。
「旦那様は今、どちらに」
給仕が少し間を置いた。
「離れのほうかと存じます」
「構いません。お伝えして」
「お茶のご用意は」
「要りません。旦那様にもお出ししなくて結構です」
「……朝食はいかがいたしましょう」
「そのままで」
六年のあいだ、リーゼルが夫を食堂に呼んだことは一度もなかった。帳簿のことは帳簿部屋で済ませた。離れの出費のことはベルントを通した。夫を食卓に呼ぶのは、今朝が初めてだった。
食卓の椅子に座り、契約書の頁を開いたまま待った。
窓の外から中庭の石畳を歩く足音が聞こえた。庭師が水を遣っている。秋薔薇はまだ蕾のままだ。苗木の代金は帳簿に書いてある。離れの花壇の花代も、毎月の伝票で通ってくる。
給仕が戻ってきた。
「旦那様にお伝えいたしました」
「すぐにいらっしゃるとのことです」
「お一人ですか」
「はい。お一人でいらっしゃいます」
「ありがとう。食卓はそのままに」
給仕が下がった。
契約書の上に自分の左手を置いた。薬指に指輪がある。六年、同じ場所にはめてきた。指輪の下の皮膚は少しだけ白い。外せば跡が残る。残るだけだ。
(代わりに読み上げない。六年、一度もしなかった)
契約は、署名した本人が読むもの。読まない相手に、こちらから読み聞かせはしない。
父がそう教えたのではない。父は「読んだ人の味方をする」と言った。読まない人の代わりに読んでやれとは言わなかった。だからリーゼルも読まなかった。夫が読まないなら、読まないままでいい。帳簿を締め、空欄を埋め、持参金を回して、読まない人の隣で六年を過ごした。
契約書の頁をめくった。第一条から順に目で追う。父の楷書が並んでいる。どの条項も角の立った字で書いてある。第五条。第六条。めくる。第九条。第十条。第十一条。
第十二条の行で指が止まった。先ほど帳簿部屋で止まったのと同じ場所だった。今朝二度目だ。
今朝は読む。
六年で一度だけ。
廊下を歩く足音が近づいてきた。重い足音だった。
夫が食堂に入ってきた。金に近い茶の髪。肩幅のある体。仕立てのよい上着を着て、こちらを見た。目が食卓の上の紙の束に触れて、わずかに動いた。
「呼んだそうだね」
「お座りください」
向かいの椅子を引いて座った。冷めた皿には目をくれなかった。目の前のパンにも手を伸ばさない。この人は、自分の皿の前で食べないことに気がつかない人だった。
「朝食がまだだったんだが」
「お皿はお出ししてあります」
「……冷めているようだが」
夫の目がようやく皿に行った。冷めたスープ。手のつけられていないパン。それから空のリーゼルの席を見て、また契約書のほうに目を戻した。
「ええ。少しお話があります」
「帳簿のことか」
「いいえ」
夫の目が食卓の上の紙の束をかすめた。
「……急ぎの話か」
ペンだこのない手が、食卓の縁に置かれていた。食卓と帳簿部屋のあいだを、この手が紙に向かって伸びたことは一度もない。
「旦那様」
「何だ」
「婚姻契約書です」
夫の目が紙の束の上を走った。走っただけだった。字を追ってはいない。紙の形と大きさを見ただけだ。六年、そうだった。
「……見覚えがない」
「お手に取ったことがございませんから」
夫の目が紙の上を泳いだ。
「……いつの書類だ」
「六年前のものです」
「……何月の書類だ」
「九月の十三日です」
「……婚礼の前月か」
「はい。式の三十日前に」
「……どこにあった」
「わたしの金庫に」
夫は何も言わなかった。
「この契約書の写しを、旦那様はお読みになったことがありますか」
「……ベルントに任せていた」
「はい。ベルントさんに」
夫の手が食卓の上で動いた。
「署名もですか」
「ああ。署名もだ」
声に迷いはなかった。
「ベルントに委任した。先代からそうしていると聞いている」
「先代の契約書にも、ベルントさんが署名されたのですか」
「……そう聞いている」
「委任状はお手元にございますか」
「……ベルントが持っていると思う」
声は穏やかだった。六年前の初夜と同じ穏やかさだ。窓の前に立って「君を愛することはない」と言ったときと、同じ温度。穏やかに言えることしか、この人は言わない。穏やかに言えないことは、紙に書かせて読まずに済ませる。
(この人の穏やかさは、知らないことの上に立っている)
「契約書は十二条あります」
「……知らなかった」
「お読みになっていないのですから」
責めてはいない。数字を先に言う癖は、父に似た。
「……一条も読んでいない」
「十二も……。五つか六つだと思っていた」
「条項は一つにつき三行から五行です」
「……十四頁もあるのか」
「はい」
声が小さくなっていた。
「五条で足りる契約書を、父は十二条にしました」
「……一つ一つを、お父上が書いたのか」
「はい」
夫の手が皿の縁をかすめた。五条で足りるのに十二条にした意味を、この人は訊かなかった。訊かないのは、訊いてはいけないと分かったからではない。そこまで考えが及んでいないだけだ。
リーゼルは契約書の頁をめくり、第十二条の行に指を置いた。
父の楷書が指の下にあった。角の立った、読み間違えようのない字。帳場の伝票にも仕入れの契約書にも同じ字を書いた人の、崩さない筆跡だった。
息を吸った。喉の奥がきつく閉じた。
声を出す前に、一拍だけ止まった。
食堂に音がなかった。窓の外の鳥も、庭師の水音も、遠くなった。自分の息の音だけが聞こえた。
(わたしは今から、六年で一度もしなかったことをする)
(署名した本人が読むものを、代わりに、声に出して読む)
指が紙の上にあった。左手の薬指の指輪が紙の端に触れて、小さく、冷たい音がした。六年前の秋の夜にも聞いた音だった。あの夜は初夜の寝室で、指輪が契約書の端にぶつかった。今朝は同じ契約書の同じ紙の上で、同じ音が鳴っていた。
顔を上げた。夫が向かいに座っている。六年、同じ食卓の向かいにいた人が、今は契約書を挟んで座っている。
「契約は、読んだ人の味方をします」
父の言葉だった。六年前の夏、書斎で鉛筆を走らせながら父が言った口癖。今、リーゼルの声で食堂の空気を渡っていった。父の声ではない。リーゼルの声で、リーゼルの言葉として。
「お父上の——」
「はい。父の言葉です」
それだけ言って、視線を契約書に落とした。
「第十二条を読みます」
「……読む必要は——」
「お聞きください」
夫は口を閉じた。
「声に出して、読みます」
声は帳簿の数字を読むときと同じだった。感情は乗せない。書いてある字を、そのまま読む。六年、帳簿でそうしてきた。
「——婚姻より六年、嫡子なき場合、妻は持参金の全額とともに離縁できる」
向かいの椅子が軋んだ。夫の息が止まっていた。
「……持参金の」
声が掠れた。
声は震えなかった。六年かけてこの字を読んできた。暗がりの中でも読めた。目を閉じても読めた。声に出すのが初めてなだけだった。
「夫の同意を、要しない」
読み終えた。
食堂に音がなかった。窓の外で鳥が鳴いていた。庭師の水音がかすかに聞こえた。食卓の上の冷めた皿に、朝の光が落ちていた。
「……もう一度」
短い声だった。
リーゼルは同じ行に目を落とした。
「——婚姻より六年、嫡子なき場合、妻は持参金の全額とともに離縁できる。夫の同意を、要しない」
二度目は一息だった。同じ字を、同じ声で。
「……夫の同意を、要しない」
夫が繰り返した。最後の一行を。
「……書いてあるのか。本当に」
「六年前に、もう——」
リーゼルは紙の上を指で示した。
「ここに、書いてあります」
「……読めと言うのか」
「お読みにならなくて結構です」
夫の手は、契約書の上に伸びなかった。
「……なぜ今なんだ」
穏やかではなかった。声が上ずっていた。六年で初めて聞く温度だった。
リーゼルは顔を上げた。夫の目を見た。青い目だった。人を見るとき相手の後ろの壁を見るこの人が、今は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「六年前から、この条項はありました」
「……六年——」
「今、その条件が揃いました」
「……条件が、揃った」
声が低くなった。
「六年が経って——。ずっと、ここに——」
途切れた。
(この家の帳簿を締めた。持参金を回した。空欄を見つければ埋めた。誰の空欄でも。この人が読まない契約書の向こう側で、わたしは全部の数字を知っていた)
(出ていかなかったのは、帳簿がまだ開いていたからだ。引き受けた仕事は、最後の日まで締める)
夫が椅子の上で動いた。立ち上がりかけて、座り直した。椅子の脚が床を擦る短い音がした。
「読んでいない」
短い声だった。
「僕は、この契約書を一度も読んでいない」
「存じております」
「存じて——。ずっと」
「はい」
夫の目が揺れた。
「ベルントに任せていた。先代もそうしていたと——」
「ベルントさんはお読みになりました」
夫の手が食卓の縁を握っていた。指の節が白くなっていた。
「……ベルントが。全条を」
「全条です」
短く答えた。
「……知っていたのか。この条項を」
「はい」
「六年、知っていて——」
リーゼルは小さく頷いた。
同じ返事だった。
「……知らなかったのは、僕だけか」
頷いた。
「……何年目に知った」
「署名する前です」
「……署名の前」
「ええ。父が書き上げた日に読みました」
夫の手が膝の上で握られた。
「……ベルントからは、何も報告がなかった」
「旦那様がお訊ねにならなかったからです」
「……訊ねなかった」
それ以上は言わなかった。知っていて六年動かなかった理由を、この人に説明するつもりはなかった。説明しても届かない。読まない人に言葉で伝えても、言葉は紙の上を滑るだけだ。紙の上に書いてある字のほうが、声よりも確かだった。
「旦那様。写しの余白をご覧ください」
リーゼルは契約書の頁を指で示した。第十二条の条文の横。余白に、小さな字が書き込まれていた。
父の角の立った楷書。
『使わずに済むならそれでいい。済まないなら、読んだ人の味方をする』
夫が紙の上に身を乗り出した。初めて、契約書の字を見ていた。条文ではなく、余白の字を。父の字を。唇がかすかに動いた。声にはならなかった。
「お父上の字か」
「父が写しに書いたものです。わたしが嫁ぐ日に、この写しを渡してくれました」
「……嫁ぐ日に。お父上が」
夫の声の勢いが落ちていた。
「はい」
「……写しが別にあるのか」
「はい。正本はこちらの金庫に。写しはわたしの手元にございます」
「……どちらが先にあった」
「正本が先です。写しは父が持ち帰りました」
「……この条項を入れたのはお父上か」
沈黙が答えだった。
「……お父上は、僕に会ったことがあるのか」
「婚礼の前に一度、ご挨拶にいらした折です」
夫は身を引いた。
「……六年」
「……知っていて嫁いだのか」
答えなかった。
夫は余白の字を見ていた。初めて見る字だった。この写しが金庫の一番上にあることを、この人は知らなかったのだろう。金庫を開ける鍵がどの引き出しにあるかも知らないはずだ。
(使わずに済むなら、それでいい。お父様はそう言った。使わずに済むなら)
(済まなかった)
「君なら——」
夫が何かを言いかけた。止まった。
(「君なら気にしないだろう」。旦那様はいつもそう仰いました。馬車の紋のときも、離れの出費のときも。わたしが気にしないと決めつけて、その上に穏やかでいた)
リーゼルは何も言わなかった。
「ベルントさんを呼んでください」
「……ベルントを」
給仕に頼んだ。夫は何も言わなかった。
足音が廊下を来た。灰色の上着の補佐官が食堂の入口に立った。小柄で、髪が薄く、袖口にインクの染みがある。帳簿部屋にいるときと変わらない姿だった。
「お呼びでございますか」
「ベルントさん。旦那様の前で確認したいことがあります」
ベルントの目が食卓の上を走った。開かれた契約書。署名欄の横の、自分の字。
「……署名の件でございますか」
「はい」
一拍、止まった。昨夜の帳簿部屋で代の字を書き終えてから止まったのと、同じ間だった。
「……旦那様」
補佐官は夫のほうに向き直った。
「第十二条でございます」
「私が、代わりに署名いたしました」
声は短かった。二十六年、この家で書類に署名してきた人の声だ。先代の契約にも、この人は代の字を書いた。同じ字を、同じ筆跡で。
「……全条、読んだのか」
「全て、目を通しております」
「……いつ読んだ。署名の前か、後か」
「署名をお預かりする前の晩に、全条を」
ベルントの声は揺れなかった。
「……ずっと、読んでいたのか」
「はい。署名の前に、全条」
「第十二条もか」
「はい。すべての条項をです」
「……報告の義務は」
「委任状にはございません。署名と封蝋の委任です」
夫はベルントを見ていた。口が動いた。声は出なかった。
「ベルントさん。帳簿の引き継ぎの件は」
「すべて帳簿部屋にございます」
「ベルントさん。ありがとう」
リーゼルが言った。確認はそれだけでよかった。
「奥様」
ベルントは短く頭を下げて、食堂を出ていった。灰色の背中が廊下に消える。インク壺を腰に提げた、いつもの姿だった。
リーゼルは椅子から立った。
「離縁の届は、王室記録院に出します」
「届の書式は整えてあります」
「……届はいつ出すつもりだ」
「月末の帳簿を締めた翌日です」
「……離縁——」
「手続きの話です」
夫は座ったままだった。
「第十二条のとおり、旦那様の同意は要りません」
(持参金の返還。六年分の出納帳。金庫の中の七十二冊の帳簿。三万グルデンがどこに使われ、いくら残っているか。全部知っている。離れの方の出費がいくらかも。橋の修繕費がいくらかも)
それは言わなかった。数字のことは帳簿に書いてある。帳簿は嘘をつかない。
「持参金の返還については、帳簿部屋に六年分の出納帳がございます」
「持参金——」
「三万グルデンの全額です」
「……全額」
声が詰まった。
「……三万グルデンが、全額残っているのか」
「帳簿に記してあります」
「月末の帳簿は、わたしが締めます。最後の日まで」
「残りの帳簿は七十二冊です」
「鍵はベルントさんにお返しします」
夫が顔を上げた。手が食卓を離れていた。リーゼルの目を見ていた。相手の後ろの壁ではなく、こちらを見ていた。六年で、初めて。
「引き継ぎの書類は帳簿部屋に用意してあります」
「……待ってくれ」
「お待ちするのは、月末までです」
「……月末とは何日だ」
「二十八日です」
リーゼルは食堂を出た。
振り返らなかった。
契約書は食卓の上に広げたままだった。十二の条項が父の楷書で並んでいる。署名欄の横に小さな代の字。余白に添えられた父の書き込み。朝の光が紙の上に落ちて、角の立った字の一画一画を照らしていた。
冷めた皿が二枚、手つかずのまま残っていた。
夫の手は、まだ契約書に触れていなかった。




