↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/24

第7話 第十二条

——同じ朝。


 『代』の字が、朝の光の中にあった。


 帳簿部屋で指が止まった契約書を閉じ、机から持ち上げた。重さはほとんどない。父が選んだ厚い上質の紙が十数枚。六年のあいだ金庫の一番上にあったものが、今は腕の中にある。


 紙の角が袖口に触れた。帳簿を運ぶときと同じ持ち方をしていた。六年、この腕は帳簿を運んできた。月末の締めの朝に金庫から取り出し、机に広げ、数字を確かめ、また金庫に戻す。同じ動作で今朝、契約書を運んでいる。


 隣の机で、ベルントのペンが止まった。


「奥様。それは——」


 ベルントの目が紙の束に触れた。


「ええ。金庫から」


「今朝の月次は、私が進めます」


「お願いします」


「昨日の伝票は帳簿に入れてあります。受領書の控えも」


「助かります」


 ベルントが頷いた。


「少し、食堂を借ります」


「……畏まりました」


 ベルントはそれ以上何も訊かなかった。契約書を抱えて帳簿部屋を出ていく女主人の背中を、この人はどこまで見ていたのだろう。六年のあいだ、隣の机から何も言わなかった人だ。


 廊下に出た。朝の光が窓を通して石の床を横切っている。離れのほうから食器の音がかすかに聞こえた。あちらの朝食は始まっている。




 食堂に入ると、朝の光が長い食卓を横切っていた。


 皿は三つ並んだままだった。夫のぶん。離れの方のぶん。リーゼルのぶん。リーゼルの皿だけが先に下げられている。残る二枚の上で、スープは冷め、パンには手がつけられていない。昨夜、三人分のお膳を食堂にと頼んだ。頼んだとおり三枚が揃って、使われたのはいつもどおり一枚だけだった。


 食卓の上に、契約書を広げた。


 最後の頁を開き、署名欄が見えるようにする。朝の光が父の楷書を照らした。ユリアン・ファルケと書かれた名前。筆跡は整っているが、名前の最後の一画が跳ねていない。夫の字ではない。六年、この名前を見てきた。夫の名前を、夫以外の手で書いた字を。


 その横に、小さな字がひとつ。


 代。


 ベルントの律儀な筆跡だった。委任状に基づく代理署名の印。六年間、金庫の暗がりの中にあった一字が、今朝初めて食卓の光の中に出た。


 給仕が控えていた。


「旦那様にお伝えして。食堂にいらしてくださいと」


「畏まりました」


「お一人でよろしいですか」


「ええ」


「わたしが呼んでいると、そう伝えて」


 給仕が頷きかけて、足を止めた。


「旦那様は今、どちらに」


 給仕が少し間を置いた。


「離れのほうかと存じます」


「構いません。お伝えして」


「お茶のご用意は」


「要りません。旦那様にもお出ししなくて結構です」


「……朝食はいかがいたしましょう」


「そのままで」


 六年のあいだ、リーゼルが夫を食堂に呼んだことは一度もなかった。帳簿のことは帳簿部屋で済ませた。離れの出費のことはベルントを通した。夫を食卓に呼ぶのは、今朝が初めてだった。




 食卓の椅子に座り、契約書の頁を開いたまま待った。


 窓の外から中庭の石畳を歩く足音が聞こえた。庭師が水を遣っている。秋薔薇はまだ蕾のままだ。苗木の代金は帳簿に書いてある。離れの花壇の花代も、毎月の伝票で通ってくる。


 給仕が戻ってきた。


「旦那様にお伝えいたしました」


「すぐにいらっしゃるとのことです」


「お一人ですか」


「はい。お一人でいらっしゃいます」


「ありがとう。食卓はそのままに」


 給仕が下がった。


 契約書の上に自分の左手を置いた。薬指に指輪がある。六年、同じ場所にはめてきた。指輪の下の皮膚は少しだけ白い。外せば跡が残る。残るだけだ。


 (代わりに読み上げない。六年、一度もしなかった)


 契約は、署名した本人が読むもの。読まない相手に、こちらから読み聞かせはしない。


 父がそう教えたのではない。父は「読んだ人の味方をする」と言った。読まない人の代わりに読んでやれとは言わなかった。だからリーゼルも読まなかった。夫が読まないなら、読まないままでいい。帳簿を締め、空欄を埋め、持参金を回して、読まない人の隣で六年を過ごした。


 契約書の頁をめくった。第一条から順に目で追う。父の楷書が並んでいる。どの条項も角の立った字で書いてある。第五条。第六条。めくる。第九条。第十条。第十一条。


 第十二条の行で指が止まった。先ほど帳簿部屋で止まったのと同じ場所だった。今朝二度目だ。


 今朝は読む。


 六年で一度だけ。




 廊下を歩く足音が近づいてきた。重い足音だった。


 夫が食堂に入ってきた。金に近い茶の髪。肩幅のある体。仕立てのよい上着を着て、こちらを見た。目が食卓の上の紙の束に触れて、わずかに動いた。


「呼んだそうだね」


「お座りください」


 向かいの椅子を引いて座った。冷めた皿には目をくれなかった。目の前のパンにも手を伸ばさない。この人は、自分の皿の前で食べないことに気がつかない人だった。


「朝食がまだだったんだが」


「お皿はお出ししてあります」


「……冷めているようだが」


 夫の目がようやく皿に行った。冷めたスープ。手のつけられていないパン。それから空のリーゼルの席を見て、また契約書のほうに目を戻した。


「ええ。少しお話があります」


「帳簿のことか」


「いいえ」


 夫の目が食卓の上の紙の束をかすめた。


「……急ぎの話か」


 ペンだこのない手が、食卓の縁に置かれていた。食卓と帳簿部屋のあいだを、この手が紙に向かって伸びたことは一度もない。


「旦那様」


「何だ」


「婚姻契約書です」


 夫の目が紙の束の上を走った。走っただけだった。字を追ってはいない。紙の形と大きさを見ただけだ。六年、そうだった。


「……見覚えがない」


「お手に取ったことがございませんから」


 夫の目が紙の上を泳いだ。


「……いつの書類だ」


「六年前のものです」


「……何月の書類だ」


「九月の十三日です」


「……婚礼の前月か」


「はい。式の三十日前に」


「……どこにあった」


「わたしの金庫に」


 夫は何も言わなかった。


「この契約書の写しを、旦那様はお読みになったことがありますか」


「……ベルントに任せていた」


「はい。ベルントさんに」


 夫の手が食卓の上で動いた。


「署名もですか」


「ああ。署名もだ」


 声に迷いはなかった。


「ベルントに委任した。先代からそうしていると聞いている」


「先代の契約書にも、ベルントさんが署名されたのですか」


「……そう聞いている」


「委任状はお手元にございますか」


「……ベルントが持っていると思う」


 声は穏やかだった。六年前の初夜と同じ穏やかさだ。窓の前に立って「君を愛することはない」と言ったときと、同じ温度。穏やかに言えることしか、この人は言わない。穏やかに言えないことは、紙に書かせて読まずに済ませる。


 (この人の穏やかさは、知らないことの上に立っている)


「契約書は十二条あります」


「……知らなかった」


「お読みになっていないのですから」


 責めてはいない。数字を先に言う癖は、父に似た。


「……一条も読んでいない」


「十二も……。五つか六つだと思っていた」


「条項は一つにつき三行から五行です」


「……十四頁もあるのか」


「はい」


 声が小さくなっていた。


「五条で足りる契約書を、父は十二条にしました」


「……一つ一つを、お父上が書いたのか」


「はい」


 夫の手が皿の縁をかすめた。五条で足りるのに十二条にした意味を、この人は訊かなかった。訊かないのは、訊いてはいけないと分かったからではない。そこまで考えが及んでいないだけだ。




 リーゼルは契約書の頁をめくり、第十二条の行に指を置いた。


 父の楷書が指の下にあった。角の立った、読み間違えようのない字。帳場の伝票にも仕入れの契約書にも同じ字を書いた人の、崩さない筆跡だった。


 息を吸った。喉の奥がきつく閉じた。


 声を出す前に、一拍だけ止まった。


 食堂に音がなかった。窓の外の鳥も、庭師の水音も、遠くなった。自分の息の音だけが聞こえた。


 (わたしは今から、六年で一度もしなかったことをする)


 (署名した本人が読むものを、代わりに、声に出して読む)


 指が紙の上にあった。左手の薬指の指輪が紙の端に触れて、小さく、冷たい音がした。六年前の秋の夜にも聞いた音だった。あの夜は初夜の寝室で、指輪が契約書の端にぶつかった。今朝は同じ契約書の同じ紙の上で、同じ音が鳴っていた。


 顔を上げた。夫が向かいに座っている。六年、同じ食卓の向かいにいた人が、今は契約書を挟んで座っている。


「契約は、読んだ人の味方をします」


 父の言葉だった。六年前の夏、書斎で鉛筆を走らせながら父が言った口癖。今、リーゼルの声で食堂の空気を渡っていった。父の声ではない。リーゼルの声で、リーゼルの言葉として。


「お父上の——」


「はい。父の言葉です」


 それだけ言って、視線を契約書に落とした。


「第十二条を読みます」


「……読む必要は——」


「お聞きください」


 夫は口を閉じた。


「声に出して、読みます」


 声は帳簿の数字を読むときと同じだった。感情は乗せない。書いてある字を、そのまま読む。六年、帳簿でそうしてきた。


「——婚姻より六年、嫡子なき場合、妻は持参金の全額とともに離縁できる」


 向かいの椅子が軋んだ。夫の息が止まっていた。


「……持参金の」


 声が掠れた。


 声は震えなかった。六年かけてこの字を読んできた。暗がりの中でも読めた。目を閉じても読めた。声に出すのが初めてなだけだった。


「夫の同意を、要しない」


 読み終えた。


 食堂に音がなかった。窓の外で鳥が鳴いていた。庭師の水音がかすかに聞こえた。食卓の上の冷めた皿に、朝の光が落ちていた。


「……もう一度」


 短い声だった。


 リーゼルは同じ行に目を落とした。


「——婚姻より六年、嫡子なき場合、妻は持参金の全額とともに離縁できる。夫の同意を、要しない」


 二度目は一息だった。同じ字を、同じ声で。


「……夫の同意を、要しない」


 夫が繰り返した。最後の一行を。


「……書いてあるのか。本当に」


「六年前に、もう——」


 リーゼルは紙の上を指で示した。


「ここに、書いてあります」


「……読めと言うのか」


「お読みにならなくて結構です」


 夫の手は、契約書の上に伸びなかった。




「……なぜ今なんだ」


 穏やかではなかった。声が上ずっていた。六年で初めて聞く温度だった。


 リーゼルは顔を上げた。夫の目を見た。青い目だった。人を見るとき相手の後ろの壁を見るこの人が、今は真っ直ぐにこちらを見ていた。


「六年前から、この条項はありました」


「……六年——」


「今、その条件が揃いました」


「……条件が、揃った」


 声が低くなった。


「六年が経って——。ずっと、ここに——」


 途切れた。


 (この家の帳簿を締めた。持参金を回した。空欄を見つければ埋めた。誰の空欄でも。この人が読まない契約書の向こう側で、わたしは全部の数字を知っていた)


 (出ていかなかったのは、帳簿がまだ開いていたからだ。引き受けた仕事は、最後の日まで締める)


 夫が椅子の上で動いた。立ち上がりかけて、座り直した。椅子の脚が床を擦る短い音がした。


「読んでいない」


 短い声だった。


「僕は、この契約書を一度も読んでいない」


「存じております」


「存じて——。ずっと」


「はい」


 夫の目が揺れた。


「ベルントに任せていた。先代もそうしていたと——」


「ベルントさんはお読みになりました」


 夫の手が食卓の縁を握っていた。指の節が白くなっていた。


「……ベルントが。全条を」


「全条です」


 短く答えた。


「……知っていたのか。この条項を」


「はい」


「六年、知っていて——」


 リーゼルは小さく頷いた。


 同じ返事だった。


「……知らなかったのは、僕だけか」


 頷いた。


「……何年目に知った」


「署名する前です」


「……署名の前」


「ええ。父が書き上げた日に読みました」


 夫の手が膝の上で握られた。


「……ベルントからは、何も報告がなかった」


「旦那様がお訊ねにならなかったからです」


「……訊ねなかった」


 それ以上は言わなかった。知っていて六年動かなかった理由を、この人に説明するつもりはなかった。説明しても届かない。読まない人に言葉で伝えても、言葉は紙の上を滑るだけだ。紙の上に書いてある字のほうが、声よりも確かだった。


「旦那様。写しの余白をご覧ください」


 リーゼルは契約書の頁を指で示した。第十二条の条文の横。余白に、小さな字が書き込まれていた。


 父の角の立った楷書。


 『使わずに済むならそれでいい。済まないなら、読んだ人の味方をする』


 夫が紙の上に身を乗り出した。初めて、契約書の字を見ていた。条文ではなく、余白の字を。父の字を。唇がかすかに動いた。声にはならなかった。


「お父上の字か」


「父が写しに書いたものです。わたしが嫁ぐ日に、この写しを渡してくれました」


「……嫁ぐ日に。お父上が」


 夫の声の勢いが落ちていた。


「はい」


「……写しが別にあるのか」


「はい。正本はこちらの金庫に。写しはわたしの手元にございます」


「……どちらが先にあった」


「正本が先です。写しは父が持ち帰りました」


「……この条項を入れたのはお父上か」


 沈黙が答えだった。


「……お父上は、僕に会ったことがあるのか」


「婚礼の前に一度、ご挨拶にいらした折です」


 夫は身を引いた。


「……六年」


「……知っていて嫁いだのか」


 答えなかった。


 夫は余白の字を見ていた。初めて見る字だった。この写しが金庫の一番上にあることを、この人は知らなかったのだろう。金庫を開ける鍵がどの引き出しにあるかも知らないはずだ。


 (使わずに済むなら、それでいい。お父様はそう言った。使わずに済むなら)


 (済まなかった)


「君なら——」


 夫が何かを言いかけた。止まった。


 (「君なら気にしないだろう」。旦那様はいつもそう仰いました。馬車の紋のときも、離れの出費のときも。わたしが気にしないと決めつけて、その上に穏やかでいた)


 リーゼルは何も言わなかった。




「ベルントさんを呼んでください」


「……ベルントを」


 給仕に頼んだ。夫は何も言わなかった。


 足音が廊下を来た。灰色の上着の補佐官が食堂の入口に立った。小柄で、髪が薄く、袖口にインクの染みがある。帳簿部屋にいるときと変わらない姿だった。


「お呼びでございますか」


「ベルントさん。旦那様の前で確認したいことがあります」


 ベルントの目が食卓の上を走った。開かれた契約書。署名欄の横の、自分の字。


「……署名の件でございますか」


「はい」


 一拍、止まった。昨夜の帳簿部屋で代の字を書き終えてから止まったのと、同じ間だった。


「……旦那様」


 補佐官は夫のほうに向き直った。


「第十二条でございます」


「私が、代わりに署名いたしました」


 声は短かった。二十六年、この家で書類に署名してきた人の声だ。先代の契約にも、この人は代の字を書いた。同じ字を、同じ筆跡で。


「……全条、読んだのか」


「全て、目を通しております」


「……いつ読んだ。署名の前か、後か」


「署名をお預かりする前の晩に、全条を」


 ベルントの声は揺れなかった。


「……ずっと、読んでいたのか」


「はい。署名の前に、全条」


「第十二条もか」


「はい。すべての条項をです」


「……報告の義務は」


「委任状にはございません。署名と封蝋の委任です」


 夫はベルントを見ていた。口が動いた。声は出なかった。


「ベルントさん。帳簿の引き継ぎの件は」


「すべて帳簿部屋にございます」


「ベルントさん。ありがとう」


 リーゼルが言った。確認はそれだけでよかった。


「奥様」


 ベルントは短く頭を下げて、食堂を出ていった。灰色の背中が廊下に消える。インク壺を腰に提げた、いつもの姿だった。




 リーゼルは椅子から立った。


「離縁の届は、王室記録院に出します」


「届の書式は整えてあります」


「……届はいつ出すつもりだ」


「月末の帳簿を締めた翌日です」


「……離縁——」


「手続きの話です」


 夫は座ったままだった。


「第十二条のとおり、旦那様の同意は要りません」


 (持参金の返還。六年分の出納帳。金庫の中の七十二冊の帳簿。三万グルデンがどこに使われ、いくら残っているか。全部知っている。離れの方の出費がいくらかも。橋の修繕費がいくらかも)


 それは言わなかった。数字のことは帳簿に書いてある。帳簿は嘘をつかない。


「持参金の返還については、帳簿部屋に六年分の出納帳がございます」


「持参金——」


「三万グルデンの全額です」


「……全額」


 声が詰まった。


「……三万グルデンが、全額残っているのか」


「帳簿に記してあります」


「月末の帳簿は、わたしが締めます。最後の日まで」


「残りの帳簿は七十二冊です」


「鍵はベルントさんにお返しします」


 夫が顔を上げた。手が食卓を離れていた。リーゼルの目を見ていた。相手の後ろの壁ではなく、こちらを見ていた。六年で、初めて。


「引き継ぎの書類は帳簿部屋に用意してあります」


「……待ってくれ」


「お待ちするのは、月末までです」


「……月末とは何日だ」


「二十八日です」


 リーゼルは食堂を出た。


 振り返らなかった。


 契約書は食卓の上に広げたままだった。十二の条項が父の楷書で並んでいる。署名欄の横に小さな代の字。余白に添えられた父の書き込み。朝の光が紙の上に落ちて、角の立った字の一画一画を照らしていた。


 冷めた皿が二枚、手つかずのまま残っていた。


 夫の手は、まだ契約書に触れていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。