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第6話 前夜

——前夜。


 請求書が六枚あった。


 帳簿部屋の机に伝票を並べた。花代、布代、薪代、蝋燭、車輪の油。離れからの五枚はいつもの顔ぶれだ。六枚目が混じっていた。


 手鏡の銀枠の磨き直し代、六十グルデン。職人が三月働く額だった。


 先月は五枚だった。先々月も五枚だった。六枚になったのは今月が初めてだ。


 帳簿を開いた。六枚目を今月の頁に書き入れる。


 『離れ 手鏡銀枠磨直し代 六十グルデン』


 日付を添え、ペンを置いた。インクが乾くのを待つあいだに伝票を束ねて帳簿に挟んだ。どの伝票にもリーゼルの字で金額が控えてある。帳場で父に教わった書き方だ。品名と金額の列を揃え、日付を右上に置く。六年のあいだ、この書き方は変えなかった。


 隣の机でベルントが帳簿に向かっていた。灰色の上着に灰色の背中。袖口のインクの染みが今日も増えている。窓の外はもう暗い。秋の夕暮れは早くなった。蝋燭の灯りが帳簿部屋の二つの机と壁の金庫を照らしている。この部屋に明るいものはそれだけだった。


「ベルントさん。今月の伝票は揃いましたか」


「揃っております。離れの追加ぶんを足しまして、月末の締めに回します」


「今日の下書きは、ここまでにします」


 ベルントのペンが一拍止まった。帳簿を途中で閉じるのは、六年で初めてだった。


「よろしゅうございますか」


「ええ」


 それだけ答えた。ベルントは何も訊かなかった。ペンの音が戻る。六年のあいだ、この人は要ること以上を訊いたことがない。訊かない代わりに、この机にはいつもいた。




 帳簿の頁をめくり直した。今月の支出を上からもう一度確かめる。


 通行税の収入。橋の修繕費。離れの支出。持参金からの補填。


 数字はすべて揃っている。空欄はひとつもない。六枚目の六十グルデンを足しても合計は合っている。今月も持参金から補填した額が一番大きい。三万グルデンの持参金で、六年ぶんの帳簿を回してきた。


 帳簿を閉じた。


 机の引き出しに手をかけた。


 開けた。奥に金庫の鍵がある。小さな鉄の鍵だった。いつもは月末にこの鍵で金庫を開ける。月末まではまだ日がある。


 閉じた。


 まだいい。帳簿のインクが乾いてからでいい。


 窓の外を見た。中庭の石畳が月明かりに白く浮いている。その向こうに馬車置き場の屋根があった。四つの枠のうち三つに馬車が収まっている。四枠目はいつも空いている。さらに先に橋の欄干がかすかに覗いていた。橋の輪郭は夜の暗がりに溶けている。明日の朝には荷車があの上を渡る。通行税の記録が一行増える。


 帳簿を開き直した。


 数字を確かめる。合っている。さっき確かめたばかりだ。それでも指が行の上をなぞった。通行税。修繕費。離れの出費。全部合っている。数字が間違っているから開き直したのではなかった。合っている数字をもう一度なぞることに、意味はない。それでも指は止まらなかった。


 帳簿を閉じた。


 引き出しを開けた。鍵はさっきと同じ場所にある。鉄の冷たさが木の引き出しを通して指先に届いた。取ればいい。鍵を取って金庫を開け、帳簿を納めればいい。それだけのことだ。


 指が鍵に触れた。触れただけで、持ち上げなかった。


 閉じた。




 ベルントが書類に向かっていた。伯爵の書類に、一枚ずつ目を通している。署名の要る頁が来ると、ペンを取って署名欄の横にいつもの字を書く。リーゼルの席からその字が見えた。


 『代』


 先代の伯爵の頃からこの字を書いてきた人だ。主の代わりに署名した印。二十六年、署名欄の横にこの一字を添えてきた。先代の契約にも。ユリアンの婚姻契約書にも。


 ペンが止まった。


 書き終えてから止まった。小さな『代』の字を書き終えて、ペンを紙の上に載せたまま動かなかった。


 一拍。


 リーゼルの指が、自分の帳簿の上で止まっていた。


 それから何事もなかったようにペンを引き、次の書類に移った。リーゼルのほうは見なかった。六年、この人は見なかった。




 蝋燭が一本、短くなっていた。替えを出す前に終わらせればいい。


 三度目に引き出しを開けたとき、鍵を取った。


 鍵を差し込んだ。扉が軋む音は、いつも同じだった。低い、短い音。蝋燭を傾けると、金庫の中に影が揺れた。


 一番上に、婚姻契約書の写しが載っていた。三年前の夕方、父の死のあとで一番上に戻した。一番上という場所は、変わっていない。


 その下に帳簿が積まれていた。蝋燭の灯りが冊子の背に届いている。何冊あるかは数えなかった。明日の朝に数えればいい。


 閉じた帳簿を金庫に入れた。契約書の束の下、先月の帳簿の上に重ねる。紙の角と角が揃うように指で直した。金庫を閉めれば見えなくなるのに、帳簿の角は揃える。帳場で覚えた癖だった。


 指が契約書の表紙に触れた。


 『ファルケ伯爵家・ヴァイデン男爵家 婚姻契約書 写』


 父の字だった。どこに書いても崩さなかった楷書。紙は冷たかった。金庫の中で秋の夜気を吸った紙が、指先の温度を静かに奪う。冷たさが指先から手の甲へ、手の甲から腕へ伝った。


 開かなかった。


 蝋燭の芯がひとつ、小さく弾けた。


 指先が紙の上にある。父が選んだ厚い紙は六年経っても手触りが変わらない。


 今夜は開かない。


 指を離した。


 金庫の扉を閉めた。扉は重かった。鍵を回すとき、鉄が指の熱を奪った。鍵を引き出しに戻し、引き出しを閉じた。




 椅子から立った。


「ベルントさん」


「はい」


「明日は少し早く来ます」


「畏まりました」


 帳簿部屋を出るとき、廊下で家令とすれ違った。


「明日の朝のお膳を三人分、離れの方のぶんも、食堂にお願いします。いつもどおりに」


「畏まりました」


 廊下は暗かった。窓の向こうに離れの灯りがまだ見えた。薄い橙色が、窓枠のかたちに切り取られている。あちらはまだ起きている。あちらの灯りが消えても消えなくても、明日の朝は来る。


 引き出しは閉じたまま残っていた。中に鍵がある。その鍵で開く金庫の一番上に、父の字がある。

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